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プロローグ 伝説の狩人

 ――王都の夜は、必ず鐘の音で始まる。

 大聖堂の尖塔に据えられた巨大な鐘が、重く、鈍く、腹の底まで届く音で九度打ち鳴らされるのだ。

 それは祈りの合図ではない。閉門の、そして生存の合図だ。


 鐘が鳴り終わる前に屋根の下に戻れなかった者の末路を、この街の住民は例外なく知っている。

 知っているから、走る。知っているから、急ぐ。知っているから、子供の手を引いて振り返らずに走る。鐘の余韻が石畳に溶ける頃には、王都は別の顔を晒していた。


 開いていた窓が次々と内側から引き込まれ、鉄の掛け金が落とされる。

 市場の屋台は板で覆われ、路上に残っていた商人の姿も消えた。

 居酒屋の扉が閉まり、鍛冶屋の炉の明かりが落ちる。


 犬や猫さえも、どこかへ消えた。鐘楼から外縁へ向けて広がる、その変化は恐怖の波紋だ。

 この街全体が毎夜繰り返す、生き延びる為の儀式。母親たちは子供に言い聞かせる。

 夜に外に出たら怪物に食べられる、と。

 

 それは脅しではない。昔話でもない。この街では、それがただの事実だ。

 怪異は夜に出る。夜に外にいる者を食う。だから夜には外に出ない。

 単純で、残酷で、疑いようのない生存の法則だ。


 しかし、夜の街が完全に静まり返った後、必ず銃声が聞こえる。

 一発、間を置いてもう一発。狩人の帰還を告げる合図だ。

 任務を終えた狩人が、生きて戻ったことを王都に知らせる為の二発。


 この街ではそれを『生の音』と呼ぶ。窓の内側で誰かが息をつく。

 今夜も誰かが帰ってきた。今夜も街は守られた。その安堵は一夜限りのものだが、それで十分である。

 明日の夜のことは、明日考えればいい。


 ――そして街の住民は狩人を見ると道を空ける。意識してそうするわけではない。身体が先に動く。

 狩人の外套が見えた瞬間、足が少し速くなり、進行方向が僅かに変わり、結果として道が開かれる。


 それは感謝なのか恐怖なのか、あるいはその両方なのか、住民自身も言語化できないその感情は、長年の積み重ねで身体に染み込んだものだ。


 ――そして狩人の外套は血で黒く染まっている。染み込んだのではない。重なったのだ。

 何度も何度も。乾いては次の血が重なり、また乾いては重なり、それが繰り返された結果の黒さだ。

 元の色が何色だったのか、古参の狩人の外套では判別できない。


 その黒さが即ち年数であり、場数であり、死の近さだ。真新しい外套を着た狩人は新入りだと分かる。

 新入りの外套が黒く染まる頃には、半数近くがいなくなっているのだ。


 ――そして教会は怪異を『神罰』と呼ぶ。信仰の足りぬ者への試練であり、堕落した街への天の裁きであり、神が人間に与えた精錬の機会だと説く。信者は減っていない。

 怪物に食われるよりは神に縋る方が気分がいい、という人間の心理は単純で、しかし根強い。


 しかし、古参の狩人たちは、その説法を聞いて何も言わない。

 神が人間を守らないことを、彼らは身体で知っているからだ。


 ――そして狩人の死亡率は、公式には発表されない。だが街に噂は広まる。

 入団した新米狩人の平均生存期間が八ヶ月だという話。

 前線に出た若い狩人が、一ヶ月持たないという話。


 教育中の死者を含めれば、毎月二桁の狩人が消えているという話。

 番犬団(狩人組織)の募集張り紙には『待遇:給与、宿舎、食事、医療保障。任期:入団から死亡まで』と書かれている。最後の一行の意味を、志願者の多くは理解した上で署名する。他に選択肢がないからだ。


 ――そして狩人の装備は、王都の通常兵士のものとは根本的に異なる。兵士は守る為の装備だ。

 鎖帷子、鉄板鎧、盾、槍。怪異から身を守り、集団で戦列を組むための道具。

 しかし、狩人は必ず殺す為の装備をしている。


 動きを妨げない軽量の狩人装束、獣の皮と特殊繊維を重ねた耐刃素材、複数の武器を同時に携行するための専用ホルスター。そして使用する銃弾が違う。普通の鉛弾では、怪異に通らないものがある。


 だから銀を混ぜた弾を使う。製造コストは鉛の何倍にもなるが、それでも銀弾でなければ死なない怪異が存在する。獣化した個体、特に元人間だったものには銀が効く。

 銀には浄化の性質があり、呪術的な耐性を持つ怪異でも銀弾は通る。


 番犬団の消耗品費が王都予算の中で、相当な割合を占めているのはその為だ。

 しかし、誰もそこを削れない。削れば翌週には王都が機能しなくなるからだ。

 けれど、怪異の弱点は種別により異なる。小型の群体種なら頭部破壊で機能停止するのだ。


 だが変異種は頭を落としても動き続けるものがいる。

 心臓を持つ型は心臓を破壊しなければ止まらない。心臓が複数ある型もある。

 A級の記録では心臓が三つあり、一つ潰すたびに再生を試みたという。


 共通しているのは、血が黒いことだ。怪異の血は人間のものとは色が違う。

 黒に近い暗色で、粘度が高く、乾くと石のように固まる。


 その黒い血が路上に残っていると、翌朝の住民はその場所を避けて歩く。

 何があったかを語らなくても、黒い染みが全てを語る。


 ――そして怪異の死体を放置してはならない。死んでいても、体組織が残っていれば夜の魔力を吸って、再び動き出すことがある。だから狩人は必ず死体を焼く。

 しかし等級が上がるにつれて、体組織は通常の火では燃えない。


 脂の構造が特殊で、普通の炎では表面が焦げるだけで、内部まで火が通らない。

 そういう死体には、呪術薬品を塗布してから、特殊な燃料で焼く。


 狩人が荷物を多く持ち歩くのはその為だ。

 戦うためだけでなく、戦った後の処理の為の道具が必要だからである。


 ――そして黒月の話は、市民の間で静かに広まっていた。

 年に一度訪れるその夜、空の月は黒く染まる。

 王都全体の魔力濃度が急上昇し、怪異の活動が平時の比ではなくなるのだ。


 等級外れの個体が出現することもある。過去の黒月で番犬団の損耗率が、平時の十倍を超えた記録があるのだ。満月の夜には外出禁止令が出るが、黒月の前後一週間は更に厳格な封鎖が敷かれる。

 外出禁止令が出ている間に外で見つかった者は、番犬団の管理下に入れられるのだ。


 保護という名目の隔離である。それが何故かと言えば、黒月の夜に外にいた人間が翌朝どうなっているか、という問題があるのだ。全員ではない。しかし、一部の者は一夜で変わって帰ってくる。

 外側は同じ顔をしているが目が違う。狩人が長年かけて失う目の光を、一夜で失った目をしている。


 ――そして狩人が、精神を崩壊させる話も、また広まっている。

 長年怪異と戦い続けた狩人が、ある日突然自我を失う。

 戦闘能力は残ったまま、判断力と理性だけが失われる。


 そうなった狩人は、怪異と区別がつかなくなるのだ。あるいは怪異に限りなく近い何かに変わる。

 だが、そういう者らを処分する為の専門の部隊が存在するのだ。それは『白棺処刑隊』である。


 常に白装束をまとい、感情を排した顔で、狂気に堕ちた者らを処刑する部隊。

 彼女たちが動いたという噂が立つと、狩人たちの間に静かな緊張が走る。

 次は誰か、という話が、声を潜めて語られるのだ。


 ――そして怪物化した元狩人の話は、新米狩人の間で囁かれる。

 かつて優秀だった狩人が、黒月の夜を境に変わった話。長年の血契の影響で、身体が変質し始めた話。

 怪異の血を浴びすぎて、皮膚の色が変わり始めた話。


 これらのどこまでが事実で、どこからが噂かは判別できない。

 しかし、全くの作り話ではないことを、古参の狩人たちは知っている。

 知っているからこそ、何も言わない。


 ――そして血契は、入団時に交わす誓約だ。番犬団への服従、任務の遂行、機密の保持。

 それらを血を使用した呪術的な契約で縛る。

 効果は身体に刻まれ、命令への反逆を物理的に抑制するのだ。


 血契を破った者の身体に何が起きるかは、記録として残されている。

 外部には公開されていない記録だが、教育課程で狩人候補生に一度だけ説明されるのだ。


 その説明を聞いた後で、志願を撤回した狩人候補生はいない。

 何故なら撤回した時点で、既に血契は成立しているからだ。


 ――そして獣人族は、王都にも住んでいる。人間と獣の混血。

 高い身体能力、優れた嗅覚と聴覚を持つ彼らは、外見上は人間に近いが、獣の特徴が一部に現れている。差別の対象になりやすく、仕事が選べない。住む区画を実質的に制限されている。


 しかし、狩人として優れた素質を持つため、番犬団には獣人族の狩人も少なくない。

 満月の夜に身体能力が更に上昇するが、同時に理性が低下する傾向がある。


 それが差別の根拠として使われることもあるのだ。

 しかし戦場では、その能力の高さが仲間の命を救う。


 ――そして怪異の発生原因については諸説ある。ある者は、怪異は自然発生や、呪術の事故により誕生したと言う。また、ある者は人為的に作られたものだと言う。

 最後の説は公式には否定されているが、完全に否定しきれていないことを、知っている者は知っている。


 ――そして酒場では、とある狩人の話が、今も多く語られているのだ。数十年前に起きた『黒月血戦』の夜のことを。この街の住民で、それを知らない者はいない。

 そう、王都が陥落した夜があったのである。


 黒月が空を覆い、魔力濃度が異常値を示した夜、グールの群れが市街地に殺到した。

 三千体という数字が語られているが、正確な数を数えた者はいない。

 数えられる状況ではなかったからだ。市街地は完全に封鎖。王族は地下へと逃げた。


 狩人部隊は組織的な抵抗を試みたが、数と質の差に押し流されて壊滅。

 軍の正規部隊も同様だ。兵士たちは逃げた。逃げなかった者は例外なく死亡。

 教会は扉を閉め、鍵をかけた。神の代理人たちは、神罰と呼んだものから、神に守られることはない。


 救援の見込みはなく、王都全体に脱出勧告が発令された。

 それでも、一人の狩人が王都に足を踏み入れる。


 それは命令ではなかった。寧ろ命令に反している。彼は単独(ソロ)だった。

 三日三晩、睡眠なし。水は血で濁り、肉は腐臭を放つ路地裏。


 変異グールの群れ、半人半獣の巨大種、かつての狩人だった狂戦士。

 その全てを斬殺した。最終局面では、群体型の母体グールを心臓ごと引き裂き、都市機能を奪還。

 そして全てが終わった時、狩人は立ったまま意識を失っていた。


 周囲には屍の山が生まれ、そこは血の海である。

 通りは黒い血で覆われ、怪物の死体が折り重なっていた。

 その中心に、煤けた黒の外套を着た男が立っていたのである。


 目撃者は言う。人間の形をした何かが歩いていた、と。

 住民たちは彼を英雄と呼んだ。伝説とも呼んだ。神の使いだと言った者もいた。

 しかし、それを信じない者もいる。


 一人で三千体を倒すことが、人間にできるはずがない、という現実的な判断だ。

 誇張だ、と言った。作り話だ、と言った。番犬団の宣伝だ、と言った。

 だが信じる者は、こう言う。血の海を見たと。死体の山を見たと。


 あの夜の王都を見た者は嘘だと言えないはずだ、と。そして彼の異名が、世界中に広まった。

 『黒月の奪還』『血煙の凱旋』『終焉の遠吠え』『一夜災害』

 それは様々な名前で、様々な場所で語られる。


 そして番犬団内部では王都奪還時の事を『オペレーション・ブラックハウル』と記録し、公式文書には『ナイト・オブ・リクレイム』と冷たく記された。

 しかし、街の住民が最も多く使う名前は、『黒月血戦』である。


 そして彼(狩人)の姿を見た多くの住民がこう言った。

 あの夜の後、血まみれのまま歩き続けていた、一人の男(狩人)が居たと。


 そして住民たちは、彼に英雄への賛辞や、感謝の言葉を掛けようとした。

 だが男は、その言葉を受け取ることなく、こう返したのである。


「狩りは終わっていない」


 ただ、それだけだった。住民に顔を合わせることも振り返ることもしない。

 そして、また月が昇る。雲の切れ間から、白い光が石畳を照らす。


 王都が静まり返る。窓の明かりが一つ、また一つと落ちていく。夜が深くなる。

 怪物の声が、どこか遠くで聞こえた気がした。狩人の狩りが、また始まる。

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