後編
馬車の中で、私はほくほくしていた。
体がポカポカして、頭もちょっぴりぼんやりする。
この世界に転生して、はや16年。
ついに、ついに成人した……!!
先ほどのパーティーを思い返せば、自然と口元が緩む。綺麗な会場、美しい音楽ーーそんなものは、どうでもいい。
ついに!お酒が飲めた!!
(……幸せ)
ワインが美味しいことは知ってた。前世で、たらふく飲んでいた。
でもこの身体でお酒を飲むのは初めてなわけでーー
グラス越しに見える、深みのある赤。芳しい香り。
(美味しかった、なぁ……!)
うっとりと目を細めた、そのとき。
「……顔に出すぎだ」
向かいから、淡々とした声が落ちてきた。
顔を上げると、ルシアン殿下がこちらを見ている。口元だけ、わずかに笑っていた。
「……悪いですか」
「いや?愛する婚約者が幸せそうで、私も嬉しい限りですよ」
出たよ。一人称“私“のよそ行きモード。
「今日この日のために、8年も厳しい婚約者教育を受けていたんですからね。喜びを噛み締めさせてください」
「ぶれないな……婚約者になった甲斐はあっただろ?」
したり顔で言われて、ぐうの音も出ない。
今日は、私の成人を祝うパーティーだった。
“愛する婚約者の成人を祝いたい“という名目で、ルシアン殿下が主要な貴族を招いて開かれたそれは、私たちの愛し合う様(嘘だけど)を見せつける、良きものになった。宰相は、自分の娘が選ばれなかったのに不満げだったけど……
このパーティーは政治目的で開かれたものだ。それでも、ルシアン殿下は自らお酒を私のために選んでくれた。
料理とのマリアージュも考慮し、選び抜かれた美味しいワイン。
(……絶対、裏がある)
わかっているのに、抗えなかった自分が悔しい。
「ありがとうございます、ルシアン殿下」
一拍置いて、にっこり笑う。
「……約束通り、一生あなたのもとで働きますわ」
ルシアン殿下の眉が、わずかに動いた。
「そうか。なら、3ヶ月後の御前会議に向けて、視察に付き合え」
「わー!裏があるとは思ってたけど、また視察ですか……!」
即答だった。ルシアン殿下が、楽しそうに口の端を上げる。
「今日のパーティーにいくら費やしたと思ってる。報酬には労働で返せ」
「婚約者として、これまで十分働いてきたと思うのですが」
「足りないな」
あっさりと言い切られて、言葉に詰まる。
婚約が決まってからの8年。
王族教育に加えて、ルシアン殿下に引きずり回されるように各地を回り、帳簿を見せられ、人の話を聞かされ続けた。
ーー完全に、使われている。
それでも。
気づいたら、口元が緩んでいた。それに気づいたように、ルシアン殿下が私に視線を向ける。
「なんだ?視察、楽しみなのか?……だったら、わざわざ酒を振る舞わなくてもよかったな」
「全然違いますから!!」
この人と過ごす時間は悪くない。
例え利害関係によるものでもーールシアン殿下との会話は軽妙で、一緒にいて気楽なのだ。
そして……
(この人は、国民のことを本気で考えている)
ーーーーーー
視察先は、王都から馬車で半日ほどの農村地帯だった。
そして今回の視察一行は、私とルシアン殿下の2人きりではなかった。
「わざわざ殿下に御足労いただくとは……私のやり方は信頼できませんか?」
「逆ですよ、ルオード卿。あなたがすぐに建て直した場所から、私も勉強させていただこうと思いまして」
馬車には、宰相であるルオード卿と、その娘ーーダイアナ嬢ーーが同席していた。
今回の視察地は、昨年の猛暑で農作物の一部に被害があり、食糧難だったところを、宰相が聞きつけ、隣国からの食糧輸入ですぐに建て直した土地らしい。
(……問題なさそうな場所なのに、なぜ敢えて視察を?)
ルシアン殿下の意図がわからず、ちらり、と彼を見れば、ダイアナ嬢と話し込んでいる。
そしてダイアナ嬢は、勝ち誇った笑みで私を見ていた。
性格は悪そうだけど、可愛かった。別に害もないし、私は可愛いものは愛でる主義だ。私なりに精一杯笑い返すと、ダイアナ嬢が今度は睨んでくる。なぜだ。
助けを求めてルシアン殿下を見ると、今度の彼は私をみて笑っていた。
(ダイアナ嬢に睨まれてるの見て本気で笑ってる…..腹たつな)
馬車を降りると、ダイアナ嬢はすかさずルシアン殿下の隣に収まった。手際が鮮やかすぎる。
「殿下、道が少し悪いようです。エスコートをお願いしても?」
「殿下、我が娘は少しおっちょこちょいなところがございまして、ぜひお願いします」
「……いえ、私は婚約者であるルビー嬢のエスコートをするので」
「あ、私1人で歩けます。ルシアン殿下は気にせずダイアナ嬢をエスコートしてあげてください」
ダイアナ嬢からルシアン殿下へのラブコールがすごい。巻き込まれたくないのでさらっとかわすと、ルシアン殿下に睨まれた。人をこき使うからだ、ざまぁみろ。
視察地は、少し実家の領地に似ていた。
広い空、澄んだ空気、市場でも感じるーー土の匂い。
思わず、笑みが溢れた。
村に入ると、市場は活気付いている。様々な食材が並び、多くの人たちが訪れる。子連れの母親達が嬉しそうに買い物をし、老人が笑いながら店主と話している。
(いい場所じゃない。ほんと、なんで視察にきたの?)
ちらり、とルシアン殿下を見ると、目が合った。
ダイアナ嬢と楽しげに話しているふりをして、その目は冷めている。意味ありげに屋台に目配せをするので、屋台の値札を見てみた。
(……このキャベジ、うちの領地の三分の一の値段だ)
「まぁ!クラレット様は確か僻地の領地ご出身ですものね?こういった野菜に、やはり興味がおありなのかしら?」
ダイアナ嬢が嫌らしくこちらを向いて笑っている。その目には、明らかな侮蔑があった。
「値段が気になって」
「まあ!私、野菜の値段など気にしたこともなかったわ……やはり、田舎の方はそう言うのが気になりますのね」
「そうですね。野菜だろうと、ドレスだろうと、価格はその市場、ひいては経済の根幹ですから」
にっこりと返すと、ダイアナ嬢の笑顔が一瞬固まった。
殿下が、口元だけで笑っているのが横目に見える。
「素晴らしいでしょう、殿下」
宰相が、満足げに語りかける。
「輸入食糧の流通により、民の生活は格段に豊かになりました。物価は下がり、食卓は潤い……これで我が国は安泰ですね」
「そうですね、この食糧源を手配したのがルオード卿と思うと、頭が下がる思いです」
「いやいや、そんな大したことは……!」
市場を抜けると、村の外れに出た。
広い畑。今年はしっかり作物が育ち、一面緑に覆われているーーなのに、収穫があまりされていない。
畑では農夫が一人、しゃがみ込んでいた。収穫したキャベジを持って、ため息をついている。
(……どうして?)
今年は不作ではない。市場も賑わっている。なのに、なぜ彼はため息をついているのか。
何かが、引っかかる。
だけどそれが何なのか、今の私にはまだわからない。
宰相もダイアナ嬢も、農夫には目もくれない。
「どうです、ルビー嬢」
ルシアン殿下が、穏やかな声で言った。
「ルオード卿のおかげで、非常に市場が賑わっていると思いませんか?私はもちろん、あなたにとっても勉強になると思います」
「そうですね……勉強になります」
言った側から、喉がざらつく感じがした。
この視察ーー何か、気持ち悪い。
ーーーーーー
領地にいる母から手紙が届いたのは、視察から十日後のことだった。
丁寧な字で、近況が綴られている。家族の様子、領地の祭りのこと。そして最後に、ひとつだけ。
「最近、市場で安価な輸入野菜が出回っています。みんなの生活が潤っているようだけど、味が薄いのが悲しいです。領民の作るお野菜のほうが美味しいのに、なかなか売れないみたいで、お父さんは少し悩んでいるみたい」
私は、その一文を三度読んだ。
(……安価な、輸入野菜)
視察先の市場が、頭に浮かぶ。キャベジは、うちの三分の一の価格だった。
あんなのが市場に出回ったらーー
安く売るということは、作る側も、安く買い叩かれるということだ。
輸入品に値段を合わせろと言われれば、採算が合わない。
採算が合わなければ、作るのをやめる。
作るのをやめれば……
(……輸入品頼りの、生活になる)
ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
たまたま、かもしれない。でも、宰相の施策、殿下がわざわざ私を視察に同席させた意味。
(……考えすぎかもしれない)
そっと首を振って、立ち上がった。
向かう先はひとつーールシアン殿下の執務室だ。
ーーーーーー
「お時間よろしいですか、殿下」
執務室の扉を叩くと、すぐに「どうぞ」と返ってきた。
中に入ると、ルシアン殿下は書類から顔を上げた。執務中に押しかけるのは珍しいことで、彼の目がわずかに動く。
「どうしたんですか、ルビー嬢」
「急に寂しくなってしまって……お顔を拝見しに来たんです」
「おや、嬉しいことを言ってくれるね……人払いしようか」
そう言って、彼は執務室にいる人間に目配せをする。皆、微笑ましそうに私たちを見て、すぐに立ち去った。
「で、どうした?」
部屋に二人きりになった瞬間、彼は目を細めた。
もちろん、私たちにラブラブな雰囲気など漂っていない。ただ、殺伐とした空気が流れる。
「母から文が届きました」
手紙を差し出すと、殿下は受け取り、目を通した。一読して、机に置く。
「それで?」
「それだけです。報告に来ました」
「……本当に、それだけか」
私は少し、黙った。
「視察のとき……殿下は私に、何を見せたかったんですか」
「何だと思う?」
この人は、肝心な時、質問に質問で返してくる。私の考えが、知りたいんだ。
「市場は賑わっていました。安価な農作物に、民は満足げです……でも」
あの農夫の顔が、頭をよぎる。
「農夫は、ため息をついていた」
「……それで?」
ルシアン殿下は黙って聞いている。
「もちろん、安価に食料が入手できるのはいいことです。でも……」
私は、ゆっくり言葉を選んだ。
「"安すぎる"わ。どこで作ろうが、採算が合う値段じゃない」
殿下は、満足げに目に弧を描かせた。
「続けろ」
「輸入品が増えたら、農夫は作るのをやめる。この国は輸入品に頼るしかなくなる。そうなったら……値段を上げられても、どうにもできない。輸入元には、逆らえなくなる」
言いながら、じわじわと輪郭が定まっていく。
「……潰しに来てるんでしょ。この国の農業を。そして、この国を」
沈黙が落ちる。
「誰が、だと思う?」
「知りませんよ、そんなの……でも殿下は、ルオード卿だと思ってるんでしょ?」
殿下は肩をすくめて笑った。「やはりお前は優秀だ」と呟きながら、私の元にゆっくりと歩いてくる。
「証拠が、揃わないんだ。だが、俺の想像では、あいつは輸入ルートから相当な手数料を受け取っている」
「……もしそうなら、反逆では」
「証拠が欲しい。そして、父上には内密にことを進めたい。今の父上に任せればーー」
殿下が、珍しく言葉を切った。
私は、その続きを引き取る。
「ルオード卿にバレて、言いくるめられる?」
「……ああ」
また、沈黙。
今度のそれは重かった。今の国王陛下は、平和な世で治政を納めているからなのか、温厚過ぎてーー正直、爪が甘い。実質、ルオード卿の傀儡とかしているし、殿下はそれを気にしている。
私はゆっくりと、殿下を見た。
「それで。私にどうして欲しいんですか」
「……別に、何もないさ。お前が勝手にこの部屋に来ただけだろ」
「嘘ですね。もしそうなら、どうして私を視察に同席させたのですか」
私の言葉に、殿下は細く微笑んだ。その笑みは、いつもと違って、違和感があった。
「証拠が欲しい……しかも、俺が調べた、とわからない形で。証拠が揃ってルオード卿を糾弾できても、裏からこっそり調べるようなやり方じゃ、他の臣下は俺に不信感をもつ。立太子する時のためにも、それは避けたい」
「であれば、愛する婚約者から領地に関する相談があった。殿下と私で調べてみたところ、ルオード卿の罪が明るみになった、という筋書きがいいですね」
殿下が、目をそっと閉じる。
「……それで、いいのか」
「最初から、その筋書きだったんじゃないですか?」
殿下のことは、この8年で理解したつもりだ。
冷静で、冷徹で、合理的。
この国を導くためなら、婚約者だって平気で利用する。
わかっているはずなのに、胸が痛んだ気がした。
「構いませんよ。この前、しっかりいいお酒を飲ませてもらいましたし」
私は、わざとらしくにっこりと笑った。
「……すまない」
その一言が、予想外で、私は少し黙った。
「報酬には労働を、でしょう?」
「逆もまた然り、だ。この件がひと段落したら、お前の好きそうな酒を用意するよ」
「ありがとうございます」
無邪気に笑って、執務室の出口に向かう。
宰相の証拠を集めるには、私も一度領地に戻るべきだろう、やるべきことは、山積みだ。
扉に手をかけたところで、後ろから声がした。
「ルビー」
名前を、呼び捨てで呼ばれたのは初めてだった。
振り返ると、殿下は私を真っ直ぐに見ていた。
「……ありがとう」
その言葉が意外で、私は吹き出した。
「……いいお酒、期待してますよ」
ーーーーーー
御前会議は、月に一度開かれる。
国王陛下が玉座に座り、重臣たちが居並ぶ、この国の重要事項を決める伝統的な会議だ。
婚約者として同席を許されるようになって、もう二年が経つ。
最初は見学していただけだが、発言が許され、若い世代の声、という名目で、ルシアン殿下が言いにくいことを言う、それが私の仕事だ。
私が発言し、ルシアン殿下がそれを拾うーーそして、論理的に筋道をたて会議の方向性を誘導する。
ただし、この国で権力を握る、ルオード卿を刺激しないように、細心の注意を払いながら。
それが、今日、崩れる。
今日も、私は殿下の隣に座った。
重臣たちが並ぶ中、ルオード卿は各議題に、明確な方向性を示し、国王陛下が頷くことで会議が進んでいく。
議題はいくつか消化され、やがて食糧政策の話になった。
「引き続き、輸入食糧の流通拡大を進めてまいります。民の暮らしは安定し、物価も落ち着いております。成果は、各地の報告書にも明確に表れておりますとおり——」
ルオード卿が、滑らかに語る。
重臣たちは頷いている。国王陛下も、穏やかな顔で聞いている。
ここに一石投じるのが、私の役割だ。
「あの、失礼してもよろしいですか」
静かに、しかしはっきりと、声を出した。
重臣たちの視線が、一斉にこちらを向く。ルオード卿の目が、わずかに細くなった。
「クラレット嬢、話してみるがよい」
国王陛下が、鷹揚に頷いてくださった。
「ありがとうございます、陛下。……少し前から、気になっていることがあって」
できるだけ、年相応の令嬢らしく。若者のいち意見として、あどけなく。
「ルシアン殿下のご指導のもと、各地を視察させていただく機会をいただいておりました。その中で……農家の方々に、お話を聞かせていただいたのですが…..みなさん、口を揃えておっしゃるんです。『作っても、売れない』と」
一部の臣下は動揺するが、残りは、小娘の戯言、と鼻で笑う。
「当たり前のことですよ、クラレット嬢。輸入品が安ければ、民はそれを買う…..失礼ですが、経済学を勉強しなおしたらいかがかな?」
ルオード卿はそれを嗜めつつ、その目は嗜虐的に私を見つめ、続ける。
「クラレット嬢、それは輸入品が普及する過渡期には起こりうる、一時的な混乱でございます。長い目で見れば——」
「そうですね」
遮るように、しかし笑顔で返した。
「でも、おかしいと思いませんか。輸入品の農作物の採算が、どう考えても合わないんです。安く作っても、輸送費、倉庫費、諸々の諸経費がかかる。どう考えたって、あの値段で売れないと思うのです……私、田舎育ちなので、農作物の値段には少し詳しくて」
ルオード卿の笑顔が、ほんの一瞬、揺れた。
「つまり、あの価格で輸出し続けることは、相手国にとっても本来、割に合わない。なのになぜ続けられるのか……私には、わからなくて」
「クラレット嬢」
ルオード卿の声が、少し低くなった。
「それは穿った見方というものです。相手国との外交的配慮や、様々な取り決めの中で——」
「ルオード卿」
ルシアン殿下が、静かに口を開いた。
その声に、場が静まり返る。
「実は私も、ルビー嬢に本件前から相談されてましてね。気になって、色々調べてみました……そうしたら、私には理解できない、難解な部分が契約書に複数ありまして……せっかくですから、その取り決めの詳細を、この場で聞かせていただけますか」
穏やかな笑顔で、しかし有無を言わせない声音でルシアン殿下が話す。
ルオード卿は、いつもの何を考えているかわからない笑みで、返答する。
「もちろん……詳細は、改めて書面にて」
「それは困ります」
殿下が、首を傾けた。
「今この場にいる重臣の皆さんも、気になっているはずです。ルオード卿が手配されたこの政策、皆さんも詳しく知りたいですよね」
重臣たちに視線を向ける。誰も、反論しない。
ルオード卿の笑顔が、固まっている。
「輸入元との契約書、資金の流れ、そして……仲介者への報酬の内訳も、ぜひ」
静寂が落ちた。
ルオード卿は、殿下を見ていた。
「……殿下は、私を疑っておいでですか」
低い声で、ルオード卿が言った。
「まさか」
殿下は、穏やかに首を振った。
「あなたを信じているからこそ、しっかりこの場で説明いただき、愛するルビー嬢を安心させたいのです。あなたは何代にもわたって我が王家を支えてくださった重鎮中の重鎮……王家への咎など、何もないでしょう?」
ルオード卿は、黙っていた。
その沈黙が、答えだった。
国王陛下が、静かに口を開いた。
「……どう言うことだ、ルオード卿。詳しい話を、聞かせてもらおうか」
その声は、いつもより少しだけ、低かった。
ーーーーーー
御前会議が終わったのは、日が傾いてからだった。
廊下を歩きながら、ひっそりと息を吐く。
(……疲れた……!!)
まだ何も、終わってない。これからが本番だ。書面の精査、証人の喚問、外交の調整。
そして、ここから先はルシアン殿下の得意分野、彼に任せておけばいい。
私はただ、ルシアン殿下が、この国で難しい立場を生きやすくするよう、うまく立ち回るだけ。
それだけのことが、今日はいつも以上に虚しく感じられた。
それでも、その気持ちは無視して、ルシアン殿下を労わる。
「お疲れ様でした、殿下」
隣を歩くルシアン殿下に、声をかける。
「ルビー嬢も、お疲れ様でした。お疲れでしょう、少し、お菓子でも食べながら休みませんか?」
殿下が、優しげに微笑む。
珍しい、普段は御前会議が終われば「疲れてるでしょうし、しっかり休んでください」と言って、即・解散!なのに。
「嬉しいです」
「……私も、あなたとの時間が取れて嬉しいですよ」
これだけ見れば、ほんと、愛し合う婚約者なんだけどなぁ……
「あー!やっとあのうるさい宰相を失脚させられそうだ」
自分の部屋に戻ったら、すぐこれだ。
「殿下、誰が聞いているかわかりませんよ」
「大丈夫だ、人払いはきちんとしている」
「……私が、聞いてますよ」
「お前なら、問題ない」
ルシアン殿下の何気ない一言が、胸に刺さる。
信頼されているーーそれだけのことが、とても嬉しい。
いつからだろう、報酬の……干菓子やお酒のためではなく、この人のために働きたいと思うようになった。
この人を知りたい、この人に認められたい、そう思っていた自分が、報われた気がした。
殿下は、くつろぎから一転、まっすぐな眼差しで私を見つめる。
「……ひとつ、聞いていいか」
その声は、低くて、静かだった。人払いをした部屋でさえ、声を抑えているような。
「なんですか」
「お前、これから大丈夫そうか?」
私は少し、黙った。
「大丈夫、とは?」
「ルオード卿の目を、見ただろう。あの男が今後どう動くか、わかったもんじゃないぞ」
(……ああ、そういうことか)
宰相の失脚は、まだ確定じゃない。むしろここからが、本当の意味での戦いだ。追い詰められた人間は、何をするかわからない。私が報復されないか、心配してくれているのだ。
(やっぱり、この人は優しい)
「まあ、不安は少しあります」
正直に答えると、殿下の眉がわずかに動いた。
「でも大丈夫ですよ。だって、私には、王家の影がいつもついているんでしょう?」
「……気づいてたのか?」
「……すみません、知りませんでした。かまかけました」
「お前って女はほんとに……」
殿下が、呆れたように笑う。
その笑い方は、珍しく柔らかかった。
「今後のことなんですが」
話題を変えようとすると、殿下が遮る。
「ルビー」
また、呼び捨て。いつもと違う呼ばれ方に、どきりと胸が嫌な感じに跳ねた。
先ほどとは一転ーー殿下の表情は、交渉ごとを進めるときのそれだった。
「……なんですか」
「ルオード卿の件が片付けば、あいつの娘と婚約させられる心配はなくなる」
「そう、ですね……」
「そうなれば、お前と婚約した動機はなくなる」
息を呑んだ。
殿下は冷静で合理的でーー彼の判断は、いつだって正しい。
「何が、言いたいんですか?」
「お前には、俺のわがままにだいぶ付き合わせたからな。お前が望むなら、婚約解消してもいい、と言っているんだ」
私は、少しの間、殿下を見ていた。
(……解消)
その言葉が、思ったより深く刺さった。
「……ルオード卿のことはあくまで動機、じゃなかったんですか?私を婚約者にしたのは、私が使えるからだってーー」
気づいたら、感情的に叫んでいた。
この人に見限られる、それが、思った以上に辛かった。最初は、ご褒美目当てで始まった“婚約者の関係“が、認めたくないが、いつの間にかかけがえのないものになっていた。
それを殿下に否定されたことがーー悲しかった。
殿下は、ひとつ息を吐いた。
「……お前は、もう使えない」
静かな声だった。
「……え?」
心臓が、凍ったようだった。
「お前が御前会議で発言した時の、ルオード卿の顔……憎しみの目でお前を見ていた。あの男は、柄の悪い連中とも取引がある。そんなのわかっていた。わかった上で、お前に発言させたはずなのに……あいつがお前に報復するかもしれない、そう思った瞬間、俺の頭はお前のことでいっぱいだった」
殿下が、まっすぐに私を見る。
「国の未来を決めるあの会議で……俺は、お前のことしか考えてなかった」
(…………)
心臓が、うるさい。
「その時気づいた。お前は、俺の弱みになる……そういう相手を、今までみたいに使うことはできない」
「何ですか、それ…….そんなの、まるで愛の告白じゃないですか……」
声が、掠れる。
殿下は、苦虫を噛み潰したような顔で私を見ていた。
「俺が伴侶に求める条件は、使えるか否か、だ。好きかどうかは、関係ない」
思考が、クリアになっていく。
そして頭に浮かんだのは、怒りの感情と、愛おしさだった。
この人は、なんて不器用な人なんだろう。
再度、殿下を見れば、彼はわずかに頬を染めて、それでも悔しそうに口を歪めている。
8年間も一緒にいた。色々な表情を見てーーでも、この人のこんな顔、初めて見た。
国王陛下の前で頬を染めながら「一目惚れしました」と言った、あの顔。あれは作り物だった。
今はーー違う。この人は恋すると、こんな顔をするのか。
「……どうする、お前が決めろ」
殿下が、低く聞いた。珍しく、不安そうな声で。
(全く、仕方ない人ね)
「婚約、続けましょうよ」
呟くように、言った。
殿下の目が、わずかに揺れた。それから、口元が僅かに緩む。
「いい、のか……?もう、お前を縛る理由が俺にはないぞ」
「私まだ、成人したばっかりですよ。ここからいいお酒をたらふく飲める予定だったのに、解消したら飲めなくなるじゃないですか」
そして、私も大概、仕方のない人間だ。
殿下が、緊張したように肩を震わせた。
「お前は十分よくやってくれた……婚約解消しても、一級品の酒くらい、送ってやるよ」
その塩らしい態度に、イラッとくる。
「あー!もう!普段は私の思考、手に取るようにわかるくせに、何なんですか、それ!」
「は!?お前、何怒ってるんだ!?」
「…..だから!私もあなたのことが好きだから、婚約解消したくないって言ってるんです!」
殿下は瞬きを繰り返し、堪えきれない、と言うように笑った。
「そんなこと、一言も言ってないだろう」
「仕方ないじゃないですか。素直じゃない婚約者に、素直じゃない告白をされて、私だって戸惑ってるんです」
目が合い、2人でふっと笑う。そこには、いつもと違う優しい空気が流れていたーー。
しばらく、心地よい沈黙が続く。
燭台の炎が揺れて、部屋の影がゆっくり動いた。
「……お前は酒好き、と言うより、むしろお前自身が、酒みたいだな」
殿下が、唐突に言った。
(……今、なんて言った)
「ちょっと……!今いい雰囲気でしたよね!?急に悪口言うのやめてくれません!?ってかどういう意味ですか!?」
思わず叫び声を上げる。
何だか、すっかりいつもの調子だ。
殿下は、少し照れくさそうに目を逸らした。
え、なんでここでこの人照れてんの?
「……口にするほど、酔う、ってことだ」
低い声で、ぼそりと言った。
私は、思わず黙り込んでしまう。
「……そんなの、こっちのセリフですよ」
殿下が、私を見た。
「初めて会った時から、あなたはお酒みたいだと思ってた」
「……どう言うことだ?」
「白金の髪が、白ワインみたいに綺麗だなって思って……でもその透き通った目は、水のふりした悪いお酒みたいって」
「……王族相手に、悪い酒、か。いい度胸だな」
殿下のこめかみがぴくりと揺れる。
「でもあってるでしょ?色んな意味で」
殿下は、少しの間私を見ていた。それから、ゆっくりと口の端を上げる。
「お前の愛する酒のよう、か。考えようによっては、悪い気はしないな」
殿下が、静かに笑った。そして。
「なぁ」
一歩、近づいた。
「本当に俺が悪い酒か、試してみるか」
(……え)
気づいた時には、殿下の手が私の頬にそっと触れていた。
逃げる間もなく、唇が重なる。
ーー柔らかくて、温かくて。
一瞬だけ、時間が止まったような気がした。
離れたと思ったら、再度口付けられる。空気を奪うようなそれにーー頭がクラクラする。
「……どうだった?」
答えられなかった。顔に、熱が集まるのがわかる。耳まで熱くなっているようだ。
「やっぱり、あなたはお酒みたいな人ですよ」
一口飲んだだけで、もう、酔いしれてしまう。
ルシアン殿下が、嬉しそうに笑った。
ありがとうございました!評価・ブクマいただけると大変励みになります。
長編小説になりますが異世界・魔法学園もの「セカンドガールの私が学園のプリンスをざまぁします!」も完結してます。コチラも読んでいただけると嬉しいです。




