第13話 隔壁の戦い
中央通路には、まだ血の匂いが残っていた。
館内放送は止まっている。
子どもの声も、もう聞こえない。
床には無数の管理タグが散らばり、破れた服と壊れた管理札が赤い非常灯に照らされていた。
DARKNESSは、通路の中央に立っている。
だが、誰も近づけなかった。
さっきまでそこにいたのは、風間啓介ではなかった。
黒血に身体を奪われ、異形を壊し尽くした修羅だった。
ユリの声が通信に入る。
『啓介、神経信号がまだ安定していません』
『無理に動かないでください』
啓介は短く答えた。
「……問題ない」
問題ない声ではなかった。
鬼塚豪は、それを聞いて舌打ちした。
「嘘つけ。立ってるだけで精一杯だろ」
啓介は答えない。
鬼塚は記録保管室方面を見た。
隔壁の向こう。
そこにはまだ、黒瀬と一真がいる。
端末を見ていた相良が言う。
「記録保管室方面、異形反応継続。RC-01、AS-02ともに戦闘中」
鬼塚の目が細くなる。
「隔壁を開けろ」
相良は振り向かない。
「開ければ異形が押し寄せる」
「閉じたままなら、黒瀬と一真が死ぬ」
「自ら望んで向かった」
鬼塚が一歩出た。
「自らじゃねえ! お前がそう仕向けた!」
相良は否定しなかった。
その沈黙が、鬼塚の中で何かを切った。
「どけ」
「GRAVE、止まりなさい」
「聞こえなかったか」
鬼塚の声が低くなる。
「どけって言ったんだ」
相良の鎖が、床を滑った。
◇
記録保管室側の通路では、一真が黒瀬を背にして戦っていた。
FANGの腕部装甲には、深い傷が走っている。
肩口の外殻も削れ、赤い光が不安定に明滅していた。
前方から異形が来る。
一体。
二体。
三体。
一真は最初の一体を蹴り飛ばし、二体目の爪を腕で受けた。
金属が削れる音が響く。
三体目が低く飛び込む。
一真は一蹴し、壁へ叩きつけた。
「くそっ……数が減らねえ」
背後で、黒瀬が壁にもたれたまま息を整えている。
SHADEの装甲は薄く暗い。
だが、発光が乱れていた。
送信の負荷と連戦で、明らかに限界が近い。
「一真」
「喋るな」
「もういい……一人で向かえ」
一真は振り返らずに怒鳴る。
「良かねえ! お前も連れてく!」
黒瀬は静かに言う。
「俺が残れば、少しは時間を稼げる」
「お前、時間稼ぎにもならねえくらいボロボロだろ!」
一真は異形の顎を腕で弾き飛ばした。
「黙って立ってろ。いや、立つな。座ってろ」
「無茶苦茶だな」
「うるせえ!」
一真の息が荒くなる。
異形の爪が肩を裂く。
FANGの装甲に火花が散った。
黒瀬が援護しようと一歩出る。
だが、その膝が沈む。
一真が舌打ちする。
「動くなって言っただろ!」
「このままだと、お前が死ぬ」
「お前も俺も、この先誰も死なせねえ!」
黒瀬は黙った。
一真は前を見る。
通路の奥から、また爪の音が増えていた。
◇
中央通路では、鬼塚が前へ進もうとしていた。
その足首に、相良の鎖が巻きつく。
次に腕。
次に腰。
CHAINの拘束具が、鬼塚の進路を封じようとする。
「あなたが行っても、状況は変わらない」
相良は冷静に言った。
「GRAVE一人で全員は救えない」
鬼塚は鎖を引きずった。
金属が軋む。
「全員は無理でも、一人くらいは掴める」
「合理性がない」
「人を助けるのに、いちいち計算してんじゃねえ」
鬼塚はさらに一歩進む。
床が鳴った。
GRAVEの重装が、赤い非常灯の下で鈍く光る。
相良の鎖が追加で伸びる。
床に突き刺さり、鬼塚をその場へ縫い止めようとした。
「諦めなさい」
「嫌だね」
鬼塚は鎖を掴んだ。
指先に力を込める。
鎖がぎりぎりと鳴った。
相良の眉がわずかに動く。
「力任せでは状況は変わらない」
「変わるさ」
鬼塚は鎖を引きちぎる勢いで前へ出た。
「俺が動けばな」
その瞬間、鬼塚の脳裏に、古い記憶がよぎった。
◇
まだ幼い頃。
堕闇の訓練施設。
薄暗い訓練場。
冷たい床。
荒い息。
泣くことを許されない子どもたち。
倒れた子どもがいた。
誰も助けなかった。
教官が言ったからだ。
「任務に不要なものは捨てろ」
「遅れる者は荷物だ」
幼い豪は、立ち止まった。
倒れた子どもは、手を伸ばしていた。
声は出ていなかった。
それでも、助けを求めているのは分かった。
豪は、その子を背負った。
次の瞬間、教官に殴られた。
床に倒れた。
口の中が切れ、血の味が広がった。
「任務に不要な荷物を背負うな」
教官の声が落ちる。
豪は床に手をついたまま、倒れた子どもを見た。
荷物じゃねえ。
人間だ。
その言葉だけが、胸の奥に残った。
◇
現在。
鬼塚は鎖を引きずりながら進んでいた。
肩の装甲が削れる。
腕に絡んだ鎖が肉まで食い込み、血がにじむ。
それでも止まらない。
相良の声が背後から飛ぶ。
「GRAVE、停止しなさい」
「何度も言わせんな」
鬼塚は振り向かない。
「俺は、荷物を捨てるためにここに来たんじゃねえ」
相良が目を細める。
「黒瀬は離反行動を取った」
「だから何だ」
「任務上、救出優先度は低い」
鬼塚が足を止めた。
ゆっくり振り返る。
「お前、本気でそういう顔して言えるんだな」
「事実よ」
「そうか」
鬼塚は少しだけ笑った。
怒りの混じった笑いだった。
「なら、俺とは一生合わねえ」
鬼塚は再び前へ進む。
相良の鎖がさらに張る。
だが、GRAVEは止まらなかった。
◇
記録保管室側。
一真は限界に近づいていた。
FANGの動きはまだ速い。
だが、黒瀬を庇いながらでは、自由に動けない。
異形が右から来る。
一真は弾く。
左から来る。
蹴る。
天井から落ちる。
肩で受ける。
爪が装甲の隙間をかすめ、血が飛んだ。
「一真!」
黒瀬が声を上げる。
「来るな!」
一真は異形を蹴り飛ばしながら叫んだ。
「お前が動くと、俺の仕事が増える!」
「もう十分だ……」
「何がだよ! まだだ!」
黒瀬は壁に背をつけたまま、静かに言った。
「たとえここを出られたとしても、俺にその先はない……」
一真は一瞬だけ動きを止めた。
「……何言ってやがる」
飛びかかってきた異形を殴り飛ばす。
「後のことは、ここから出て考えりゃいい!」
黒瀬の目が、わずかに揺れた。
その時、遠くから重い音が響いた。
金属を無理やり曲げる音。
一真が振り返る。
「まさか……」
黒瀬も、閉じた隔壁を見る。
「鬼塚か」
◇
鬼塚は隔壁の前に立っていた。
記録保管室方面へ続く重隔壁。
赤い警告灯が回っている。
認証はロック。
外部制御は遮断。
通常手段では開かない。
相良が後ろから追いつく。
「無駄よ」
鬼塚は隔壁に手をかける。
「そうかよ」
「その隔壁は外部制御を切っている。認証なしでは開かない」
「なら、手で開ける」
「不可能よ」
鬼塚は肩を回した。
重装の関節が低く鳴る。
「じゃあ見てろ」
GRAVEの両腕が隔壁の隙間に食い込む。
金属が悲鳴を上げた。
鬼塚の足元の床が割れる。
肩部フレームが軋む。
腕部装甲の隙間から血が流れる。
相良の鎖が再び鬼塚へ伸びた。
腕に絡む。
背中に絡む。
腰を締める。
「止まりなさい」
「止まらねえ」
鬼塚は歯を食いしばった。
隔壁がわずかに歪む。
赤い警告灯が激しく点滅する。
相良が端末を見る。
「GRAVE、筋繊維負荷が危険域に入っている」
「だから何だ」
「腕が壊れるわ」
「腕で済むなら安い」
鬼塚はさらに力を込めた。
隔壁が、数センチ開いた。
向こう側から、一真の声が聞こえる。
「鬼塚!」
鬼塚は低く笑った。
「聞こえてるなら、手伝え!」
一真が向こう側から隔壁に手をかける。
FANGの腕部装甲が軋む。
鬼塚がこちら側から引く。
一真が向こう側から押す。
金属がゆっくりと歪んでいく。
黒瀬がその様子を見ていた。
「無茶をする」
一真が吐き捨てる。
「あいつは昔からそうだ!」
◇
隔壁の隙間が広がる。
だが、その向こうには異形の影が見えていた。
一真と黒瀬の背後からも。
鬼塚の側からも。
異形の群れが近づいている。
相良が言う。
「開ければ雪崩れ込む」
鬼塚は隔壁から手を離さない。
「分かってる」
「分かっていて開けるの」
「ああ」
「なら、あなたは部隊を危険に晒している」
鬼塚は笑った。
「違うな」
隔壁がさらに歪む。
「俺がここで止める」
相良の目がわずかに動く。
鬼塚は状況を見ていた。
この隔壁を開ければ、一真と黒瀬は抜けられる。
だが、異形も雪崩れ込む。
全員で抜けようとすれば、防衛線が崩れる。
鬼塚は隔壁の隙間に指を食い込ませたまま、奥歯を噛んだ。
「……閉まるまで、押さえりゃいい」
それだけだった。
死ぬとか、戻れないとか。
そんなことを考えている暇はなかった。
「おい、一真」
隔壁の向こうへ声を飛ばす。
「開いたら走れ。黒瀬を抱えてでも走れ」
向こう側から、一真の怒鳴り声が返ってくる。
「命令すんな!」
鬼塚は笑った。
「じゃあお願いだ。聞け」
◇
ついに隔壁が開いた。
歪んだ金属の隙間から、鬼塚の巨体が現れる。
装甲は削れ、鎖が絡み、腕からは血が流れていた。
それでも、鬼塚は立っていた。
一真が息を吐く。
「遅えんだよ、鬼塚」
鬼塚は血まみれの装甲で笑った。
「悪いな。墓場の入口が、少し混んでた」
黒瀬は言葉を失っていた。
鬼塚は黒瀬を見る。
「まだ死ぬ顔じゃねえな」
「……なぜ来た」
「聞くなよ」
鬼塚は肩を鳴らした。
「気分が悪いからだ」
一真が黒瀬の腕を掴む。
「行くぞ」
黒瀬は鬼塚を見る。
「お前は」
「俺は後で行く」
鬼塚は即答した。
その背後から、異形の爪音が近づいている。
鬼塚は隔壁の前に立った。
「相良!」
後方で端末を構えていた相良が顔を上げる。
「再閉鎖の準備をしろ」
一真の顔色が変わる。
「おい、何する気だ」
鬼塚は異形の群れへ向き直った。
「殿だよ」
「ふざけんな」
「閉まりきるまで押さえる。そんだけだ」
「そんだけで済むわけねえだろ!」
「済ませるんだよ」
鬼塚は肩を鳴らした。
「俺を誰だと思ってる」
一真の拳が震える。
「勝手に決めんな」
「お前に決めさせたら、全員死ぬ」
鬼塚は黒瀬を顎で示した。
「連れて行け」
一真は動けなかった。
黒瀬が、かすれた声で言う。
「一真、行け」
一真は黒瀬を見る。
「お前までそう言うのかよ」
「ここで止まれば、鬼塚の意味がなくなる」
一真は歯を食いしばった。
鬼塚は異形の群れへ向き直る。
相良が端末を操作する。
「再閉鎖を開始する」
一真が叫ぶ。
「鬼塚!」
鬼塚は振り返らなかった。
「行け。俺が閉めるまで、振り返るな」
一真は黒瀬を抱えるようにして走り出した。
隔壁が、ゆっくりと降り始める。
鬼塚は、開いた隔壁の前に立った。
背後では、一真が黒瀬を抱えて走っている。
前方では、異形の群れが迫っている。
鬼塚は拳を鳴らした。
「急げよ、一真」
背中越しに、そう吐き捨てる。
「俺が戻る場所、残しとけ」
次の瞬間、異形の群れが赤い非常灯の奥から跳んだ。
GRAVEは、墓場の入口で笑った。




