第10話 温泉郷、再生
翌朝、湯ノ原郷の空は、ここ数ヶ月の重苦しい曇天が嘘のように晴れ渡っていた。
源泉を縛っていた不浄な結界はエリーゼによって解かれ、蛇口からは再び、魔力を帯びた温かな湯が溢れ出している。
「アルト様!」
駆け寄ってきたのは、ユキだった。その後ろには、牢から解放されたばかりの、まだ衰弱しているが確かな足取りの父の姿もある。
「本当に、本当にありがとうございました……!」
アルトは、再び「傲慢な若旦那」の仮面を被り、フンと鼻を鳴らした。
「お礼なんていいよ。僕はただ、この村の温泉がポーションの材料として価値があると思ったから投資しただけ。ユキ、お父さんに言っておいて。次に僕が来た時に、最高の料理と温泉の準備ができていなかったら、違約金たっぷりもらっちゃうからね」
「はいっ……! 世界一の温泉にして、お待ちしています!」
ユキは、アルトが照れ隠しで毒舌を吐いていることに気づいているのか、満面の笑みで深く頭を下げた。
「アルト様……いえ、監察官様」
ユキの父が、深々と頭を下げる。
「娘から聞きました。あなたのような方が、この国にいてくださって……」
「大袈裟だよ。……それより、身体、大事にしなよ。またこの街に来た時、元気な顔を見せてくれたら、それで十分」
アルトはそう言うと、少し照れくさそうに視線を逸らした。
馬車に乗り込む前、アルトはユキに一枚のカードを差し出した。
「これ、うちの商会と直接連絡が取れる紋章入りの通行証。何か困ったことがあったら、いつでも使っていいよ。……君、この街の様子を一番よく見てる人間だろうし」
「え……」
「今後、何か『おかしいな』って思うことがあったら、教えてくれると嬉しいな」
ユキは一瞬きょとんとした後、力強く頷いた。
「はい……! 必ず、お力になります!」
馬車が動き出すと、見送る村人たちから割れんばかりの拍手が沸き起こった。湯ノ原の山々が遠ざかっていく。
馬車の中で、エリーゼが一冊の帳簿を差し出した。
「アルト様。男爵の裏帳簿の解析が完了しました。……気になる記述が」
「なに?」
「『天秤』の紋章を持つ組織からの、多額の資金提供の記録です。男爵の不正の初期資金は、すべてそこから出ています」
アルトの瞳が、スッと鋭くなる。
「天秤……。それ、詳しく調べて。同じ紋章が、他の土地の帳簿にも出てくるかもしれない」
「畏まりました」
アルトは窓の外に流れる景色を眺めながら、小さく呟いた。
「……この国、思っていたより根が深いのかもね」
その膝の上には、すでに次の目的地——鉱山都市ドワーフブルクの地図と、汚職疑惑のリストが広げられている。
「ライナス、次の街の状況は?」
「ドワーフ族の名工、ガルヴァー子爵が治める土地ですが……近年、粗悪な武具がギルド認定品として横行しているとの噂が」
「へえ。名工の街が、粗悪品ねぇ」
アルトの指で、銀色の指輪が朝日を浴びて鋭く光った。
「悪を断罪し、富を正しく循環させる。……そして、この『天秤』の正体も、いずれ突き止めてやる」
若き監察官の漫遊記は、まだ始まったばかりだ。
(おしまい)




