第48話 断罪ルートは消えました
卒業パーティーの夜が来た。
大講堂の扉の前で、私は一度だけ足を止めた。
今日の日付は、二年前から頭に刻み込んである。ゲームの断罪イベントが起きる、まさにその日。舞台も同じ、この大講堂だ。
扉の向こうから、弦楽の音と笑い声が漏れてくる。
癖で、深く息を吸っていた。吸って、四つ数えて、吐く。決戦前のルーティーン。
……いえ、待ちなさい。今夜は何もないのよ。身構えるべき案件が、もう存在しないの。
九年の社畜生活と二年の断罪対策で染みついた癖は、そう簡単には抜けないらしい。
肩の力を抜いて、扉をくぐった。
金色の光と、焼き菓子と果実水の甘い匂いが押し寄せてくる。
会場は、去年までと少しだけ景色が違った。壁際にいつも固まっていた一団がいない。拍手の遅い、あの人たちだ。それだけで、空気の通りがまるで違う。
断罪ルートの命日は、ただの卒業パーティーになった。
例の書記官は、委員長の指示で二つの文書を閲覧したと認めた。
両替商の店からは、飢饉の年の送金の記録が箱ごと押さえられた。
治癒魔導士ギルドは理事が総入れ替えとなり、解体に近い形で組み直されている。
薬価は是正され、釣り上げられていた分の返金と、買い占めの被害地域への補償が始まった。
補償の対象地の一覧に、北部の村の名前がある。セバスティアンの村だ。学校の隣に、薬の常備庫も置かれるらしい。
神殿は規則の見直しに入った。聖属性の適性検査は、監督権を王宮と分け合う形に改められる。検査の場から、特定の家の目を外すための措置だ。
ヘルムシュタット伯爵家は、負債の経緯が脅迫による従属と認められ、存続が決まった。
そのヘルムシュタット家の令嬢は、今夜、会場の中央で扇を構えていた。
蜂蜜色の巻き毛は、俯くことなく堂々と人の輪の中にある。偽証の台本を突き返した令嬢として、彼女の名前は半年で社交界に鳴り響いた。
卒業後の行き先は、王宮の監察部門だと聞いている。数字の裏を取る根気と、権力の匂いを嗅ぎ分ける鼻。あの力は、正しい場所で使えば国の武器になる。
視線に気づいたのか、マリアンヌがこちらを向いた。扇の縁の上から、ツンとした目で私を見る。それから彼女は、聞こえもしない距離で口だけを動かした。
――怖い方。
あら、褒め言葉として受け取っておくわ。私は扇を小さく開いて返事をした。
そして、この半年の騒ぎの中心にいた人は、今夜この会場にいない。
レーゲンブルク侯爵。取り調べの間、罪状は一つずつ争ったくせに、あの言葉だけは最後まで撤回しなかったそうだ。
玉座は本来、我らのもの。
あの家の初代は、二百年前に廃嫡された元王太子だった。
二百年前、この国には廃嫡された王太子がいた。寵姫の讒言を信じ、国王の外遊の隙に粛清の勅書へ署名した王太子。忠臣が三人、その日のうちに捕らえられたとある。
四人目は、王太子の婚約者だった。処刑の朝、広場まで運ばれて、外遊から駆け戻った国王に寸前で止められている。
その結果、玉座を失い、臣籍に下って辺境の侯爵になった。
その記録は王家の書庫の奥に、たった一冊だけ残されていた。
二十年かけた善行も、ギルドの利権も、負債の首輪も、全部が一つの悲願のための足場だった。奪うのではなく、戻す。侯爵家の血を引く娘を、私の席に据えるために。
裁定は、卒業式の十日前に下った。爵位の剥奪と、国外への追放。
ゲームの断罪ルートで、ユリアーナが受けるはずだった処分と、そっくり同じだ。筋書きを書いた側が、筋書き通りの結末を自分で引き受けたことになる。
二百年前の人事に文句を言い続けた挙句、捏造で懲戒解雇。……うちの会社にもいたわ、こういう人。
それにしても、ミリアがレーゲンブルク侯爵家の血筋だったとはね。
なんでも三代前の次男が平民と駆け落ちしていたらしい。駆け落ちしたとはいえ、その子供たちの行方も、駒にできるようならいつでも使えるように、しっかり追跡されていたそう。
だから王太子妃の席に、ミリアを座らせたかったのか。
感慨に浸る間もなく、大きな声が飛んでくる。
「ユリアーナ様! ご卒業、おめでとうであります!」
「バルトロウ様も、おめでとうございます」
「はっ! 自分は明日から騎士団であります! それと、ご報告があります!」
彼は拳で手の平をぱんっと打った。会話の句読点は、卒業しても健在らしい。
「親父の例の文書、調査委員会に正式に出されました! 訓練制度の改革が、議題に載ったのであります! 二十年越しでありますよ!」
「あら。では、あなたが入る騎士団は、あなたの代から変わるのね」
「はっ! 変える側で入れるとは思っておりませんでした!」
声が大きい。でも、この裏表のなさは、騎士団の宝になるだろう。
入れ替わりに、銀髪が完璧な角度の礼をよこした。
「リヒャルト・グラーフェンベルクです。以後は外務の役所でお目にかかることになるかと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いします」
「宰相閣下の下で働かれるのね」
「ええ。父は面白いものが好きなので、息子を一番忙しい部署に放り込むそうです」
「あら。それは災難ですこと」
「いえ。私も、その血を引いておりますのでやる気が出ます」
口の端だけで笑って、彼は次の来賓への挨拶へと行った。相変わらず、そつがないこと。
ユリウスは、予想通りシャンデリアを見上げていた。
「ユリウス様。今夜くらい、ランプはお休みになったら?」
「あ、ユリアーナ様。違うんです、これは新作の検分なんです。実は、僕が改修案を出した新型なんですよ。消費が二割減って……。あ、すみません。ええと、卒業のご挨拶でした。炉の再設計が僕を待っているので研究院に正式に入りますが、これからも予算のほうをお願いします」
卒業式よりも予算のほうが重要らしい。ユリウスらしいというべきか。
セバスティアンは、会場の隅で人の流れを目で追っていた。私に気づくと、背筋を伸ばして深く礼をする。
「商会に籍を残したまま、教育省へ出向することになりました。それと……故郷の村に、最初の学校が建ちます」
「良かったですわね」
「僕は、最初は教わる側でしたが、これからは建てる側に回ります」
言葉数は少ない。でも声の芯は、入学式の日よりずっと太くなっていた。
人垣の切れ目で、マルガレーテの扇が胸の高さで小さく一度開く。本日、異状なし。
彼女は社交界の裏方へ、エリーゼは教材づくりの現場へ、フリーデリケは王宮の広報へ。三人の行き先は、もう決まっている。
私は扇を閉じて、開いて、返事をした。こちらも同じく異状なし。
昼間には、研究院からも祝いが届いていた。手紙と、小さな包みだ。
包みの中身は、小瓶に詰めた土だった。灰色ではない、黒くて湿った、生きている土。手紙には一行、大きな字で『畑の土です!』とだけあった。
説明が全部省略されている。でも、これ以上ない報告書だと思う。
私は、雪解けの頃に彼女が訪ねてきた日のことを思い出した。
研究の報告を一通り終えた後で、ミリアが急に話し出したのだ。
「実は私、研究院に来て気づいたことがあるんです。……私、恋愛に、そんなに興味がないんです」
……え。
あなた、乙女ゲームのヒロインよね? 恋愛に興味がないなんて、そんなことあるの?
「お母さんは、いい人を見つけないと行き遅れるって言うんですけど、今の私が一番ときめくのは、実験が成功した瞬間なんです。……結婚より研究がしたいなんて、おかしいですか?」
「いいえ、おかしくなんて、ありませんわ」
そう言いながらも、否定してほしくてチラチラ見るミリアを可愛らしいと思いながら、私は安心させるように微笑んだ。
「自分の道を見つけた人は、誰よりも美しいものよ。それに、好きな方ができたなら、結婚も研究も、両方すればいいじゃありませんの」
「そんなこと……できますか?」
「私はユリアーナ・ヴァイスフェルトですのよ。いつまでにとは申せませんが、必ずその道を切り開いてあげます」
ミリアの目が、じわりと潤んだ。それから彼女は、勢いよく手を差し出してきた。
「これからも、よろしくお願いします!」
握った手は小さくて温かくて、けれども実験で土を触るせいで固く荒れていた。
悪役令嬢とヒロインの手が、敵対ではなく協力のために結ばれている。ゲームの制作陣が見たら、腰を抜かす図に違いない。
「一曲、いいだろうか」
振り向くと、マクシミリアンが手を差し出していた。
手を重ねて、輪の中へ出る。彼のリードは正確で、余計な力がない。
「静かな夜ですわね」
「ああ。……二年前の君は、今夜のために走っていたんだな」
「あら、ご存じでしたの」
「今なら分かる、という話だ」
曲の終わり際、彼は少しだけ声を落とした。
「卒業して、王宮に来たら、見せたいものがある」
「贈り物ですの?」
「……そういう類のものでは、ないな」
それきり、彼は何も言わなかった。低い声の残りが、耳の奥に引っかかったままになる。
気になるじゃないの。そういう引きの作り方、どこで覚えてくるのかしら。
やがて楽団が終曲の和音を長く伸ばし、学園長が閉会の言葉を述べた。
拍手。それから、方々で上がる笑い声と、別れの挨拶のさざめき。
卒業パーティーが、終わったのだ。
何事も、起きないままで。
息を、長く吐いた。吐いてから、自分がずっと肩に力を入れていたことに気がついた。
二年前、目覚めた朝に書き始めた作戦は、今夜のこの瞬間のためにあった。断罪も、婚約破棄も、国外追放も、指定の日時に発生しなかった。フラグは一本残らず、折れている。
頭の中の段取り表の一番下、【期限・卒業パーティー当日】の欄に、私はゆっくりと線を引いた。全項目、完了。
前世で、納品完了の報告を送った深夜の感覚に少し似ている。
ただ、あの頃と違って、明日からも私の人生は続くのだ。誰にも断罪されずに、続いていく。
……ふふ。ざまあみなさい、シナリオ。
ヒロインを排除したら、断罪ルートが消えた。
シャンデリアの金色の光が、さっきよりやわらかく目に染みた。同じ光のはずなのに、おかしなものね。
私は果実水の杯を取り、誰にともなく小さく掲げてから、飲み干した。




