『あれ』の巣
意味もなく朝が始まる。吠えるような音に目が覚めた。飛び上がるほどではないが、確かにどこか遠くで聞こえている。
辿るようにそちらへ目を向けてみると、今日向かうはずの病院。
「病院の方か」
「そうみたいだな」
ヤドヴィガもどうやら目が覚めたようである。流石、軍人というべきか拳銃まで握っていて臨戦態勢を取っているようだった。
自分もとっさに銃は掴んでいた。僅かながらも地面が響くほどの『あれ』の声。銃を掴まずにはいられなかった。決して一匹ではない。
だが、確かに追いかけられているときにも似た声色。ああ、やはり、月見里はあそこにいるのだ。
「悪い。今すぐ出てもいいか?」
「ああ、もちろんだとも。別にそんなことを聞かなくても大丈夫」
そういって、ヤドヴィガはサムズアップ。指先がぼやけているように見えるのは、わずかばかりに震えているせいだろう。
やはり、ヤドヴィガだって『あれ』が怖いのだと思ったが、覚悟を張り付けた顔に向かって行くのかどうかを聞くのは野暮だ。
自分たちは発った。
ただ、早く出すぎたせいで、軍用の栄養バーをタバコみたいに咥えて、朝の栄養補給をしている。
どうあっても、地雷やら不発弾の多いらしい最短の大通りを使うことは出来ず、比較的作戦行動をとっていなかったという海岸線の道から大きな病院へと向かおうとしている。
すっからかんな朝の雰囲気。『あれ』が叫んでいたというのに、嫌なほどの殺風景。
何かあるのかと、目を凝らして辺りを確認しても、中身が抜けたような褪せた商業ビル群が立ち並ぶ。月見里のトラップはどこにもない。
あいつも『あれ』のいない安全地帯だと思ったのだろうか。そう信じたいが、自分の勘が違うと言っていっている。
美麗なデザインの超高層ビルも傾いて並んでいる。元居た街にあれほど立ち並んでいただろうか。富裕層の人が住んでいたのだろうか。そんな意味もないことさえ考えてしまう。出かかった欠伸をかみ殺す。
奥に入っていくほど、濃い潮風の臭い。薄っすらとデジャヴを感じながら、空っぽの街を進む。
視界の開けたところで、無人の船があった。巨大なタンカーが羽化した後の蛹のようにぽっかりと穴をあけて座礁しているのを思わず口をあんぐりと開けて眺めてしまった。
「うおぉ、どうりで海軍も負けるわけだ……」
ヤドヴィガもぼうっとしたような声色で呟いていた。最初はヤドヴィガも銃を槍のように構えていたが、平穏とした雰囲気に銃を下ろしていた。
だが、病院へと近づいていくと、銃口があがる。吠えていた。『あれ』が吠えていた。まさしく、誰かを食い殺そうとするときの鳴き声だ。
月見里があそこにいるのだ。
「おい、待つんだ!このっ、離さまいぞ」
自分は思わず駆けだそうとしてしまっていた。
だがしかし、こちらの腕をヤドヴィガは固く掴んで抑えつける。
「君、気持ちは分かるが、考えもなしに突っ込んでも何もならないだろう。蛮勇と勇気は違うものだ」
「……すまない」
それもそうだ。反論の言葉を見つけようとしたが、全く思いつかなかった。下手に騒いだら、中にいる月見里にも危ない目に合わせかねない。
それでも、行きたいと思っている自分はクズだ。落ち着け、クズ野郎。
「危険が危ないことは分かっているからな、まずは偵察だ」
ヤドヴィガに双眼鏡を渡された。一つのことから始めていこうと言って、ヤドヴィガは自分の双眼鏡を手に持って付いて来いと手招きされる。
一個づつ考えるか。そういえば、月見里にも似たようなことを言われたような気がする。呼吸を整え直して、付いていった。
付いていくと近くで一番高いビルの屋上まで引きずられた。小走りで非常階段を登ってきたせいで肩で息するのを無視して、自分たちは双眼鏡で病院に覗き込む。
見晴らしもいいからくっきりと見えるが、見えるものがやはり病院ではない。
「ヤドヴィガ、あれは本当に病院か?」
「そうだ……要塞みたいだろ?あそこは中央病院だったからな、ケガした避難民を一時的に収容する計画になってたから、友軍がありったけのバリケードを張り巡らせた」
コンクリート壁と鉄条網の要塞。どこでも見るような景色だが、そこだけは異様に張り巡らされてちょっとやそっとでビクともしなさそうな様相だった。
「結局は――――それも役に立たなかったか」
ヤドヴィガが諦観のため息交じりにそう独り言ちる。
それでも堅牢とは言えないのは、いくつもゴミの山になっているからだろう。月見里がこの場にいたなら、『あれ』はちょっとやそれどころではないなと軽口を叩くところだが、月見里はいない。今はどうしようもない焦りしかない。
それから、ひとしきりヤドヴィガと共に双眼鏡で覗いてから出発した。『あれ』の姿はまだ見えなかった。
これを不幸中の幸いとでも言えばいいのだろうか。ヤドヴィガがある程度病院の構造をしているらしく、裏口から入ることに決まった。
要塞の中、近づけば近づくほどにコンクリートと土嚢に圧迫される。地面には薬きょうが沢山転がっている。軍用車らしき分厚い鉄の破片も少なくはない。だが、あるはずの人骨だけはどこにもなかった。
ヤドヴィガとこちらは銃口を正面に向けていた。いつでも『あれ』に襲われても対応できるように。
だが、近づく度にどれほどの『あれ』がいるのかに気付かされていく。ヤドヴィガの長い銃さえ、やはり頼りないように思えるくらい。
裏口は半分開いていた。もう喋るくらいの余裕はなかった。拳銃を手に持ち、恐るおそる中を確認すると、罠が仕掛けられていて思わずホッとしてしまった。
ちょうど足元に仕掛けられたワイヤートラップ。ここまで通ってきて見てきた月見里のトラップだ。やはり、いたのだ。しかし、付けられているのは粗末な空き缶一つ。見てきたものでも一番簡素なものでまた不安になった。
「――――」
中に入るとジメリとした空気がまとう。病院の職員用の通路だろうか。錆びついた機械が並ぶ無機質な場所。食糧か何かの物資らしきものがあったが、手についている様子はない。
『あれ』の声が微かながらにじっとりと響いている。近いのか遠いのか。一瞬、焦ったが天井に張り巡らされたパイプ管から聞こえていたようだった。
ほっと胸をなでおろす。
「――――!」
直後、くぐもった破裂音がどこから聞こえた。すぐに『あれ』の声があった。ここではない、もっと上の方だ。
声を押し殺した。進む。
ずっと奥に壊されたバリケードがまたあった。誰かが取り払った後があり、そちらへ進むと年季の入りすぎた階段を見つけた。上に登っていくといくつか月見里のトラップを見つけた。
カランカランと上から音が響く。それにじっとりとしたものを感じて、また心臓が寒くなる。
機械室を抜けるとよく見る病院があった。壁に大きなガラスがいくつもあったらしく遮光性が抜群だったが、酷くじめつくのは『あれ』の唸る声が響くせいだろう。
姿はない。だが、影のようなものがちらついてきているような気がして、進む足は小さくなった。
「――――っ」
脊髄が体をよじった。
微かな病院の臭いにむせかえるくらいの血の臭い。転びそうになって、ヤドヴィガに支えられる。息を殺した。それでも足りないくらいに『あれ』の姿が無数にあった。
人を襲う数秒前。そんな興奮ぶりだったが、こちらに気付いているようではなかった。それだけは幸運だ。
生唾を願掛けのように飲み込んで、ゆっくりと進む。待合室なのだろうか、ソファやら机があった。先ほどから見たコンテナと共にバリケードにされた後があるが、もうどうしようもなく散乱している。
ただ、いい具合に死角にはなってくれている。出来るだけ隠れられるように身をかがめた。
『あれ』の荒い声だけが耳に入ってくる。動いている様子はなかった。ただ、この場にいる『あれ』の声は外で聞いたものより落ち着ているように思う。もっと上階の方から濃い呻き声が聞こえてきているのが分かった。
今は上に行くことが先決だと思った。
這い回りながら辺りを探ってみると、ヤドヴィガが案内板を見つけてくれた。どうやら、近くに非常階段があるようだった。
ちょうど、ヤドヴィガが非常階段の場所を指し示す。最悪だ。見えるのは大量のうずくまっている『あれ』の姿だった。
自分たちは這うようにして移動した。否、もう這うようなこともしていられなくなった。ただ、先頭にいるヤドヴィガの匍匐前進を見よう見まねで行って、死角にすがりついてミノムシのような動き方をしていた。
もうガラスを踏んでいるような感覚に、気が遠くなりながら2人で歩く。足元にはソファだったものと、警棒や機動隊の人が持っている盾のような治安を守ろうとした後ばかり。その中に月見里が設置したトラップの後があって、少しだけ笑いそうになった。相変わらず巧妙に仕掛けている、あのクソガキは。
『あれ』たちがピクリと動いた。2人また息を殺す。少しして『あれ』はまた眠ったように落ち着いた。
また震えた体を抱えて進む。それの繰り返し。どうして、進められているのだ。
進め。
進め。
無限にも思えた時間の後、孤島にたどり着いたかのように待合室のある壁に漂着した。
酷く歪んでいるなと手で探ったら、エレベータのようだった。分厚くごつごつした感触に相当頑丈だったのだと思ったが、それがドアではないところにひっついていることに気付いて芯から冷たくなったような気がした。
月見里も非常階段から昇ったのか。気付かれることはなく非常階段にたどり着いた。
「――――っ」
扉をゆっくりと開ける。えぐいほどの血の臭い。『あれ』が蠢いていた。階段を舐めるように這いつくばっている。2匹程度ならどうにか出来るかもしれないが、数えきれないほどいてただ身が固まっただけだった。
ヤドヴィガがゆっくりと扉を閉じた。肩を背中をゆるやかに叩かれて、自分は我に返った。ここは無理だ。別のところを探すしかない――――。
だが、階段のところにも月見里のトラップが合った。きっと、あいつはここを登ったのだ。どこか、登れるところはないか。
呻く『あれ』の声が四方八方に聞こえてくる。ヤドヴィガにぽんと肩を叩かれる。ここで留まっても仕方ない。
なるべく声の圧が薄い方へと進んだ。おそらく、休憩室、ロッカー室、用務員室、裏手の方に入っていく、『あれ』の中に従業員はいないのだろうか。月見里もここには来ていないようである。
階段はなかった。留まりたくはない。ただ、窓はあった。
(おい、そこはやめろ)
ここから昇れる。そこに足を掛けようとして、ヤドヴィガに止められた。どうしようもないだろうとハンドサインを送ろうとしたら、ヤドヴィガが手慣れたように窓へと昇った。
すぐに戻ってきた。
ヤドヴィガは静かに首を横に振った。深刻そうな顔に、『あれ』は二階をも埋め尽くしているのだろうというの察せた。
どうしたらいいのだろうか。何か見つけられるものはないだろうか。気を紛らわせるかのようにロッカーを探してみるが、気を紛らわせる程度のものしかない。
もう本当にあの階段を越えてしまうか、声が濃い方の道を進むのか。
「………ぁ!」
ふと、待合室近くにあったエレベータを思い出した。そうだ、あそこからなら登れるのじゃないだろうか。
今もなお銃を鋭く構えて部屋の外を警戒するヤドヴィガの肩を叩く、戻ろうと合図をした。ヤドヴィガはなんだと驚いた顔をしたが、すぐに顔を戻して静かに頷く。何か考えがあると察してくれたようだ。
しかし、エレベータの前までいくと、また表情を固める。お前まさかと驚いた顔を張り付けるが、こちらの顔を見るとまた軍人に戻った。
先行して自分が入ろうとすると、ヤドヴィガが待てと手で合図された。慎重にエレベータの中へと入る。そんな彼女の姿がゆっくりだと思えるほど真っ暗闇。
手招きをされて、こちらも中へと入る。懐中電灯を明滅させると、どうやら中の構造は潰れて居なかったようだった。
運の良いことに天井に手がついた。手探りで指を伝わせると蓋のようになっているところがあった。しめた。
ここを開けると、エレベータの空間が広がっているはずだ。
ヤドヴィガは背が届かないので、ライトを当ててもらいつつ自分が開けることになった。見た目よりも重い。どこか歪んでいるのだろうか。
岩を押し上げているかのような感覚。早く月見里のもとに追いつきたい。自分は少しだけ力が入った。
ガタン。
音が止んだ。浮いたような感覚と共に蓋が音を立てて外れてしまった。
さっきまであった湿り気のある雰囲気が一気に乾いた。身が凍った。意味も無いのに息をとめるくらい。
ライトが消える。ヤドヴィガが長い銃を構え直しているようだった。
吠える声も呻く声も一向に湧いてこない。気付いていないのか、このままじっとすればやり過ごせるのか。ヤドヴィガは槍のように銃を突き出して、エレベータの外側を睨みつけていた。どれくらい持つだろうと思った。どうか気付かないでくれと思った。
いや、ダメだ。固まっている場合ではない。
外はヤドヴィガに任せて、自分は天井を押し上げる。さっきの衝撃で蓋は軽くなっていた。
これならいける。
徐々に『あれ』の声が薄っすらと湧いてきた。様子を見ようとしているのか、徐々に湿り気を帯びはじめた。それを感じ取れる余裕もなく、天井の蓋が開いた。
ヤドヴィガの背中を小さく叩いて、急いでエレベータから抜け出す。それから、ヤドヴィガを引っ張り上げて、蓋で封印。
「――――!」
間髪を入れずにドンッとエレベータにぶつかる音が聞こえた。『あれ』の叫ぶ声。間一髪だったようだ。
2人胸をなでおろした。ただ、これで退路が絶たれてしまったことになる。これが袋小路というものか。フッと変な笑みがこぼれてしまった。
エレベータの外は予想通り『あれ』はいなかった。
懐中電灯を振り回しても暗闇しかない。もっと様子を確かめたくて歩き回ってみたが、地面のないところがあることに気付いて止めた。どうやら、
ただ、梯子はどこかにあるはずである。アクション映画で見たことがある程度の知識ではあるが――――。
「――――ぃ」
ヤドヴィガが肩を叩いてきて、指を指す。どうやら、見つけてくれたらしい。
見上げると取ってつけたような梯子。かなり簡素な梯子だが、まだ登れそうな状態に見える。
ヤドヴィガが背中を叩く。流れるように梯子を掴み感触を確かめると、こちらにアイコンタクトを取って登った。
続くように自分も登った。頼りないくらいに細くて、ザラザラと錆の感触がまとわりつく。壊れていないのが不思議なくらい。
だから、ヤドヴィガが率先して登ってくれたのかと思った。ありがたい。申し訳ない。
しかし、いったいどこまで続くのだろう。下を見たら死にそうな気がして、ずっとぼんやりとしたヤドヴィガを眺める。梯子の棒をただ一個掴んで、また次を掴むのを無心にひたすら繰り返した。
途中エレベータのドアを見つけたが、呻き声が漏れていたので開くことは出来なかった。それでも開こうと思ったが、きっちりと閉じられていて開けることは叶いそうになかった。
どこかに出口はないだろうか。ヤドヴィガはどんどんと進む。軽々とした所作だが、追いつくのはペースを合わせてくれているのだろう。上に上がるほど、呻く声の密度が濃くなってきて、耳がイカれてくる。どんどんと何かにぶつかる音も鳴っている。ドアにでもぶつかっているのだろうか。酷く乱暴だ。
やがて、ヤドヴィガが止まった。一体なんだろうと思ったが、薄っすらと天井のようなものが見えて最上階にたどり着いたのだと察した。
ヤドヴィガが待てとこちらに合図を送ると、そのまま一気に上がって闇の中へと入っていった。どうやら部屋があるらしい。
後、もう少しだ。
はやる気持ちを抑え、ヤドヴィガを待つ。『あれ』の声は薄い。おそらく、まだ最上階までに来ていないのだろう。
少しして、ヤドヴィガがこちらに手を差し伸べてきた。
ここを登れば月見里に会える。そんな気がした。
背を伸ばして手を掴む――――。
ガチャン。
そんな小さな音と共に浮遊感があった。何か叫ばれている。ヤドヴィガが急激に小さくなっていく。轟々と金属の割れる音が木霊して、ようやく自分が落ちていることに気付いた。急速に落ちていく、掴もうとした梯子も一緒になって崩れ落ちているのが見えた。
死ぬのってこんなにもあっけないのかと思った。
『あれ』の喜色の混じる呻き声が下から湧いていた。




