第17話 悪意のある噂
週報は二号、三号と続き、季節の風が少しずつ変わっていった。
プロジェクトは順調だった。バルトロウの訓練案は騎士団の若手から非公式の応援が届き、ユリウスのランプ規格の試算は教師陣の目に留まった。
週報の固定読者も増え、掲示の日には貼り替え前から人が待つようになった。
だから、来るとすれば頃合いだと思っていた。
兆しは、その日の朝からあった。
教室へ向かう廊下で、前を歩く令嬢の一団の話し声が、私が近づくと不自然に途切れた。振り返った顔は全員が笑顔で、全員の目が笑っていなかった。
肌の産毛が立つ、あの感覚。会議室の外で自分の名前が呟かれている時の、あれだ。
中身までは分からない。分からないまま午後になった。
そして放課後、空き教室に飛び込んできたフリーデリケは、開口一番こう言った。
「出ましたわ、ユリアーナ様。良くない話です」
息が上がっている。廊下を走ってきたらしい。令嬢が、廊下を、全力で。
「聞かせて」
「『ユリアーナ様が殿下を利用して売名している』――二年の談話室と、東寮の湯浴み場で、昨日から。言い回しがほとんど同じでしたわ。『週報も本当は殿下に書かせている』という続きつきで」
なるほど。表に出した仕事を、そのまま裏返してきたわけだ。
卓を囲んでいたマルガレーテの眉が上がり、エリーゼの顔から血の気が引いた。
「な、なんてことを。殿下のお名前まで」
「言わせておけば良いのですわ。……とは、参りませんわね。放置すれば王家への不敬を、ユリアーナ様が招いた形にされてしまう」
マルガレーテの読みは正しい。この噂の刃は、私よりも先に、発行人の名前に届く作りになっている。
前世の炎上対応で骨身に染みたことが一つある。火消しの九割は、最初の一日で決まる。
「慌てないで。手はもう決めてあるわ。三人とも、聞いてくれる?」
三人が卓に身を寄せた。焼き菓子の皿を端に避けて、私は白紙を一枚広げる。
「まず、噂を否定しない」
「否定、なさらないの?」
「『違います』は、火に薪をくべる言葉なのよ。言えば言うほど、元の噂が繰り返されて広まるの。だから否定ではなく、上書きするわ」
エリーゼには号外を頼んだ。内容は反論ではなく、ただの事実。週報の作られ方だ。
記事は編集係が書き、発行人が監修する。原稿の余白の赤入れも、修正前後の文面も、恥ずかしながらそのまま図解で載せる。誰が書いて、誰が直しているか、一目で分かる形に。
「わ、私の下書きが、掲示板に……」
「嫌なら断ってくれていいのよ」
「いえ。載せます。あの、直された数の多さも、その、正直に」
エリーゼが手帳を握りしめて頷いた。この子は、こういう時に一番肝が据わる。
マルガレーテには配布の順番を任せた。号外が届く順路を、噂の濃い所から薄い所へ。刺繍の会よりも先に、二年の談話室と東寮へ。
「濃い方から、ですのね。承知いたしましたわ。それと、湯浴み場の件は水曜までに私の口からも各所へ。……ふふ、腕が鳴りますこと」
扇の陰の口元が、獲物を見つけた形になっている。頼もしいので見なかったことにした。
フリーデリケには、引き続き耳と足を。噂の言い回しの変化と、誰が最初に口にしたかの聞き取りだ。
「お任せくださいまし! 初動が命、ですものね!」
段取りを配り終えた翌日、私は号外の草稿を持って生徒会室へ向かった。監修の判をもらうためだ。
噂の件は、彼の耳にも既に入っていた。草稿を差し出すより先に、マクシミリアンの方から切り出してきた。
「例の噂だが。私の名で否定の文を出そうか。発行人が事実を述べれば、一日で終わる」
ありがたい申し出だ。そして、一番やってはいけない手でもある。
「お気持ちだけ頂戴しますわ。殿下が否定なさると、噂は『殿下に庇わせた』という次の噂に化けます。火消しに王家の名を使うのは、最後の手段に取っておくべきですの」
「では、どうする」
「否定はいたしません。上書きします」
草稿を机に置くと、彼は目を通し、それから私の顔を見た。値踏みではない。答え合わせをするような目だった。
「赤入れの下書きまで晒すのか。私の字も込みで」
「お嫌でしたら、伏せますけれど」
「構わない。君のやり方を見せてもらう」
彼はペンを取り、いつもの倍の速さで監修を済ませた。差し戻された草稿の余白に、一行だけ添えてある。
『経過を毎日知らせてほしい。発行人として』
発行人として。わざわざ書き添えるあたりが、実に彼らしい。私は草稿を胸元に抱えて、一礼して部屋を出た。
三日後、号外が貼り出された。
題は『週報ができるまで』。エリーゼの下書きと、赤入れの写しと、修正後の紙面。三枚を並べただけの、宣伝でも弁明でもない、ただの製造工程の公開だ。
効果は、掲示板の前で立ち聞きするまでもなかった。
まず、赤入れだらけの下書きが「殿下の字が拝見できる」と令嬢たちの間で思わぬ評判になった。次に、直された数の多さを正直に晒したエリーゼが「潔い」と株を上げた。
そして配布の順路が効いた。マルガレーテの読み通り、噂の濃かった二年の談話室と東寮に号外が最初に届き、噂の続きを口にした者は、その日のうちに「号外を読んでいない人」として笑われる側に回った。
利用されている人間が、他人の原稿の余白をあんな字で埋めたりしない。読めば分かる。読ませれば、勝つ。
五日目の朝には、廊下の空気が変わっていた。
私が通っても、話し声はもう途切れない。それどころか、すれ違いざまに「次の号はいつ出ますの」と声をかけてくる令嬢までいた。産毛の立つあの感覚は、どこにもない。
同じ廊下、同じ顔ぶれ。変わったのは、流れている情報の中身だけだ。
約束通り、経過は毎日、短い報せにして発行人へ届けた。
三日目の返しには『見事だ』の三文字だけがあって、私はその紙を必要以上に長く眺めてしまい、慌てて文箱にしまった。
……次号の資料に挟んだだけよ。他意はないわ。
一週間後、フリーデリケが聞き取りの結果を持ってきた。
「言い出しは二年の子爵令嬢まで辿れましたの。ですけれど、その方も『夜会で小耳に挟んだ』の一点張りで。どこの夜会か、誰からかは、どうしても……糸が、ぷつりと」
「そう。よく調べてくれたわ。そこで止めて正解よ」
労いながら、私は手元のノートに短く書きつけた。
素人の噂は、辿れば必ず発生源に着く。辿り着けない噂は、プロの仕事。
前世の経験則だ。書き終えて、ノートを閉じる。
今は材料が足りない。それに、こちらの守りが機能すると分かった以上、慌てる理由もない。
深追いは、しない。
今は。
「三人のおかげで、初戦は完勝よ。週末、うちのサロンでお疲れ様会をしましょう」
打てば響くように、三人の歓声が空き教室に弾けた。




