追憶―母の記憶―
心葉堂の藍蘭。
藍という愛称で親しまれ、いつだって生気溢れる容姿端麗な彼女。
勝気で負けん気の強い母の桃香に良く似て、好奇心旺盛に飛び回っては事件やもめ事に巻き込まれていた。そして、父の白龍譲りな容量の良さを最大限にいかし、多くの人に愛されてきた。
桃源郷の次期長である叔父仕込みの魔道術も、かなりの腕だった。クコ皇国の首都で彼女を知らぬものはおらず、縁談も絶えなかった。
そんな彼女の最大の美点であり欠点は、己の身体的損傷や価値に無頓着なところだった。
蒼と紅の母である藍は、十代後半の頃に数年間クコ皇国を離れていた。白龍について、隣国の王都に滞在していたのだ。
蒼と紅の祖母であり、藍の母親の桃香が亡くなったばかりだった頃だ。数年の間、心葉堂を休店していた。白龍は悲嘆のあまり心葉堂を離れていた。管理は親戚筋の信頼できる者が行っていた。
白龍と藍が隣国で何をしていたかの詳細について蒼は知らないが、蒼の父親である隣国の王子のフラーウム――のちの橙と藍はそこで出会った。
そして紅の実父は、フラーウムの双子の兄にして第一王位継承者だった。王は入り婿であったため、正妃が正当な血族の者でその第一王子だ。
当時、王家の双子は忌子として処分されることが主流だったが、この双子に限っては平等に生かされてきた。それというのも、双子誕生以来、国にとっての吉事が続いたからだ。
ある日、穏やかだが魔道力の強かったクコ皇国では橙と名乗るようになった蒼の父は、国境付近の指揮官として戦地に赴くことになった。
白龍は娘の思い人についていった。王命であると同時に、頼もしくどこか頼りない娘の想い人を可愛く思ってのことだった。当時の白龍は、自分にない橙の『人が支えてこそ輝く天性』に心酔していた。
それが紅の実父の差し金だったと判明するのは、後々のことである。
白龍とフラーウムの不在時に、藍は紅の実父に無理矢理抱かれた。加えるなら、抱かれたのは一度や二度ではなかった。紅の実父は、部下の密告によりフーラムと白龍が王都に戻るまで、夜ごと藍を欲望のままに抱き続けた。
当時の王や王妃も、一時の火遊びだと止めることはしなかった。むしろ深く懸想している一途なフーラムより、奔放な紅の父の方がすぐ飽きると考えていたのだろう。
その結果、藍が身ごもったのが紅だった。
そして、藍だけが宿った命を無邪気に喜んだ。
彼女は自分が犯されている認識すら抱いていなかったのだ。悲しい愛を感じていた。
――お父さん。この子はね、あの人が愛されたくって、それでも唯一の片割れにはぶつけられなかった想いの結晶なの。あの人はいつだって、私の向こうに彼を探していたの。私はその媒介になっただけ。だから私は愛したいの。この子のまるごと、寂しさを拭えないアノ人ごと――
白龍は娘の腹に宿った存在にではなく、そんなことを口にして微笑む己の娘に戦いた。
強がりでもなんでもない。藍は本当に自分を『愛の器』となったのを喜んでいたのだ。
恋人の橙を前にしても、藍はその姿勢を変えることはなかった。橙はそんな彼女の性質を受け入れた。
国内では、紅を拒む者の方が圧倒的に多かった。自然流産を促す手順から始まり、毒殺も移ろうかというその時、クコ皇国の正式な使者が白龍を迎えにきた。
仮にも大国であるクコ皇国の弐の溜まり一家だ。
第一王位継承者がその跡取り娘を手籠めにし、あまつさえ毒殺しようと動いているなど国際問題に発展しかねない。いや、この事態がきっかけで心葉堂の者が死に絶え、守霊も憂いのあまり消滅しようものなら国を揺るがす一大事である。
かといって、当時隣国が代々引き継いできたアゥマ可視の瞳を持つのは第一王子だけだったので、追放することもできない状況であった。何より入り婿である王は小心なところもあり、可能な限り穏便に事態の収拾を望んだのである。
あわせて、当時の使者は恐らく心葉堂の一族が皇族の流れであることや、掌握している隣国の弱みを交渉材料に用いたのだろう。
隣国は第一王子の代わり身としてフーラムの永久国外追放を命じ、白龍や藍、それに腹の中にいた紅も無事に帰国の途に着くことができた。
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「帰国した時、雨にも関わらず心葉堂の前で待ってくれていた幼馴染の撫子にはすごく怒られたわね。紅のことは可愛がってくれたけれど、橙のことは蒼とあの子の娘が生まれてしばらく経つまでは出会い頭に必ず睨みつけていたっけ」
目の前には淡々と話を続ける母親と、その肩を抱き本人よりも辛そうに目を伏せる父がいた。
十四歳になったばかりの蒼にも、いや親元を離れて修行に出ると覚悟した蒼は、確かな違和感を覚えた。いくら過去のこととは言え、母はあまりに落ち着きすぎていると。
「紅は、だからあの時、私を拒絶していたんだ。なのに、私ってば無神経に自分が紅を大好きだからって追いかけて、泣いて。なんにもわかっていなかった。わかろうとしていなかったんだ」
当時の蒼は、聞かされた現実をすぐには受け止めきれずにいた。むしろ逃げ出したいとさえ考えた。そんな蒼を両親はじっと待ってくれた。ただ、そっと体を寄せてくれた。
涙が溢れて止まらなかった。目から零れて頬を伝う熱いものを拭っても拭っても、心が晴れることなんてない。止めようとする苦しさに余計零れるだけだと知り、胸を掴むことにまわす。思いっきり掴んで、肌に痛みを覚えて少しは息ができた。
「お兄ちゃんは、私と兄妹でいやじゃないかな。もっと紅兄ちゃんの気持ちが辛い思いしてきたとか考えなきゃなのにね、私はそれが一番つらいの」
「蒼はそれでいいんだよ?」
「まぁ、だから貴方は蒼に甘いって言われるのよ」
真面目な話をしていたのに、両親がぎゃあぎゃあと言い合いを始めたものだから、蒼はあんぐりと口をあけて固まってしまった。
これまでなら単なる痴話げんかと席を外していただろうと、蒼は思う。ただ、その時の蒼はぼんやりとまるで自分と兄のやり取りを見ているようで頭を抱えたものだ。いつものように、自分は自由な母に似て、紅は真面目な父に似たのだと。
「なんだ。やっぱり、紅は私のお兄ちゃんでお父さんの息子だ」
蒼はぽつりと呟いていた。おまけに、『いや、でも、お父さんに似すぎたら妹馬鹿をこじらせるかも』と加えてしまった。
ぴたりと言い合いをやめた両親にあわせて、蒼はやけに大人びた咳払いをした。けれど、母と父が見たことがない心憂い微笑みを浮かべたものだから、ぐっと唇を噛んでしまった。
「父さんも同じだよ。綺麗ごとだと鼻で笑う人もいるけれど、父さんは紅が生まれた瞬間のびっくりする位な産声に生きていく勇気をもらったんだ」
「私だって、お母さんとお父さんに負けないくらい、お兄ちゃんのこと大好き! だから、だからお兄ちゃんが生まれてこなければよかったなんて思う人、全員いなくなればいいのに」
あんなにも優しくて不器用な人の存在を誰かが拒否したのかと思うと、それだけで目頭が熱くなってしょうがなかった。
育ったが故の人格なんて知ったことあるか。紅の命が拒絶されたことがあると考えただけで、辛くて嗚咽が漏れた。怖かった。大好きな紅が殺されていたかもしれない可能性を突き付けられただけど、寂しくて、悔しくて涙が止まらなかった。
「ねぇ、蒼。お願いがあるの、貴女にしかできないこと」
蒼は無言で小さく頷いた。
「貴女の大事なお兄ちゃんのこと、守ってあげて。あの子の心を」
そう呟いた母は、そっと震える蒼の手をとった。握る母がとても穏やかな眼差しをくれたから、蒼もそれ以上は混乱で泣き叫ぶことはなかったし、その一言で事実を知った自分がするべきことがわかった気がしたのだ。
さらに、二人っきりで寝所に潜った母は静かに囁いた。蒼の頭を何度も撫でて、申し訳なさそうに、悲しそうに。
「紅の実父である人は、とても不器用だったの。私に妬いているのか、彼に妬いているのか、自分でもわからなかったのよ。ただ、大事な人において行かれるのが怖かったのね」
母は再度「置いて行かれるのが、怖かったの」と呟いた。
「おかあさん?」
「たった一人の理解者である双子の片割れが自分の道を見つけてただひたすらに進んでいくのと、無邪気ゆえに全てを受け入れてただ笑って泣いた少女から、置いて行かれる常識人の自分が怖かったのね」
あの時の母には愛しさの色だけが浮かんでいた。あるのは慈しみのみ。
「とても不器用すぎて、愛情をどう表現すればいいかわからなかった人なの」
だから、ことさら蒼は理解できなかった。わからなかった。あの時は、ただ紅を苦しめる人が憎かったのに、母が庇う理由が。
「お母さんはおじいのおかげで、愛を知っている。でもね、きっと蒼はこの先、愛に不器用な人を大切に思う」
「蒼のだいじなひとは、みんな蒼をだいじにしてくれるよ?」
無邪気に尋ねれば、母は困ったように笑った。そして、掛け布団から顔を出した蒼の頬を撫でてくれた。
何度も何度も。皮膚がもげてしまうと蒼が笑うほど。
「紺樹は、ちょっとばかり不器用でしょ?」
「あー、そっか。うん、わかった。こんくんは、あまのじゃくだからなぁー。好きがちょっとばっか、かくれてるもん」
蒼がにへっと笑えば、母は蒼を抱きしめてくれた。
「そうなの。好きを隠してしまう人のほうが、多いの」
母の声には後悔が含まれているのがわかった。相変わらず穏やかで人ごとのようだったけれど、だれかを思って悲しんでいるのだとは伝わってきた。
なのに、蒼は何も言うことができず、力の限り母に抱きつくだけことしか適わなかった。
「だから、私は紅や橙がいてくれるだけで嬉しいのだけれど、私の無邪気さが彼らを傷つけていることに気がつけないでいた。心葉堂の人間は、どこかしら感情が欠けているから。今日、話そうと提案してくれたのも橙なの」
あの時、母は付け加えた。
「蒼はちょっとアゥマ馬鹿が過ぎるけど、普通の女の子でよかった。自分を大事にして、大好きな人の立場になって想えるもの」
蒼には正直『普通』の定義が不明だ。ただ絶対な思いはひとつ。
蒼は起き上がり、しっかりと自分の胸元を掴んだ。目の前には驚きに目を開いた母がゆっくりと体を起こす姿。
「お母さん、私はまだまだ子どもで、半人前でアゥマ馬鹿だけれど。たったひとつわかることはあるよ」
そして、たくさんの時間を家族と過ごした自分の部屋。開かれた横開きの扉から見えるのは、見慣れた廊下を中庭。少し蒸し暑くて、肌にじんわりと汗が浮かんできた。
優しい月夜に蒼は高らかに宣言した。どこか明るい空は蒼の言葉を代弁するようだった。
「もし蒼と紅の関係が普通でないと嘲笑う人がいるなら、蒼は普通なんていらない。心葉堂のみんながおかしいって言われても、きっと、みんなを守れるくらい強くなって帰ってくるから」
ぼろぼろと泣く蒼を、母は「頼もしくなっちゃって」と抱きすくめた。いつの間に現れたのか、宙に浮いた麒淵も頭を撫でていた。
母もいつの間にか傍で浮いていた麒淵も、蒼よりずっとずっと寂しそうだった。
――ごめんね、お母さん。私も自分の肉体に誰かを悲しませる価値があることを、あまり理解できていなかった。存在とは別のモノだと思っていたの。私はたぶん……そっち側の人間だ――
蒼は、今になって自分の立っている位置をしかと認識できた気がした。




