第1話 元社畜の悪役令嬢、目覚める
同タイトルの短編を長編化しました
黒幕も出てくるお話になっておりますので、短編をご覧の方にも楽しんで頂けると思います
どうぞよろしくお願いします
目を開けた瞬間、天蓋付きのベッドが視界を埋めた。
絹のカーテン越しに差し込む朝日。
肌に触れるシーツは吸い付くようななめらかさで、寝ぼけたまま、こんなに肌触りがいいシーツなんて買ってたっけ、と考える。
気のせいか、良い匂いまで漂ってくる。
鼻先をくすぐる花の香りは間違いなく生花だ。
いや、ちょっと待って。
――これ、夢じゃないな。
起き上がろうとして、こめかみの奥に鈍い痛みが走った。
記憶が二つ、同時に流れ込んでくる。映像というより、重さのある塊が二つ、頭の中で押しつぶし合っている感覚だ。
片方は、ユリアーナ・ヴァイスフェルトの十五年間。
公爵家の長女として生まれ、三歳から礼法を叩き込まれ、王太子の婚約者に相応しい令嬢になるために、完璧な笑顔と完璧な立ち居振る舞いを身に染み込ませてきた記憶。
しかもこの名前には、聞き覚えがある。乙女ゲームの悪役令嬢の名前だ。
もう片方は、二十九歳、広告代理店勤務の社畜。
終電が友達で、始発が恋人。仮眠室が実家より居心地よく感じ始めた時点で、人生の何かが壊れていたのだと思う。
最後の記憶は、七十二時間ぶりの帰宅途中に見た、やけに近い地面の映像だ。おそらく過労で倒れた。
つまり……。
私は目を閉じて情報を精査する。
過労で倒れた私は生まれ変わって、乙女ゲームの悪役令嬢になったってこと?
そして今、前世の記憶を思い出して、現状を把握しようと努めている。
両手でこめかみを押さえて、痛みが引くのをじっと待つ。
「……冗談じゃないわ」
声に出すと、鈴を転がしたような少女の声が返ってきた。前世とはまるで違う。
ベッドから足を下ろすと、板張りの床が素足に冷たく触れた。その冷たさを踏みしめながら、鏡台まで歩く。
磨き込まれた銀の鏡の中に、完璧に整った顔立ちの美少女がいた。
プラチナブロンドの髪は毛先まで艶があり、瞳はゲームのスチルで見たそのままの紫水晶色。白い首筋、薄い肩、全体に一切の隙がない。胸……は、これから育つのだろう、多分。
前世の自分からは想像もできないほど、文句のつけようがない。
しかし、美少女であることと断罪されないことは、別問題だ。
鏡台の椅子に腰を下ろし、目を閉じて、記憶の整理を始める。
乙女ゲーム『聖なる花の誓い』。略称『フルサク』。
同期の子が激推ししていて、タクシー待ちの暇つぶしに一周だけプレイしたやつだ。
社畜の記憶力を舐めないでほしい。プレゼン前日に百ページの企画書を暗記する生活を七年続ければ、一周分のシナリオくらい脳に刻まれる。
舞台は王立ローゼンハイム学園。聖属性を持つ平民の少女ミリアが入学し、五人の攻略対象と恋に落ちる王道ストーリーだ。
そして悪役令嬢ユリアーナは、攻略対象の筆頭である王太子マクシミリアンの婚約者として、ヒロインに嫉妬し、嫌がらせを重ね、最後は卒業パーティーで公開断罪される。
処分はルートによって違うが、最も重いもので家から除名の上、国外追放。軽くても婚約破棄と社交界追放。
どのルートでも、ユリアーナに未来はない。
記憶の中の私の末路の恐ろしさに、息が止まりそうになる。
でも、パニックになっても状況は変わらない。まず現状を把握し、課題を洗い出し、対策を立てなければ。
冷静に、冷静に。
これは仕事だ。仕事だと思えばいい。
前世での経験が、勝手に思考を整理する方向へ動き出す。
次に、ユリアーナとしての記憶を手繰り寄せる。
厳格な父。書類の山に囲まれた書斎の、インクと革の匂い。話しかけるより先に成果を提示しなければならない、重い空気。
病弱だった母の記憶は、あまりない。
白い手に、薔薇の香りが染み込んでいた。それだけ覚えている。
母はユリアーナが七歳の時、熱病であっという間に逝った。
棺の前で泣かなかったのは、泣き方が分からなかったからだ。泣くほど、そばにいてもらった思い出がなかった。
母が死んでから、礼儀作法の授業が増えた。「そうではありません、もう一度」という言葉を、何百回聞いただろう。
当時のユリアーナは「お母様がいなくなったから、もっと完璧にならなくては」と勝手に解釈して、一人で背筋を伸ばした。七歳の子供が、だ。
……深入りしても仕方がない。今は断罪の回避が最優先だ。
ベッドに戻り、サイドテーブルの羽根ペンを手に取った。いらなくなった紙の裏に、頭の中のリストを書き出していく。
断罪の条件は、だいたい三つだ。
一、ヒロインへの嫌がらせ。
二、権力の濫用。
三、悪評の捏造。
この三つが重なって、卒業パーティーでの断罪に至る。逆に言えば、三つを潰せば断罪は発生しない。
前世で何度も経験した、あの感覚がよみがえる。「炎上案件の火元を特定しろ」と会議室に放り込まれ、ホワイトボードに課題を書き出していた時の、あの感覚だ。
一つ目。ヒロインへの嫌がらせ。
するわけがない。前世で散々パワハラ上司に苦しめられた私が、無関係の少女をいじめるはずがない。条件反射で却下だ。
二つ目。権力の乱用。これを防ぐには少し工夫がいる。
ヴァイスフェルト公爵家は絶大な力を持っている。そんなつもりじゃなかったとしても、私のちょっとした行動が権力の乱用だとみなされる可能性はゼロではない。
だとすれば。
公爵令嬢の力を「私利私欲」ではなく「国益」にすり替えれば、少なくとも表面上は問題ない。
そして三つ目の、悪評の捏造。これが一番厄介だ。
ゲームでは、ユリアーナが何もしていなくても、取り巻きの令嬢たちが勝手に噂を広めて、既成事実化される。
ということは、噂の発生源そのものを根元から断つ必要がある。
発生源となると、あの辺りかしら……。
あら、でも待って。
よく考えたら、断罪を回避する最も確実な方法があるじゃない。
ヒロインとの接触機会そのものを、なくしてしまえばいいのよ。




