29話 登別
光陰流水の如く時は移ろい、いよいよ待ちに待った修学旅行がやってきた。
修学旅行の集合地点は七村駅だった。そこから電車とバスを乗り換えて空港まで向かい、空港からは飛行機に搭乗して新千歳空港に飛び立つ。
そして次郎は、空の人となった。
「おおっ、始めて飛行機に乗った」
「どうしたジロー、お前の家は金持ちじゃないんかい」
「俺が日本語の通じない場所には絶対行かない派だからな。飛行機に乗ってないのは家族で俺だけだ」
次郎は、毎度おなじみの堂下次郎ネタに反応することなく、ひたすら飛行機の小さな窓から見える景色を眺めた。
窓の下には羊毛のような雲の絨毯が、海の如く満遍なく敷き詰められている。それらは天空から輝く太陽の光に照らされて、紅白と影に彩られていた。
空は深みの増した青色で、少しだけ宇宙が近くなったように思わせる。
上空には千メートル単位で分かれた別種の雲が形成されており、これが生み出される気象条件について思わず考え込まされた。
廊下側の席から上半身だけ窓際に乗り出した次郎は、窓の外に携帯端末を向け、何度もシャッターを切る。
「モコモコだなぁ」
あの雲に飛び乗れば、高反発のクッションのようにふわふわに跳ねるのか、それとも低反発ベッドのように身体が沈み込むのか。
そんな有り得ない妄想で脳内を満たし、次郎は一時の至福を満喫した。
「そんなに気に入ったなら、場所変わってやろうか」
次郎と窓に挟まれた中川が、呆れて提案した。
「ナカさん、マジで?」
次郎は歓喜しながら中川の顔色を窺った。
しかし中川は、単なる善意の人ではないらしく、嫌らしく含んだ笑みを浮かべていた。
半分ほどは作った悪顔であろうが、残り半分くらいは実際に悪い事を企んでいるのであろう事を、小学一年生からクラスメイトの次郎は経験則から理解していた。
「ブルジョワジーの我々としては、プロレタリアートのジローくんに窓際を譲ってあげるのにも吝かではないよ。条件次第ではあるがね」
「回りくどい言い方をしおって。要求は何だ?」
「可愛い後輩が一一人も居るそうだね。ちょっと紹介したまえ」
「そう来たか」
高校に入学した一学期、中川と北村は次郎たちを交えて、図書文芸部の女子たちと遊びに行っている。そして北村と二組の塚原愛菜美がカップルとなり、今も別れずに付き合っている。
一方で中川は三組の丹保智美と二人にしたのだが、あまり進展しなかったらしく、それっきりのようだった。
「ともみんとは合わなかったか」
「色々となぁ」
北村とカップルが成立した塚原愛菜美は、夢見がちで笑顔が可愛い系の女子だ。母親が看護師で、将来は看護大学に進学して保健師になる事を考えており、わりとモテる要素がある。
中川とカップルが成立しなかった丹保智美は、身長が高くて容姿的には格好良い系の女子だ。但しお弁当を手作りし、バレンタインでは越後屋のようにクラスの男子全員に義理チョコを配るなど、女子力が高くて気配りも出来る。
ちなみにともみんは、現在彼氏募集中である。
それなりにお買い得品なのだが、中川の目は贅沢に肥えているらしい。
「ちなみに席を譲って貰うのは諦めて、あくまで参考までに聞きたいんだけど、ナカさんの好みってどんなだ?」
「なんだよジロー、自分だけハーレム王かよ」
「違うわ。俺は山羊舎に一匹だけ放り込まれた羊だよ。種族が違ってどうにもならんわ。変な事をしたら、即座に山羊の群れに集団攻撃されるわ」
「ケッ、つかえねー」
「よし分かった。表に出ろ」
次郎は窓の外で輝く雲海を指差すと、機上の時間を下らない言い争いに費やした。
ダメ元で紹介してみないのは、本当にダメだったときに紹介者として部活に居辛くなるからだ。同級生なら兎も角、先輩の立場として僅かなりとも強制力が働くのも気分的に良くない。
他にも言い訳を探すとすれば、次郎たちは既に高校二年生の一学期末であり、この後には夏休みが控えているため、紹介する場合は二学期に入ってしまう。
三年生の大学受験までは時期が短く、中川や相手のためにならない気もした。
やがて飛行機は新千歳空港に降り立ち、次郎たちは手配されていたバスに乗り込んで、まずは登別へと向かった。
そしてやって来たのは、熊牧場である。
万里の長城が如く長い柵の遙か下側で、広いコンクリートの丘山を沢山の熊たちが闊歩していた。
「何故、熊牧場?」
「うわっ。こいつら、滅茶こっち見てるし」
困惑する高校二年生たちの前で、熊たちは両手をバシバシと叩いて餌をねだっている。
繰り返される催促に居たたまれなくなった何人かの生徒が、有料の餌を購入して熊の方へ投げ込んだ。
すると熊は素早く首を振り、飛んできた餌を口で咥えると素早く飲み込んだ。
「おおっ、ナイスキャッチ!」
高校生達が感心していると、クマは再び両手をバシバシと叩き合わせ、上半身をグルグルと回して次の餌を催促する。
周囲には新手のクマが次々と集まってきた。
どうやら餌をくれるチョロい集団と認識したらしい。だが事実として、七村高校の生徒達は、餌を買って次々と投げ入れていった。
そんな高校生を手玉に取る賢い熊達を見ているうちに、次郎はある生き物を連想した。
(お前ら、実はグリフォンとかだろ)
多階層円柱の地下一八階に生息するグリフォンも、嘴を器用に動かして餌を狙い、集団で連携する知恵を持っている。
かつてアダムとイブは知恵の実を食べて楽園を追放されたそうであるが、であれば追放されたこの世界にいる生物たちは、皆どこかしらで知恵の実を食べた結果、この場所にいるのかもしれない。
そんな空想を続けながら、次郎は熊牧場の中を歩き始めた。
熊牧場の中には、なぜか狐たちも飼われていた。
広い草むらに疎らに木々が生えており、いくつかの岩場があって、その岩の上にアカギツネがチョコンと乗っている。
岩は日向になっており、狐はその上に伏せて前脚を伸ばし、耳だけを立てながら日向ぼっこをしていた。
あまりの平和さに次郎が和んでいると、自由行動で同じ班の奈部と鳥内が不穏なことを口走り始めた。
「こいつらって、熊の非常食か?」
「そりゃ当然ですがな社長。地産地消。資源は有用に使い切らないといけません」
仕切られたフェンスの中から無垢な瞳を向けるアカギツネと、下劣な笑みを浮かべる同級生たちを見比べた次郎は、フランスの画家ブーランジェの作品『奴隷市場』を思い浮かべた。
だが、かつて奴隷市場を実際に目にした多くの人々のように、次郎に出来る事は何も無い。此処に居る狐たちを逃がしてあげても、どこかで捕まって殺されるか、また別の檻に連れて行かれるのである。
(中世時代の民衆も、俺と同じように奴隷を見ているしかなかったんだろうなぁ)
次郎は修学旅行で、奴隷について学ぶという極めて貴重な経験を積むと、次の場所へ赴いた。
やはりフェンスに囲まれた広い場所に、今度は水場があった。
そして中では、ゴマフアザラシが気ままに泳いでおり、オットセイは飼育員の男性から魚を貰うべく首を伸ばしていた。
「……熊牧場じゃなかったんかい!」
どうやら次郎たちが来た場所は、クマ牧場兼何種類かの動物園であるらしかった。
修学旅行生達が群れてきたのを横目に確認した飼育員のオジサンは、仰々しく魚を捕りだして、左右に振ってみせる。
すると飼育員の動きにオットセイが反応し、猫じゃらしを目の前にチラつかされたかのように首を振り、早く寄越せとばかりに何度も頷きを繰り返した。
焦らし上手なオジサンは、オットセイがキレる前にタイミングを見計らって魚を投げ、オットセイも完全に慣れた様子で上手く口でキャッチしていた。
見学していた無垢な同級生達から、次々と拍手がわき起こる。
かなり気を良くしたオジサンは、徐ろに二匹目の魚を掴み取る。いつの間にか次郎は、オジサンの餌やりに魅入っていた。
やがて熊牧場の散策が終わり、次郎たちは有名なクラーク像に移動して記念写真の撮影を行い、近くの食堂のようなところで夕食にジンギスカン料理を食べた。
クラーク像を襲撃した馬鹿が居て、台座に昇って銅像の首を押さえ、写真撮影を行った後に教師から引きずり下ろされていた以外に特筆すべき事は何も無い。
携帯端末を奪われてデータを消されていたが、それはもう自業自得と言うべきだろう。夕食のジンギスカン料理のように軽い気持ちでSNSに襲撃写真を載せられでもしたら、来年から後輩達が北海道に来られなくなる。
些細なトラブルが鎮圧された後、一行はバスで初日に泊まる旅館に到着した。
既に窓の外は真っ暗で、次郎たちは速やかに班ごとに割り振られた部屋へと押し込まれる。
畳の大部屋には布団が五つ敷かれており、さっさと寝ろと催促されているかのようだった。暇つぶしをしたければテレビでも見ろとばかりに、テレビだけがドンと鎮座されている。
「成程。これが理由で、班を男女で分けろと言っていた訳か」
早速北村がテレビを付け始める。
受信料を強制徴収する局のニュース番組と、恐ろしく広告料を取る局のバラエティ番組が交互に映し出された結果、バラエティを選んだ北村はテレビの前で転がり始めた。
その間に荷解きをした中川が、入浴セットを取り出して立ち上がる。
「ジロー、温泉行こうぜ」
「了解。キタムーはどうする?」
「後で入るわ」
どうやら今映っている番組か出演している芸能人は、北村にとってお気に入りらしい。テレビの前から動かず、そっけない反応を返してきた。
「分かった。それなら奈部と鳥内は?」
「俺らも後で良いわ」「同じく」
「入浴時間があるらしいから、早めに入っておけよ」
一応声だけは掛けたものの、座した三人は一向に動きそうに無い。次郎と中川は着替えを素早く纏めると、アッサリ見捨てて旅館の温泉に向かった。
広い脱衣所に入ると、一般客は全く見当たらず、同級生もまだ数人しか入っていなかった。
「一番乗りでもないけど、かなり早い方だな」
「というか、他の客がいねぇ」
「それは一般予約が入る前に、旅行会社の枠で部屋を押さえたんだろ。修学旅行客、御用達とかなんじゃね?」
「ほほぉ。なんか普通にありそうだな。ボロいし」
「確かに」
次郎たちが来ている旅館は、勝手に宿泊料金を値付けするなら一泊三,〇〇〇円台だろうか。夕食が付いて来ず、今どき畳に布団の大部屋であり、照明も壁も、廊下もボロい。
クラーク像からバスで三〇分は走ったはずで、地価が高いという感じも全くしない。
支払った修学旅行代の差額は、一体何処へ消えているのかと疑いを持ちたくなるグレードの旅館である。まさか一緒に来た校長達の酒代だろうか。
そんな安っぽい旅館の磨りガラスをガラガラと空けると、ゴツゴツと大きな石が埋め込まれたタイルの上を歩き、これまた安っぽいシャワーの前に座り込む。
子供騙しならぬ高校生騙しに、気付かなければ幸せだっただろう。
次郎は渋々と頭から洗い始めたが、その隣に座った中川が批判を口にする。
「教師が居ない。奴等は別の温泉に入っていると見た」
「マジか」
旅館の館内マップは、事前に高校で貰った旅のしおりに一部記載されているだけだ。そこには旅館の入り口から割り振られた部屋と、次郎たちが入っている温泉など最低限の記載しか無い。
それを次郎たちは、館内マップを拡大して見易くするためだと性善説で解釈していたが、もはや信じられなくなっていた。
「大人の汚さを教えるとは、なんて修学旅行だ」
「いつか革命だな。政権を奪取したら、奴等の年金を九〇歳から支給にしてやろうぜ」
「…………やめるんだナカさん。それをすると、俺らも巻き添えになる」
身体を洗い終えた二人は、手前にある安っぽい温泉に浸かり始めた。
温泉は内風呂の他に露天風呂もあるらしく、竹壁で囲まれた広い空間にかなり長くて広い湯船が伸びていた。
内風呂は狭く、三〇人も入れば一杯になってしまう。
修学旅行生御用達であるなら、この露天風呂の広さと長さはあって然るべきなのだろう
「ナカさんや。露天風呂に移らんかね」
「おうジロー、行ってみようぜ」
二人は内風呂を抜け出し、露天風呂へと移動した。
露天風呂は石で囲われており、内風呂より幅が広くて底が深く、若干温かった。それが奥まで伸びていて、次郎は肩まで浸かりながら奥まで進んでいく。
するとL字型のようになっていた露天風呂の奥で奥に行き着いた。
最奥は竹壁で囲まれており、風呂から上がった狭い岩場には、別のクラスと思われる男子が二人居た。
彼らのうち一人は次郎たちを見ると露天風呂に戻っていき、もう一人は動こうとしない。
「………………ん?」
不審に思った次郎は、何となく竹壁の方に向かった。
そして離れていった男子が空けた空間に入り、竹壁の方を見る。すると先に居た男子がグッと親指を上げて、その指を竹壁の方に向けた。
指先の指す場所をのぞき見ると、一カ所だけ微妙に空いた空間があり、そこから覗き込むと明かりに照らされた別の露天風呂が見えた。
「………………!?」
次郎は思わず息を呑んだ。
三人、いや四人だろうか、同級生と思わしき裸体の女子が見える。
彼女達は無防備に、やや小振りの果実を堂々と晒しながら、頭からシャワーを浴びせていた。
そのうちストレートの黒髪が肩まで切りそろえられた女子が立ち上がると、今度は下腹部のさらに下が見える。両足の付け根の中間辺りだ。その部分は髪と同じような黒色だったが、照明に照らされており、まず間違いなく影ではないだろう。
そこを惜しげも無く次郎に晒した彼女は、濡れた髪をタオルで拭くと、ゆっくりと温泉の中に浸かっていった。
なぜこの旅館には、このような場所があるのか。
露天風呂の次郎側はL字型の奥になっており、暗くて光が漏れない。一方で竹壁の向こう側は明るく、ハッキリと見える。
不意に次郎は、これが旅館の作為なのだと思い付いた。
なぜなら、このように男湯と女湯が物理的に繋がっているなど、建物を建てる際に意図しなければ有り得ないからだ。
まさか温泉の湯を繋げる配管代をケチって一纏めにして竹壁で仕切るなど、いくらなんでも有り得ないだろう。
この旅館を建てたのは、おそらく男性に違いない。
それも浪漫を持った男性だ。
そして浪漫だけでは無く、それを他の男に分け与える度量まで持った男の中の男だ。
(旅行会社も教師たちも、みんな良い人だった)
次郎は心の中で、性善説を疑った己の未熟さを謝罪すると共に、旅館の宿泊料金を三,〇〇〇円台から九,〇〇〇円台まで跳ね上げた。
そして大人達の配慮を有り難く受け取るべく、改めて竹壁の先を覗き込む。
次に入ってきたのは、一部のジェットコースターに乗ろうとすれば身長を測られそうな小柄なカジュアルショートの少女と、私服ならコンビニでお酒を買えそうなロングヘアの女性と、普段のツインテールを解いた次郎が生年月日を言い当てられそうな女子だった。
頭が真っ白になった次郎は、どうして良いか分からずに、一先ず心を落ち着けようと状況を分析した。
みかん、梨、柿、である。
みかんは、もはやどうしようもない。道理でエリートオタクなのに、コスプレに走らないわけだ。みかんが好きな人もいるため、あまり気にしなくて良いと次郎は考えた。
梨は同級生の中でも一際輝く星であり、将来も有望だろう。いずれメロンのように高値が付き、悪代官が「お主も悪よのぅ」と嫌らしく笑いかけてきそうである。
柿はかつてリンゴになるかと思われたが、ある時期から日当たりが悪かったためか成長速度が落ちている。しかしその分、他よりも色白である。
そんな果実達は、惜しげも無く果実を晒しながら、その実を洗い始めた。
その後も女子達が続々と入ってきたが、女子達はよほど集団行動が好きなのか、あるグループは果実をさり気なく腕で隠し、あるグループは一切隠さず、皆がグループ毎にまとまってシャワーを浴び始める。
日本人型と言われる内股O脚も居れば、XO脚もいた。
寸胴型と言われる日本人だが、こうして沢山の女子を並べて見比べると、ウエストの細い方が身体が引き締まって綺麗に見えるというのは確かなようだった。道理で女子がバストやヒップだけでは無く、ウエストを気にするわけである。
(おい、ジロー、代われ)
次郎が竹壁の前から動かないのを不審に思った中川が、持ち前の妄想力から状況を察して肩を掴むと引っ張り始めた。
次郎は思わず舌打ちを仕掛けた。
普段男子たちの前では見せない純粋な女子の笑顔を堪能していたところ……ではなく、よりによって美也が入っているタイミングで中川に見せるのは、理由は説明できないが許されざる気がした。
次郎は首を横に振り、抵抗の意思を示す。
すると中川が引っ張る力をどんどん強めてきた。
しかし次郎は現在レベル六三であり、熊牧場のツキノワグマどころか、サイやカバ並に巨大なグリフォンを一本背負い出来るくらいには力がある。レベル〇で巨大コウモリと良い勝負な中川の力ではビクともしなかった。
(ジロー、お前は、俺たちの友情を、裏切るのか)
動かないとみた中川が、女湯に気付かれない程度の小声を出して、気配と心情とで二重の圧力を掛けてくる。
しかし中川は気付かないと思ったのだろうが、次郎にとってそれは致命的だった。
何しろ先方には、レベル六三で風の動きに鋭敏な柿の化身が居る。
そのドライアードは、濡れそぼった髪から垣間見える瞳を、竹壁ごしに次郎たちの方へと振り向けた。
「………………あ…………終わった」
次郎は瞬時に土魔法を使ったが、隙間が埋まる直前に見えたのは、ドライアードの呆れた瞳と、八の字に下がった眉と、白い肌にタオルを引き寄せる姿だった。
一切の抵抗力を無くした次郎を押し退けた中川は、竹壁を覗き込み始めた。
そして何処にも隙間が無いことを信じず、それから一〇分以上も見えない隙間を探し続けた。