帰還
月見里の陽動は成功した。高速道路に上がった時から、『あれ』の気配もない。だが、すべての問題が瞬時に解決することなど未だ見たことはない。
自分は月見里の後ろに乗っていて、まっさらな空のもとを進んでいた。それがなんだか、妙に居心地悪かった。
けれど、月見里の馬さばきの上手さを肌で感じられて、言い知れぬ嬉しさもある。
いや、やはり複雑だった。
「ああ、やっぱり、絶対に大事になるだろうな……」
先導するヤドヴィガが頭を抱えている。こちらに気づくと、ハッとして前を向き、何事もなかったかのように真剣な顔を作った。けれど、額には汗が浮かんでいた。
このまま道を辿っていけば、おのずとあのジパングへと帰れる。ただし、その帰還には「残念ながら」と頭につける必要があった。
「大目玉どころか、司令官の権限も剥奪されそう」
月見里にそう言われ、うわあとせっかく前を向いていた彼女の頭がうつむく。
「すまなかった。ヤドヴィガ」
「いいんだ。むしろ、私がお前を連れて勢い任せで追いかけてしまったからな。短気は残機?だったけか?私が決めたことだ」
そうは言うけれど、自分が倒れなければ、こうはならなかったはずだ。もっと言えば、あのままあっさり死んでいれば、誰もこんな面倒に巻き込まれなかった。
「いや……」
「それに、月見里は私の部下でもある。部下の責任は上官の責任だ。だから、月見里の行動も私の責任だ。二人が気に病むことはない」
ヤドヴィガはそこで一度息を吸い、無理やり胸を張った。
「決めたぞ。三人で謝る話はなしだ。私が一人で謝る。責任は私が取る」
ヤドヴィガは誇らしげな顔をして、サムズアップした。
安心するべきなのだろう。
だが、その指が少し震えていることに気づいて、ますます胃が重くなった。
本当にどうすればいいのだろう。そもそも、何をすればいいのかも思いつかない。一つも力になれそうにない自分に、嫌に腹が立つ。それが無駄なことにも腹が立ってしまう。
月見里が小さくため息をつくと、馬の歩みを少し速め、ヤドヴィガの横に並ぶ。
「ごめん。やっぱり、これを使って」
そういって、ヤドヴィガに分厚い封筒を一つ渡した。
「――――なっ。これは、まさか!」
それが一体なんであるのかは分からなかったが、ヤドヴィガの目の色が変わっているのを見て、きっと何か打開策になるものが入っているのだと思った。
「大丈夫。ヤドヴィガさんもあなたも処分は免れないけど、落としどころは作れると思う」
やはり、バツは受けてしまうのか。月見里は前を向いたまま、平然とそう言い切ってしまう。けれど、酷いことにはならないのだろうなと、曲がらない背筋を見てそう思えた。
それから、数日経った。無事平穏に戻れてしまった。遅延するどころか、予定よりも早くジパングに到着してしまった。
なるべく早く帰ろうとしたためか、空気も読めずに夜に到着してしまった。だが、真っ暗闇ではなく、まばゆいほどの光が目を刺してくる。遠くにある有刺鉄線付きのゲートがはっきりと見えるくらいに。
「うわ、厳重警戒」
月見里がポツリとつぶやく。サーチライトも焚かれていて、もうすでに待ち構えられているかのようだった。
スポットライトのごとく照らされたヤドヴィガは、思いのほか身を硬くしていた。
だが、意を決したかのように、ヤドヴィガはゲートへ向かって馬を進めた。嫌な緊張感を抱えながら、自分たちもそれに続いた。
ヤドヴィガは馬をゲートへ寄せ、制服の襟元を確かめると、恐る恐るチャイムらしきものへ手を伸ばした。その前に、大きな蹄の音が聞こえた。
直後、雷鳴のような声が落ちてくる。
「ヤドヴィガ・クフィアトコフスキー!」
ヤドヴィガの体が跳ねた。
声の主は、がっちりとした体格の中年の白人男性だった。立派な口髭を蓄え、ヤドヴィガと同じ制服を着て、帽子を身に着けている。
彼の姿を認めるや否や、ヤドヴィガと月見里は馬から下り、自分も慌ててそれに続いた。二人はほとんど同時に直立不動となり、二本の指を立てて敬礼する。
上官なのだろうか。
そう思うより早く、男は馬から降り、乱暴に門の鍵を開けた。
男は何も言わない。
ただ、肩で風を切るように、一直線にヤドヴィガへ近づいてくる。
その顔は、怒りに染まっていた。
「ザ、ザポ――――」
ヤドヴィガが何か言いかけたかと思えば、乾いた音が響いた。ヤドヴィガの顔が横を向き、よろめいた足がもつれて片膝をつく。
「おまえ、どこをほっつき歩いていたんだ!!」
乾いた音だけでは、何が起きたのか理解できなかった。直後に彼の怒鳴り声が響いて、ようやくヤドヴィガが平手打ちされたのだと気づいた。
あまりにも感情のこもった声で、自分でさえ張っ倒されたのかと思うくらいに空気が張り詰める。
彼は、殺さんばかりの勢いで彼女を睨みつけていた。それなのに、ほんの一瞬だけ、帰りの遅い娘を叱る父親のようにも見えた。
けれど、それは長くは続かなかった。ザポロージャンはまた何か言おうとしたが、その前にこちらの存在に気づいた。わなわなと震えていた拳が止まった。
一瞬、ハッとした顔を浮かべたように見えたが、嘘のように、書類を読み上げる役人のような顔になっていた。
「これはこれは、月見里伍長。早いお帰りで」
「はい。ザポロージャン少尉。予定より早く帰還できました」
彼はザポロージャンというらしい。
ザポロージャンは深いため息をついた。それから、疲れ切った目をこちらへ向ける。
思わず小さく会釈すると、彼もわずかな目礼を返した。
「まず確認します」
先ほどまで怒鳴っていたとは思えないほど、声は平坦だった。
「伍長。目的の薬品は確保できましたか」
「はい」
「負傷者は」
「いません」
「感染の疑いは」
「ありません」
「帰還経路上で、『あれ』に追跡された可能性は」
「陽動を行い、完全に振り切りました」
「なるほど。振り切るために、あなたが武器庫から盗った装備品を使いつぶしたのですか?」
「ほとんど廃棄処分予定のものでしたから」
ザポロージャンは彼女をしばらく見つめ、それから小さく頷いた。
「承知しました。結果だけを見れば、任務は成功したのでしょう」
ヤドヴィガの表情がほんの少し緩む。こちらも、つられて息を吐きかけた。許される流れなのだろうか。
けれど、違った。
「ですが、これは任務ではありません」
その一言で、彼女の顔がまた強張った。
「正式な命令も、報告も、承認もない。最高司令官と幹部候補者が同時に持ち場を離れ、共同体の人員と物資を私的判断で使用した。結果がどうであれ、重大な規律違反です」
「いや、しかし――」
「弁明は明日、セイム会の場で伺います」
ザポロージャンはヤドヴィガの言葉をぴしゃりと遮った。
「今は全員、隔離施設へ移動してください。感染確認が終了するまで外出は禁止。武器も預かります」
ヤドヴィガは何か言いかけたが、結局、背筋を伸ばした。
「了解しました」
「なお、ヤドヴィガ司令官どの」
ザポロージャンは、最後まで役人のような顔を崩さなかった。
「先ほど私が司令官に手を上げた件についても、明日のセイム会で審議を求めます」
「……はい」
「ですが、二度と勝手にいなくならないでください」
その声だけが、ほんの少し掠れていた。
手錠も、それらしい拘束もなかった。武器だけを預け、案内されたのは隔離所――もとい、自分のいた病院だった。
確かに、この建物以外は草原が広がっているので隔離にはなるのだろう。
「ヤドヴィガ司令官どの。私は皆に報告へ行くので、明日まではここで待機してください。それまでの食料も渡しておきます。三人ともひどくやつれています」
明日になる前に倒れないでくださいと、小言とともにヤドヴィガに包みを手渡す。
「あ、ありがとう。ザポロージャン」
その返事の代わりに、がちゃりと静かにドアを閉められた。だが、施錠の音は聞こえなかった。
閉じ込める必要はないと思われているのか。それとも、自分たちが命令に逆らわないと信じられているのか。どちらなのかは分からなかった。
やがて、三頭分の蹄の音が重なって遠ざかっていった。ザポロージャンが、自分たちの馬も連れていったのだろう。
誰からともなく包みを開く。中には干し肉と、冷えた芋が入っていた。
三人でテーブルを囲み、示し合わせたわけでもないのに、黙ったままそれを食べた。
干し肉を噛む音だけが、ときおり部屋に響く。何か話そうと考えてみたけれど、二人とも決意のこもった目をしていて、話題が見つからなかった。月見里ともヤドヴィガとも、目が合った。けれど、自分は目の前のそれを齧り続ける。味がない。
長かったのか短かったのか分からないまま、食事は終わった。歯を磨いた後は無言のまま寝室へ。明日は早い。
しかし、ベッドは一つしかなかったので、三人で川の字になって寝袋を被って床で寝た。
真っ暗闇だ。
窓の外は、高原の薄い空気のせいなのか、大量の砂粒をこぼしたかのように星空が広がっている。こんな時に、なんて場違いなのだろう。
口を開いたのはヤドヴィガだった。
「意外とザポロージャンはあまり怒ってなかったな」
誰も答えなかった。けれど、心細さがほんの少し薄れたような気がした。
「だから、大丈夫だ」
「普通に平手打ちされていましたけど」
月見里が暗闇の中でぴしゃりとはたき落とす。
「うっ……。いや、あれはまだ優しい方だぞ。訓練兵だったころ、仲間に銃を向けて、撃つふりをしたことがあってな。そのときは、ザポロージャン教官にもっとひどく殴られた」
「当然でしょうね」
「ああ、今ならよくわかる。私でも同じように殴っていただろう……。 今回のことも、よくよく考えれば仲間を蔑ろにした行為だからな。あれぐらいで済んだのが奇跡だったかもしれない」
「残りは、明日のセイム会まで取ってあるんでしょう」
ヤドヴィガの声は、次第に小さくなっていった。
「でも、心配はしてくれたよな」
「あなたは一応、皆の最高司令官ですから」
「だからこそ、明日はちゃんと怒られるべきでしょうね」
「……そうだな」
寝袋が擦れる音がした。
「明日の朝、もう一度あの資料を見せてくれ」
「わかりました。おやすみなさい」
「あ、ああ……」
暗くて表情は見えない。それでも、ヤドヴィガがまた頭を抱えたことだけは分かった。事情をよく分かっていない自分にも、明日の重さだけは伝わってきた。
けれど、ヤドヴィガは腹を括ったのか、少しすると寝息を立てていた。
自分はどうしても眠れなかった。窓の外の星空は少しだけ景色を変えて、光の航路の中へと流れ星がいくつも流れている。
「月見里……」
「なに?」
「怖くないのか?」
だからこそ、聞いてしまった。セイム会がどんなものかも知らないくせに、頭の中では、なぜか断頭台へ連れていかれる三人の姿ばかりが繰り返されていた。
しばらく沈黙があった。
「わたし、生理きた」
「なっ……体調、大丈夫か」
思わず声を大きくしかけ、隣で眠るヤドヴィガを見て口を押さえた。
「うん。少し前に終わったから」
「……ああ、そういうものなのか?」
「うん、そういうもん。また、来月のクソお楽しみ」
どうして今、その話をしたのか分からなかった。
月見里は寝袋の中で小さく身じろぎした。
「あなたは変わらないね」
「まあ、さっき起きたばっかりだしな……」
一年も眠っていたと聞かされても、やはりあまり現実感はなかった。けれど、相当長い時間だったのだと、月見里の声を聞きながら思い知らされた。
「よかった……」
かすかに、そう聞こえた気がした。けれど、身じろぐ音に紛れ、自信が持てなかった。
「え?」
「そこまで、明日は怖くない。セイム会でいろんな人から怒られるのは既定路線」
「なら、ダメじゃないか」
「怒られる部分は分かっているつもりだから、大丈夫。それよりも、怒られた後にあの資料をどう扱ってもらえるかの方が大事」
月見里は何かを続けかけた。けれど、そこから先を言わなかった。少しの間、身じろぐ音だけが聞こえてきて、やがて、小さなため息が聞こえた。
「怖くないと言ったら、少しだけ嘘になる」
月見里はポツリと零した。ああ、やはり、少し強がっていたところもあったのだろうな。
「もし失敗したら、またどこか別のところでやり直すか?」
体はなぜか快調ではあった。ヤドヴィガにも世話になったし、迷惑をかけないためにも他に行くのも手かもしれない。そう考えると少しだけ希望が湧いたが、これほどまでにいい場所なんて見つけられるだろうか。
「そう――――。いや……それはちょっと悔しい」
そういって、月見里はこちらに向き直った。顔は残念ながら見えなかった。
「明日は、絶対成功させるから」
月見里はそう断言し、「おやすみ」と続けると、やがて寝息を立て始めた。決意のこもった声だった。それでも、上手くいく根拠が未だに見つけられていない。
ただ、それでも、断頭台へ連れていかれる三人の姿は、もう頭に浮かんでこなかった。
「おやすみ、月見里」
二人が寝息を立てるなか、もう一度流れ星を見つけて、眠りについた。
翌朝、ザポロージャンが朝飯の材料を持ってきてくれた。米や味噌やら卵やら野菜にベーコンに牛乳。それから、乾燥した何かの根っこ。
ベーコンエッグと味噌汁、それに山盛りのご飯。根っこは煮出されて、黒い液体になった。ヤドヴィガによると、たんぽぽコーヒーらしい。
自分の目の前に、かつての朝食が現れた。なんて、新鮮な味なのだろう。牛乳なんて、とっくに滅びているのだと思っていたのに。こんな味が、この世界に残されていたのかと無性に感動してしまった。
これなら、最後の晩餐には申し分ない。
もっとも、ヤドヴィガと月見里には、食事を味わう余裕などないらしい。
二人は昨日の資料をテーブルいっぱいに広げ、たんぽぽコーヒーを片手にベーコンエッグを口へ運びながら、途切れることなく何かを話し合っていた。盗み聞いてみたが暗号のような言葉ばかりで分からない。かろうじて、侵入経路やら脱出ラインだとか聞きなじみのある用語は聞き取れた。どこかに遠征でもするのだろうか。
資料も覗いてみたが、たくさんの写真の中から、以前に見たあのダムの写真を見つけられたくらいだった。それが何を意味するかも分からず、あとは何かの機械や、難しい漢字だらけの専門資料ばかりで、こんなものを読める人間の凄さだけが分かった。
「なあ、何か手伝うことはあるか?」
「大丈夫」「大丈夫だぞ。ゆっくり飯でも食べてくれ」
結局、二人にそう言われてしまった。声を重ねてまで言われてしまったのなら、仕方がない。今は彼女たちを見守ろう。
できるだけ朝食の味を噛み締め、二人が食べ終えた食器をまとめて流し台へ運ぶ。皿洗いくらいは出来た。水の音と、皿を擦る音の向こうで、二人の相談は続いていた。
残念ながら、彼女たちの作戦は何一つ分からなかった。ただ、二人の強張った表情には、どうしようもないほどの決意が込められていた。
時間を告げるように、ドアのノックが聞こえた。返事をするより早く、扉が開いた。
「時間です」
そこに立っていたのは、ザポロージャンだった。昨日よりもずっと堅苦しく、胸元や肩に見慣れない装飾のついた軍服を纏っていた。それが何を意味する装いなのか、何一つ分からない。だが、ヨレもシワも染みもなく整えられたそれを見るだけで、その重みがわかってしまう。
ああ、やはり来てしまったのだ。
そう思った。




