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第四十七話 引き出し

 土曜日の午後。

 椿はいつものように桜?の家へ遊びに来ていた。

 ゲームをしたり。

 漫画を読んだり。

 途中でコンビニへアイスを買いに行ったり。

 気付けば、外は夕焼け色になっていた。

「次これやろ。」

 桜?がコントローラーを握る。

「うん。」

 二人で協力ゲームを始める。

 最初は盛り上がっていた。

 けれど。

「……。」

 桜?の返事が少しずつ減っていく。

「桜?」

「……んー。」

 眠そうな声。

「昨日、勉強してて寝るの遅くてさ。」

 欠伸を一つ。

「少しだけ眠い……。」

 椅子にもたれ掛かる。

「おい。」

 椿が苦笑する。

「寝るなよ。」

「五分だけ……。絶対起きるから……。」

 そう言った数秒後には、小さな寝息が聞こえ始めていた。

「……早。」

 椿は思わず笑う。

 コントローラーを机へ置き、毛布を持ってきて桜?の肩へ掛けた。

「風邪ひくぞ。」

 そう呟く。

 返事はない。

 規則正しい寝息だけが部屋に響いていた。

     ◇

 暇になった椿は、何となく部屋を見回した。

 本棚。

 ゲームソフト。

 机。

 その時だった。

 机の一番下の引き出しが、ほんの少しだけ開いていることに気付く。

「……。」

 閉め忘れか。

 そう思い、椿は立ち上がった。

 引き出しを閉めようと手を掛ける。

 その瞬間。

 一冊の黒いノートが目に入った。

 何気なく視線を落とす。

 表紙には、小さな文字で書かれていた。

 『日記』

 椿の手が止まる。

「……日記。」

 思わず小さく呟く。

 すぐ後ろでは、桜?が静かな寝息を立てている。

 読むつもりはなかった。

 ただ、引き出しを閉めるだけのはずだった。

 それなのに。

 椿の視線は、その黒いノートから離れない。

 日記。

 そこには、今の桜?が何を考え、何を思い、どう過ごしてきたのかが書かれているのかもしれない。

 椿はゆっくりと息を吐いた。

「……。」

 読んでいいものじゃない。

 そんなことは分かっている。

 でも。

 もし、この日記の中に。

 桜が戻る手掛かりが書かれていたとしたら。

 椿は葛藤するように目を閉じた。

 部屋には、時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。

◇

 部屋は静かだった。

 時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。

 椿は黒いノートを見つめたまま立ち尽くしていた。

 読んではいけない。

 そんなことは分かっている。

 これは桜?のものだ。

 勝手に開くなんて最低だ。

 「……。」

 椿は一度、寝ている桜?へ目を向ける。

 穏やかな寝顔。

 小さな寝息。

 何も知らずに眠っている。

 その姿を見て、椿はゆっくりと目を伏せた。

 「ごめん。」

 誰にも聞こえないほど小さな声。

 謝るように呟いてから、そっと黒いノートを手に取る。

 少しだけ重かった。

 生活の記録が詰まっているような重みだった。

 椿はゆっくりと表紙を開く。

 最初のページ。

 日付だけが書かれている。

 『〇月〇日』

 その下には、丁寧な文字が並んでいた。

 椿は息を飲み、静かに読み始める。

 そこに書かれていたのは、学校の出来事でも、宿題でもなかった。

 『今日は給食でプリンが出た。じゃんけん勝っておかわりできた。』

 それだけだった。

 椿は思わずページをめくる。

 次の日。

 『今日は河川敷で昔話を聞いた。嬉しかった。』

 また次の日。

 『椿と美咲と勉強した。英語が全然わかんない。』

 また次。

 『先生にゲーム持っててるのがバレた。怒られた』

 次。

 『体育の新体力テストでA判定だった!』

 次。

 『椿とゲームしてまた負けた。なんで椿は頭も良くてゲームも上手いんだよ。』

 次。

 『椿と秘密基地に久しぶりに行った。なんか怖かった。』

 椿の手が止まる。

 日記のどれも自分と一緒に過ごした時間だ。

 それ以外のことは、ほとんど書かれていない。

自分以外の友達のとの話。

 テレビの話も。

 何一つない。

 あるのは。

 椿と過ごした時間だけ。

 「……。」

 椿は小さく息を吐いた。

 こんな日記を書くくらい。

桜は。

 自分との時間を大切に思っていたのか。

 胸の奥が、少しだけ締め付けられる。

 その時だった。

 「……ん。」

 後ろから、小さな寝返りの音がした。

 椿の肩がびくりと震える。

 慌てて振り返る。

 桜?は少し身体の向きを変えただけで、まだ眠っていた。

 椿は胸を撫で下ろす。

 そして日記へ視線を戻した。

 指先は、次のページへ伸びる。

 まだ、知りたい。

 桜を取り戻す手掛かりが、この先にあるかもしれない。

 その思いが、椿の「読んではいけない」という良心を、少しずつ押し流していった。

椿は静かにページをめくる。

 そして。

 桜の失踪騒ぎの日を境に、文字の雰囲気が少し変わった。

 椿は眉をひそめる。

 最初の一行を読む。

 『今日からバレないように頑張ろう。』

 「……?」

 椿は思わずページをめくる。

 『今日も大丈夫。母さんにはバレてない。』

 さらに次。

 『椿に違和感を持たれてる。』

 また次。

 『桜らしいと思うけど。』

 また。

 『今日はうまくできた。』

 椿の鼓動が速くなる。

 「何だ……これ。」

 ページをめくる手が止まらない。

 日付が進む。

 そして。

 あの日の日付が現れた。

 山で。

 白い蛇を見つけた日。

 椿は息を呑む。

 そこには、短く一行だけ書かれていた。

 『椿が見つけちゃった。明日処理しなきゃ。』

 「……処理?」

 意味が分からない。

 何を。

 何のことを。

 椿は続きを読もうとページへ指を掛けた。

 その時。

 「――椿?」

 背後から声がした。

 椿の身体が凍り付く。

 ゆっくり振り返る。

 いつの間にか、桜?が起きていた。

 毛布を肩に掛けたまま、椿を見つめている。

 その視線は、椿ではなく。

 椿の手の中の日記へ向いていた。

 数秒。

 誰も動かなかった。

 やがて桜?が静かに口を開く。

 「……椿。」

 その声には、いつもの柔らかさがなかった。

 「何、勝手に読んでるの?」

 椿は日記を握ったまま立ち尽くす。

 胸の鼓動だけが大きく響く。

 そして。

 ゆっくりと口を開いた。

 「……処理って。」

 桜?の表情が、わずかに固まる。

 椿は真っ直ぐその目を見た。

 「処理って、何?」

 部屋から音が消えた。

 テレビのゲーム画面だけが、操作されないまま静かに点滅を繰り返していた。

桜?はしばらく椿を見つめていた。

 怒るでもなく。

 慌てるでもなく。

 ただ静かに。

 椿の手の中にある日記へ視線を落とす。

 やがて、小さく息を吐いた。

 「……読んじゃった?」

 その声は、驚くほど穏やかだった。

 椿は何も答えない。

 ただ日記を握る手に力が入る。

 桜?は少しだけ困ったように笑った。

 「そっか。じゃあ、仕方ないや。」

 そう言うと、机の上の日記をそっと閉じた。

 怒る様子はない。

 むしろ、どこか諦めたような表情だった。

 椿は警戒したまま尋ねる。

 「……処理って何だ。」

 桜?はその問いには答えず、立ち上がった。

 制服の上着を羽織り、部屋のドアへ向かう。

 「秘密基地、行こうか。」

 椿は眉をひそめる。

 「今?」

 「うん。」

 桜?は静かに頷く。

 「ここで話すと。」

 一度だけ廊下の方へ目を向ける。

 「母さんに聞こえるかもしれないし。全部話す。」

 その言葉に、椿は息をのむ。

 「全部……。」

 桜?はゆっくり振り返った。

 その表情には笑顔が浮かんでいた。

 けれど、その笑顔は椿が知っているどの笑顔とも少し違って見えた。

 どこか力が抜けたような。

 何かを覚悟した人の笑顔だった。

 「約束したでしょ。見つかったら話すって。」

 椿はしばらく黙っていたが、やがて日記を机へ戻し、小さく頷く。

 「ああ。」

 桜?も静かに頷き返す。

 「じゃあ行こう。」

 二人は何も話さないまま玄関を出る。

 夕暮れの風が頬を撫でる。

 秘密基地へ続く道は、昔と何一つ変わっていない。

 それなのに。

 二人とも、この道を歩く意味だけは、もう昔とはまったく違うものになっていた。

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