その花が咲くのは何故なのか
ヨハンは私を後ろに乗せて馬を繰った。私がゲルトガ邸から借りてきた馬は無造作に放した。ユーリという人間の手が届く場所から逃げ出すこと以外、私たちに考える余裕などなかった。ヨハンは着ていた外套を私に貸し与え、私はその厚い布地でできるだけ顔や身体を隠した。辺りは気付く間もなく夜の闇に包まれていたけれど、梟の目を持つ人々は、容易く私を見つけてしまうような気がした。
月が顔を出す前に、ヨハンは一度馬から降り、角灯に火を入れた。彼は周到に準備をしていたようで、その作業にはほとんど時間がかからなかった。角灯の鈍い光は、心許なくとも、暗黒の有限性を指し示した。
ヨハンは迷いなく馬を走らせ、ゲルトガ邸から随分離れてからようやく再び止まった。遠くに篝火が見えたので、私たちはそちらに向かった。それは比較的大きな村で、夜だというのに村人が二人、周囲を徘徊していた。私たちが近づくと、彼らは凄まじい形相でこちらを見た。
「止まれ、何者だ!」
二人の村人は口々に怒鳴った。私たちはひとまず馬を降りた。彼らはぎょっとしたように後退りながら、武器でも手にしているかのように両手を前に突き出した。
「止まれと言ったんだぞ!」
「待て、落ち着け。俺たちはただ通りすがっただけだ。どこか、休めるところを探しているんだが」
と、ヨハンは敵意がないことを示そうと両手を上げ、静かな声で言った。しかし、背の低いほうの村人は妙ちくりんにいきり立って答える。
「あるもんか!お前さんたちが魔女の手先じゃねえって誰にわかる?」
「魔女の手先だと?」
「そうさ。これ以上村の男を攫わせて堪るか!」
そうがなったのは、ひょろりとしたいささか頼りないほうの村人であった。彼は何だか無理やり上に引き伸ばされたかのように見えた。私は二人の村人の言動に困惑してヨハンを見上げた。ヨハンは思いきり渋い顔をして口元に手を添えていた。彼が何か口にするよりも早く、再び背の低い村人が開口した。
「まさか、その後ろの奴は魔女じゃねえだろうな!?」
突然指をさされて、私は少し嫌な気がした。私は魔女呼ばわりされたこと諸共抗議しようとしたが、心身ともにくたびれているせいで、何も頭に浮かんでこなかった。ヨハンは機敏に私を振り返り、すぐに目線を村人に戻した。
「……いや。彼女は魔女を探しているんだ。奴らを狩るためにな。俺は彼女の付き人に過ぎないが」
と、彼は当然のごとく言ってのけた。私は呆気に取られてその場に立ちすくんだ。この村人たちがそのような嘘を一も二もなく信じるはずがあろうか。否、村を叩き出されて終わるに違いない。私は失策を知らせようとヨハンの腕を掴んだ。しかし、私に素早く目をやった彼は、黙っていろと言わんばかりに首を微かに振っただけで、別の手段を講じようとはしなかった。篝火に上から照らされているせいで、彼の黄金の髪は希望に満ちて輝いているように見えた。
私は諦めて村人たちの様子を窺った。彼らは互いに目配せし合い、見知らぬ男女の正体を見定めようとしているようだったけれど、私には協議が進んでいるようには思えなかった。冷たい風が衣服の隙間を駆け抜け、私は思わず身震いをした。すると、それに気付いた細長いほうの男が深々とため息をついた。
「……いいよ、入んな。疑って悪かった」
その言葉に私は耳を疑った。頭巾のおかげで、呆けた顔はきっと見られずに済んだことだろう。村人たちはさっさと村の中へ歩いていき、ヨハンは私に向かってしたり顔で眉を動かした。私にはまったくわけがわからなかった。
私たちは納屋のような建物に案内された。背の低い村人が鍵を開けるのを待っていると、物音を聞きつけたのか、すぐ近くの家からふくよかな女が出てきた。彼女はいかにも胡散臭いものを見るような目線を私とヨハンに送りながら、のそのそと近寄ってきた。足を引きずるようにして歩くので、砂を擦る音が不気味に夜の空気を揺すった。
「あんた、何してんのさ」
女は開錠が済んで振り向いた男に対して不愛想に尋ねた。男はこれでもかというほどに頭を強く掻く。
「魔女狩りに来たってんで、泊めてやるんだよ」
「追い払いなよ。魔女の手先だったらどうするんだい」
「違うね。魔女は血が凍ってるから寒さを感じないって言ったのは、お前んとこの旦那だろ」
と、背後に立っていた細身なほうの男が言った。女はゆらりと彼に目をやり、それから改めて私たちを眺め回した。私はつい両手を擦る動作を止めた。けれど、よく考えれば、村人たちが私たちを泊めてやることに決めたのは、まさに私の寒がりのためなのであった。今宵が冷えていることを天に感謝する日が来るとは。
渋々ながら女は引き下がり、私とヨハンは小屋の中でようやく気を休めた。中には寝台らしいものはなく、ただ藁の山が三つ等間隔に並んでいるだけであった。私が眉をひそめる間に、ヨハンは端の藁の上に身体を沈めた。
「君も座ったらどうだ?」
「……何ですの、これ?」
「寝台代わりといったところさ。あまり金に余裕がないところは、たまにこういうことをする。見た目は良くないかもしれないが、案外心地いいぞ」
あまり合点はいかなかったけれど、すぐにでも眠りたい気分だったので、私はゆっくり彼の反対側の藁の上に腰を下ろした。心地いいというのにはとても賛同できない。藁は肌に当たるとちくちくとして痒いし、思っていたよりもずっと硬かった。何にせよ、床で眠るよりはましだけれど。
「悪くないだろう?」
「そうですわね」
私は嘘をついた。嘘といえば、気になるのは、先ほどヨハンが村人に言ってのけたことであろうか。
「魔女狩りだなんて、よく言えましたわね」
「いや、魔女の存在を信じる村があるという話は聞いていたんだ。もしそこに行ったときは、魔女狩りに来たと言えばいい、とな」
「この辺りでは常識なのかしら?」
「さあな。サミュエル……子どもに聞いた話だ」
私は舞踏会の夜に、ヨハンが少年をそのような名で呼んでいたことを思い出した。あれはどこの子どもなのだろう、と私は漠然と考えた。ヨハンがこのゴートルーの国にやってきてから日はまだ浅いはずである。元々知り合いがいたのだろうか。そも、王女であるらしい私――実感は特に湧かぬ――やその騎士のヨハンがアスターシャを出て隣国に落ち延びることになったのは、件の革命のせいであろう。その日、私たちの身に一体何が起きたというのか。聞くべきことは山ほどあった。
「あなたに聞きたいことが数えきれないほどありますわ」
「答えるのは構わないが、条件がある」
ヨハンはどこか突き放すように言った。私は少々ぎくりとして、顔をそっと彼のほうに向けた。彼は両手を頭の下で組み、ぼんやりと天井を仰いでいた。角灯は彼の口元までしか照らしていなかった。私がじりじりと続きを待っていると、ヨハンはふとこちらを見て柔らかな笑みを浮かべた。
「君は俺をほとんど見知らぬ人間だと感じているのだろうが、それでも他人行儀なのはやめてほしいんだ。俺はかつての君が許してくれたからこそ、こうして率直に君に接しているわけだが、結局は騎士に過ぎない。その俺がこうして偉そうに主と口を利いているのに、当の君が畏まっているのもおかしな話だろう。そもそも、俺たちは幼馴染だ」
「ええ、そういう気がします」
私が答えると、ヨハンは困ったように首を振った。こういうものはあまり相手を困らせても仕方がないし、別段渋る理由がこちらにあるわけでもない。それ以上に、私はこのような話をしたいのではまったくなかった。
「わかったわ、ヨハン」
ヨハンは満足げに笑うと、また天井に目を向けた。
「よし。それで、聞きたいことというのは?」
「どれから聞くべきかわからないけれど、そうね……革命の日のことを教えてくれる?」
最近私に纏わりついている謎を解くことに夢中で、私は期待に満ち満ちていた。けれど、ヨハンは物憂げな呻き声を上げ、おまけにため息までつける始末であった。この肩透かしに私は落胆と苛立ちを覚えざるを得なかった。
「答えるのは構わないのではなくて?」
「構わないとも。だが、その話はどうしても楽しいものではないし、第一長くなるぞ。疲れているんだろう?」
それは図星だった。けれど、彼に心配されているというより、何かはぐらかされそうになっている気がしてならなかったし、私はそれが不満で仕方なかった。人と人との間に、どうして皆欺瞞を隔てようとするのだろう。私はすっかり辟易して、ヨハンに背を向けて目を閉じた。頬に当たる粗い藁が柔らかい羽毛であると自分に思い込ませようとしながら。
「なあ、リタ、俺はずっと昔、君に嘘をつかないと約束したんだ。それだけは信じてほしい。積もる話は、これからいくらでもできるさ。道中にでも話そう」
背後からのヨハンの呼びかけは、何だか私をひどく動揺させた。私は蝸牛の真似事をして、ない殻に閉じ籠った。私が返事をしないことで、彼が不愉快に思うだろうことは容易に想像がついたけれど、私は少しも配慮などしたくなかったし、散々な目に遭った分は横柄に振舞ってもいいような気がしていたのである。私はまたヨハンのため息が聞こえるだろうと、どぎまぎしながらわざわざ耳をそばだてていた。しかし、私がその耳で聞き取ったのは、彼の豊かな笑い声であった。
「何もかも忘れていても、そういうところは変わらないな。頑固で塞ぎがちで思い込みも激しい」
そのように言われ、私はなおさら意固地になった。幼馴染だというのは事実のようだけれど、今の私にしてみればヨハンは他人も同然なのである。そういう人にあれこれ見透かされているというのは、気分の悪いとは言わないまでも、やはり気持ちのいいことではない。一言も口を利かないで眠ってしまおうと、私は固く目を閉ざした。そして、朝が来たときに、ヨハンが私のこの子どもじみた行動をすっかり忘れていてくれるよう願った。何と言っても、今私が頼ることができるのはヨハンだけなのだから。
「……当てようか?君は今、俺が気分を害していないかと気を揉んでいるだろう?引っ込みがつかなくて黙っているだけで、俺に見捨てられやしないかと焦りを感じているんじゃないか?どうせ答えないだろうから言っておくが、俺は少しも怒っていないし、君を置いていく予定もないぞ。むしろ、君が嫌がっても、目的地まで連れていくつもりだよ」
何と強引な宣言だろう。私はぜひ腹を立てたいところだったけれど、不思議と心に感じていたのは安堵だった。ヨハンには私が本能で知っている温度を持っているのだという感がある。ずっと昔から、私たちはこうした会話を幾度も繰り返してきたのかもしれない。そう思うと、心地良く胸が温まった。ああ、私の何と愚かなことだろう。信じていいのだと心が叫んでいる相手に、くだらない自己防衛の盾を突きつけようとは。
「……その、目的地って?」
「デーングリーズ伯の屋敷さ。わけあって、厄介になっているんだ」
「そのわけも、他のすべても、きっと話して聞かせてくれる?」
「もちろんだ。とにかく、今夜は休もうじゃないか」
ヨハンの寛大さのおかげでいらぬわだかまりを残さずに済み、私は胸を撫で下ろした。私たちは平穏に挨拶を交わし、それぞれ眠りに就いた。藁は確かに悪くない寝具だった。
翌朝、ヨハンはまだ辺りが暗いうちに私をそっと起こした。私は起き上がり、寝ぼけ眼で服に刺さった藁を取り除いた。私がそうしている間、ヨハンは扉を少し開けて外の様子を確かめ、それから文句も言わずに私の支度が整うのを待っていた。私は藁遊びに飽きて立ち上がったけれど、しばらくはむず痒さに耐えなければならなくなった。
私たちは共に外に出た。すると、昨夜とは別の村人が篝火に炭を足しているのが目に付いた。ヨハンは少々顔をしかめた。誰にも見られることなく村を出たかったようである。
ほどなくして村人のほうも私たちに気付いた。遠目では面持ちまで判別はできなかったけれど、その村人は慌てた様子で作業を中断した。そして、あろうことか、眠りに静まり返っている村中に向かって、大声で呼びかけるのである。
「おおい!起きろ!起きろ!早く出てこい!」
すぐに、そこここから忙しない物音が聞こえてきた。村そのものが生き物で、目覚めがてら伸びをしているかのようである。あまりに唐突な出来事に、私は度肝を抜かれて立ちすくんだ。魔女狩りに来たのだとかいうヨハンの嘘が見抜かれ、今この場で私たちのほうが断罪されようとしているのではなかろうか。想像だにできない罰の気配に、私は思わずヨハンの腕に取り縋った。ヨハンは私を庇うようにして立ち、硬い顔つきで周囲に鋭い目線を配っていた。私はその横顔に見覚えがあったけれど、眩暈がして目を閉じた。
やがて、家々の前に村人たちが出揃うと、ふと物々しい静寂が訪れた。それは朝の冷気を一層引き立たせた。私たちは警戒に警戒を重ねてじっと待った。すると、向こうに背を丸めて杖を突く老人の姿が見えた。その杖は見るからに軽いのだが、老人がそれを嫌に力強く地面に突き立てながら歩くので、おかしな反動がその杖の中でもがいているかのような音がしていた。
老人は時間をかけて私たちの前までやってきて、精一杯といった様子で顔を上げた。
「処刑人よ、ゆかれるのか?」
どうやら、私たちの嘘はまだ陰に潜んでいるようである。私は緊張の糸をほんの少し緩めた。ああ、しかし、痩せこけた顔に張り付いているかのようなその目玉の何と大きいことだろう。私は老人の顔をまともに見ることができなかった。それでも、ヨハンが少しだけ肩の力を抜いたのはわかった。
「ああ。夜を越せば、長居は無用だ」
「おお、何と頼もしい……我々もこの苦悩からついに解き放たれようとしているのか……」
一体この村の人々が何に悩まされているのか――村の男が消えるとは言っていたけれど――私にはよく呑み込めなかった。魔女などというものは御伽噺の中でこそ存在するのであって、現実に奇想天外な術を期待することはできないはずである。だのにわざわざ魔女という言葉を使って何を指そうと言うのか、私はぜひに聞いてみたい気がした。
「処刑人よ、健闘を祈る。どうかあの悪しき魔女を打倒してくれ」
そう老人は付け加え、私たちに道を譲った。彼は魔女に会ったことがあるのだろうか。ともあれ、私は黙っていたし、ヨハンも不要なことは口にしなかった。ヨハンが大股で村を横断しようとするので、私は急ぎ足で彼についていかねばならなかった。
「皆、敬意と共に処刑人を見送ろうぞ!」
と、背後から老人がしわがれた声を上げていた。歓声というよりは、呻き声に近い不気味な合唱が始まった。私はつい片方の耳を手で覆った。誰にも笑われてなどいないのに、何故だか後ろ指を指されて嘲られているような気がした。悪寒に似た不安を煽る恐懼が泥のように私の足に纏わりつき、私は気付かぬうちに足を止めていた。ヨハンが怪訝そうに私を顧みる。私は彼に今すぐここから連れ出してほしかったけれど、どうしてもそのことを上手く訴えられなかった。これ以上ここにいたくないという一心で、私は屈み込んで耳を塞ぎたい衝動を追い払い、重りのついたような両足を動かし始めた。
すると、今度は左手を強く引かれる感覚がした。これも念慮のなせる技と、私は実際に手を振り上げてそれに打ち勝とうとした。けれど、それは気のせいなどではなく、誰かの手の感触なのであった。私はぞっとしてそちらを見た。そこにいたのは、ただの小さな子どもであった。篝火の炎が目に反射して、奇妙な輝きをその顔つきに与えている。
「あのね、これを持ってないと駄目なんだよ」
少年は小袋を差し出した。私はほとんど強制的にそれを手に握らされた。何か、草の類が入っているようである。
「……これは何かしら?」
「魔女は嘘つきだよ。だけど、嘘つきはみぃんなこの葉っぱで死んじゃうの。舌が燃え上がって。だから、魔女に会ったらこれを煎じて飲ませるんだよ」
子どもは屈託のない笑顔で言った。嘘つきだけに死をもたらす薬草があるなら、人々が余計なことで悩まされることもないだろう。それに、どうもこの少年は己が何を言っているのかよくわかっていないようである。この怪しげな村のことだ、不可思議なお守りの一つに過ぎないのだろう。私は引きつった顔で礼を言い、袋をしまった。ヨハンがせっつくように私を見るので、私は早々に歩き出した。子どもと話したことで、私の意識はすっかり現実に引き戻されていた。だから、私は何の苦もなく馬の背に乗り、ヨハンと共に村を出たのである。
私たちはひたすら東に向かって進み続けた。道中、ヨハンはあれこれと昔のことを思い返しては私に話して聞かせた。それは私の聞きたいことではなかったけれど、やはり知る分には面白いものであった。
「幼い頃のリタ王女は大変お転婆でね」
彼は噂話でもするかのようにそう切り出した。私は黙って耳を傾ける。
「庭園に出れば塀を越えて外に抜け出そうとするし、城のどこでも舞踏場にしてしまうんだ。しかも、偶然城に来ていたある騎士の倅を捕まえて、周りの皆がぽかんとしているのも気にせず、その子どもを友人にすると言い張ってしまうんだからな。その友人が来ない日があると、一日中不貞腐れている……なんてこともなく、足で届く範囲を飽かず探検して回り、侍従が半べそでその行方を探し回るのが常だった。王女の唯一の友人がお目付け役を担わされることになったのも当然だったよ」
「それがあなたね?」
「ああ……懐かしいな。あの頃は、すべてが単純だった。だが、俺もいつまでも遊び相手として君の傍にいられるわけではないとわかっていたからな。父に頼み込んで剣の腕を鍛えてもらったものだ」
前に座るヨハンの顔は見えなかったけれど、その声色を聞けば、彼が微笑んでいるのは察しがついた。私は話を聞きながら、記憶にない幼少期に思いを馳せた。私をはっとさせるような知覚は舞い戻らない。このままヨハンの思い出話を聞いていれば、何かの記憶がふと蘇ることもあろうか。そう考えたとき、私はヨハンが口を閉ざしてしまったことに気が付いた。
「ヨハン?」
「……いや、すまない。何かと苦労したときのことを思い出してな。あれは、俺たちにとって気楽な日々ではまったくなかった」
「それっていつのこと?」
私が尋ねると、ヨハンは再び沈黙した。馬の蹄の音が空虚に私の耳の中を転がった。私は急かさずに待った。しかし、すぐに彼は言う。
「俺が正式に騎士に叙任された頃さ。五、六年前になるか……ほら、騎士になったからといって、王女の警護をすぐに任せてもらえるわけじゃないだろう?危うく俺は城からも引き離されそうになったんだ。どうにかならないかとあれこれ二人で考えたんだぞ」
そう言って、ヨハンはどこか乾いた笑い声を上げた。彼が私の無二の友人だったなら、他の誰かの手によって別れるなど到底耐えられるものではなかっただろう。私はそのときの己の心境をありありと想像できる気がした。当然だろうか、時が経ち、記憶を失くしていても、私は私なのだから。
「あなたのことだから、きっとどうにかしてくれたのね」
「結局は、父に縋りつくしかなかったがな。それでも、丸く収まったのは事実さ。――おっと、見えてきたぞ」
彼がそう声を上げたので、私は前方に目をやった。確かに、遠くに立派な屋敷が鎮座しているのが見える。デーングリーズ邸――この距離からでも、ゲルトガ邸よりはるかに絢爛であることがわかった。しかし、ヨハンは一体何の縁があってあの場所に行くのだろう。しかも、私を連れて。
「どうしてデーングリーズ邸なの?」
「ん?……ああ、話していなかったか。俺がゴートルーに逃げ込んですぐのことだが、伯爵が俺の剣の腕を買ってくれたんだ。偶然、彼の子息を助けただけなんだが……とにかく、用心棒のような形で屋敷に置いてもらっているのさ」
「そう……けれど、突然私が飛び込んでいっても大丈夫かしら?」
「事のあらましは伯爵に話してある。いくら何でも、身分を偽るのは道理に反することだからな。君のこともあの人はすでに知っているよ。だからこそ、ゲルトガ辺境伯の思惑にも気付くことができたわけだが」
そう言われて、私は考えないようにしていた人の顔を思い浮かべた。今頃、彼は何を思っているのだろう。私が屋敷に戻らなかったことで、狼狽えているだろうか。それとも、逃した魚は大きいと歯噛みしているだろうか。ほんの少しでも、私を恋しく思ってくれているだろうか。
否、そのようなことを考える必要はない。私がゲルトガ邸で過ごした日々は、偽りに塗れていたのだ。孤独を極めた私の隙だらけの心に付け込み、厚意と装って狙いを果たさんとする、それを悪辣と呼ばずして何と呼ぼう?お為ごかしにもほどがあるというものだ。その彼にまんまと騙されたことで、私は己を許したくなかった。憎悪さえ抱えていれば、間抜けた淡い期待も忘れてしまえるから。
「リタ、名前を出しておいて何だが、彼のことは早く忘れたほうがいい。何もなかった、それでいいんじゃないか?」
ヨハンが心許ない調子で言った。私が何を考えているかなど、すぐにわかるというわけである。しかし、彼が何を思っているのかを私が見通すことができないのは、少々居心地が悪かった。何も他意がないのなら、当然それで構わない。けれど、ヨハンの前には、私があの人に対して感じていたような触れられない壁がある気がしてならなかった。私も同じ隔たりを自らの前に作れたら良かったのに。
「……そうよね」
心の内を隠そうとしても、私は言葉少なにすることしか思いつかなかった。闇雲に疑うのは骨の折れることで、しかも大抵上手くいかないのだから性質が悪い。私は辟易してヨハンの背に軽くもたれた。耳を触れさせると、彼の鼓動が聞こえてきた。それは穏やかな海のようで、嵐吹き荒ぶ様はまるで考えられぬ。人というものが心臓だけでできていたなら、それ以上に安らかなことはないだろう。しかし、私たちにはものを見る目も、音を聞く耳も、匂いを感じる鼻も、言葉を放つ口もあって、それらがお互いややこしく作用し合うので、ちっとも静かには暮らせないのである。
私とヨハンが屋敷に踏み入ったのは、もう間もなく夕暮れが訪れようかといった時分であった。そこに鉢合わせた侍女は私たちを見ても何も言わなかった。ヨハンは私を連れて階段を上がり、いささか落ち着きのない足取りで廊下を進んだ。あまりに屋敷が広いので、せっつくように彼が歩くのも合点がいった。ある部屋の前でヨハンは立ち止まり、私を見て、ここが伯爵の書斎だと教えてくれた。彼が重々しく扉を叩くと、予想外にも快活な返答があった。ヨハンは躊躇いなく、私はおずおずと、部屋の中に入った。
まず目に入ったのは、部屋の主だと言わんばかりに空間を陣取っている大きな肘掛け椅子であった。そこに、幾分か痩せた初老の紳士が腰かけている。椅子のせいか、紳士は小柄に見えた。しかし、彼が立ち上がったとき、それはすっかり覆された。細身であることに変わりはないが、すらりとした長身とそれに誂えた衣服に気品がある。これがデーングリーズ伯か、と私は内心考えた。このような人物だとは。
「よく戻ったな、ヨハン」
「はい。留守をお許しください」
「倅が許すならな。――それで、彼女が?」
小粋な笑みを浮かべた伯爵はふとヨハンから視線を外してこちらを見た。私は何だかぎくりとして、じっと彼を見つめ返すことしかできなかった。何を言うべきかもわからぬ。ヨハンは横目で私を見やりながら、深く頷いた。伯爵はおもむろに自身の顎を指先で撫でた。骨董品か何かのように品定めされている気分であった。
「そうか、そうか……リタ王女、お話は伺っております。よくぞご無事でいらっしゃいましたな」
「ありがとうございます……」
私はひとまずそう答えた。現時点で私のことを最もよく理解しているヨハンから話を聞いたというのなら、ともすると、この人物は私以上に私のことを知っているのかもしれない。それはとても不愉快であるように思われた。
「お疲れでしょう、すぐに部屋を用意させます」
「感謝いたします」
私は今度はできるだけきっぱりと言った。もしこの男が必要以上に私について知っているのなら、きっと警戒しなければならない。そう思い直したのである。のらりくらりとしてはいられない。何よりもまずは記憶を取り戻すことだ。そして、早いところどこかに隠れてしまおう。けれど、どこに?
ヨハンと伯爵は何か他愛のないことを話し始めていた。その間も、何となく監視されているような気分は消えなかった。私はひとまず伯爵の視線から逃れようと、そっと扉のほうへ身体を向けようとした。しかし、勝手に書斎を出ていいものか、さらには出たところでどこへ行けばいいものかさえわからず、動き出す踏ん切りがつかない。気付いてくれはしないかとヨハンに視線を送ったけれど、彼は新しい主に夢中のようであった。
ため息を堪えてじっと待っていると、廊下から兎が跳ねるような軽い足音が響いてきた。騒がしいというほどではないにせよ、この壮麗な屋敷には似つかわしくない物音である。それは徐々に近づいてきて、やがてこの部屋の前で止まった。そして、断りもなく扉が開け放たれる。
「やっぱりヨハンだ!おかえり!」
それは私が一度聞いたことのある少年の声であった。伯爵は顔をしかめ、片目がわずかに痙攣した。
「サミュエル――」
「わかったよ、父さん」
と、少年は父親の言葉を遮り、すぐにヨハンに向き直る。
「ねえ、どこに行っていたの?急に屋敷を開けてさ、昨日は暇で仕方なかったんだよ」
「すまない。少し、彼女を迎えにいっていたんだ」
ヨハンは手で私を指し示した。サミュエルは機敏にこちらに目をやる。十代も半ばだろうか、まだ少し私より背の低い少年とそこで初めて目が合った。その目線の動かし方は父親のそれに似たものがあった。
「誰なの?」
「俺の……まあ、妹だ」
ヨハンは歯切れ悪く言った。どうしてまたそのような嘘をつくのか、理解に苦しむ。事実ではないのは誰の耳にも明らかだったが、サミュエルは特に気に留めなかったようである。
「へえ。――えっと、初めまして。僕、サミュエルです」
「リタよ。会えて嬉しいわ、サミュエル」
「僕もですよ!ヨハンとは出会って短いけれど、兄のように思っていたので。妹さんがいるなんて、ちっとも知らなかった」
少年は人懐こい笑顔を私に向けた。それだけで、私の心はすっかり和んでしまった。子どもというものは、摩擦なく育つほどに人に癒しを与えるもので、たとえ無垢でなくとも、垢抜けないままでいることこそが本分なのである。対面して間もないというのに、私はサミュエルが卑しさと無縁であり続けることを祈っていた。環境が環境だから、きっと無理な相談だけれど。
「ヨハン、今日も稽古に付き合ってよ。昨日すっぽかした分さ」
「うん……仕方ないか。――リタ、また後で会おう」
「えっ?」
私はぞっとしないことを言われてつい素っ頓狂な声を上げた。右も左もわからぬような場所で、唯一安心できる相手に置いていかれるなど、堪ったものではない。まさか、彫刻のようにこの伯爵に観察されていろとでも言うつもりだろうか。しかし、必死に反抗するのもおかしなことであるような気がして、私は己の言葉を上手く拾い上げられなかった。すると、まるで私の内側で起きている騒動を目で見ているかのように、サミュエルが助け舟を出した。
「リタさんも一緒に来たらいいじゃない。中にいても退屈じゃないですか?」
「いや、リタは疲れて――」
「平気よ。見ている分には面白そうだわ」
私は無理やり言葉を捻じ込んでから、おそらく引きつっていたであろう笑みをヨハンに見せた。ヨハンは不思議そうな顔をしたけれど、余計なことを言わずにただ頷いた。そうと決まれば伯爵が口を挟む隙もなく、サミュエルは書斎を飛び出していった。伯爵はもの言いたげな深いため息と共に椅子に腰を下ろした。私とヨハンも辞去をして、彼に続いた。廊下に出たときには、すでにサミュエルの姿はなかった。
「あら、どこに行ったのかしら?」
「もう庭に着いている頃かもしれないな。隠し通路でもあるんじゃないかと俺は思っているよ」
「早く教えてもらえるといいわね。ねえ、ところで、どうして妹だなんて嘘をついたの?」
私が質問を口にしている間、ヨハンは流れるように階段を下りて、あっという間に踊り場に到達していた。彼はまだ階段の中ほどにいる私を振り返り、軽妙に肩をすくめて笑う。
「何だ、隣国の王女だと紹介したほうが良かったか?」
「そういうことではないけれどね」
「あいつは俺の素性もよく知らないし、話をややこしくする必要はないと思ったのさ。そもそも、俺や君が何者かなんて、まるで気にしないだろうよ」
「ええ、そうね。ただ……」
私はちょうど考えていたことをそのまま口に出そうとしてから躊躇った。何ということはない。わざわざ言う必要のあることではないような気がしたのである。しかし、ヨハンは足を止め、からかうように私の目を覗いた。
「ただ?」
「……あなたに何でも嘘で糊塗する癖でもあるのかと思ったのよ」
私は特別それを咎めたいわけではなかったし、ただ思いついたことをありのまま口にしたに過ぎなかった。たとえ嘘が多くとも、私に対する誠実さでつり合いが取れていれば構わないし、機転が利くという点ではむしろ賞賛に値するだろう。私は深い意味はないということを示そうと、ヨハンの仕草を真似て肩をすくめた。ほんの一瞬不安に翳ったヨハンの顔色はすぐに明るくなった。
「剣には剣を、嘘には嘘を、だよ」
彼は言った。では、私が彼に対して己を偽ったなら、彼は私には嘘をつかぬという誓いを破るのだろうか。否、そのようなことを考えて何になろう。今のところ、私たちには何の問題もないのだから。
庭ではサミュエルがじりじりと私たちを待っていて、ヨハンがやってきたのを見るや、彼は早速木剣を投げて寄越した。そして、相手が構えるのも待たずに自らの木剣を振り上げて躍りかかった。しかし、ヨハンは慣れた仕草でその攻撃を受け流してしまった。
「がむしゃらに剣を振るなといつも言っているだろう」
ヨハンがそう落ち着き払って言ったのに対し、サミュエルは悪戯っぽく笑っただけだった。少年は挨拶がてら私にも目配せをすると、再び剣を振るった。正直に言って、それは稽古とは名ばかりの代物であった。サミュエルが振り回す剣を、ただヨハンが綽々と受け続けるのである。けれど、サミュエルは歌劇でも見ているかのように顔を輝かせ、ヨハンも安らいだ表情を少年に向けていた。理由はわからないが、二人にとって何にも代えがたい時間なのだろう。私もまた、彼らの姿を見ているだけで満ち足りた気分になった。もしこの一時を切り取れるなら、私は永遠にその枠の中に留まっていたかった。しかし、現実はそうもいかず、間もなく辺りは暗くなった。サミュエルはようやく剣を下ろした。
「ああ、楽しかった!また付き合ってね、ヨハン」
「まったく……他にしたいことはないのか?」
ヨハンはサミュエルの木剣を預かりながら、呆れたように尋ねた。サミュエルは満面の笑みで大袈裟なほどに首を振る。
「だって、ヨハンは剣を握っているときが一番格好いいんだもの。ねえ、リタさん?」
と、サミュエルはさっと私を顧みて、すぐに表情を曇らせた。
「あれ、大丈夫ですか?」
「なあに、何のこと?」
すっかり心が解れてぼんやりとしていた私は、何とか意識を引き戻して聞き返した。サミュエルは素早くこちらに歩み寄ると、こちらをどぎまぎさせてくる大きな目で私を見上げた。
「リタさん、何だか泣き出しそうな顔していますよ」
むしろ彼のほうが涙を流し始めそうな不安定さのある面持ちは、奇妙に私を惹きつけた。ふと沸き立った抱きしめたいという衝動はすぐに捨て、代わりに私はサミュエルの肩にそっと手を置くことを己に許した。
「そんなことはないわ。……ね、リタでいいのよ。私とも仲良くしてくれる?」
「……うん!」
サミュエルは弾けるような元気を瞬時に取り戻した。子どもというものは、移り気だが健やかであり、それ故美しい。そのすべてが奪われるのも時間の問題であるのは、何と口惜しい話だろう。私でさえ、天衣無縫の態を失うにはきっと早すぎたのだ。




