プロローグ
「――競走馬事業からの撤退を提案します」
その言葉は、冷房の効いた会議室に、音もなく沈んだ。
東京都千代田区。
シルクステート株式会社、本社8階・第2会議室。
月に一度の取締役会。その議題に「その他」として加えられたこの項目に、最初から注目する者はいなかった。
「年間維持費は約5,200万円。ここ5年の回収率は平均18%。
広告効果も期待できない。過去20年間で、重賞勝ち馬ゼロ。これは“道楽”というより、“浪費”です」
経営企画室・中原部長の説明に、何人かがうなずいた。
「……撤退すべきだな。今は“夢”を語る時代じゃない」
「会長が始めた時代ならまだしも、現代のIRにこれは耐えられない」
「クラブ法人でもない、名義馬主でもない……中途半端な情熱ほどコストがかかる」
言葉は冷たく、静かに事業の息の根を止めていく。
その中で、ひとり、言葉を飲み込んでいた男がいた。
加賀谷瑛士。経営戦略部・入社10年目。
この競走馬事業の現担当者――いや、“唯一の理解者”といってよかった。
デスクの下で握りしめた拳。
口に出したかった言葉は、喉元で蒸発した。
(……言えない。ここで「やめないでください」なんて。
数字も出せてない、実績もない、情熱なんて誰も信じていない)
だが、思い浮かべる光景があった。
あの馬房で、黙って草を食む一頭の栗毛。
ステイゴナファイト。
どんなに負けても、鞍を投げられても、
誰より先に調教場へ走っていった“お荷物馬”。
「まだ……あいつは走りたいと思ってる」
声にならない想いが、心を締めつける。
議案は、あっさりと承認された。
「競走馬保有の全頭売却、および今後の競走馬購入・保有活動を凍結とする」
静かに会議は終了し、役員たちが立ち上がる。
加賀谷だけが、席を立てずにいた。
会議室に残された、コーヒーのぬるさが、妙にリアルだった。
「終わった……のか?」
誰に言うでもない呟きが、天井に吸い込まれていく。
その翌日。
栗東トレセン・坂路調教場。
助手の叫び声が響いた。
「おいおいステイゴナファイト、なんで今日に限ってそんなに飛ばしてんだよ!」
「前脚の出が違うぞ、こいつ……“走る気”出してんじゃねぇか?」
その時。加賀谷のスマートフォンに一通のメールが届く。
《中京競馬 第6R:3歳未勝利戦》
出走馬:ステイゴナファイト
鞍上:笠原慶馬(51kg)
「……最後の出走かもしれない」
だが、それは“始まり”だった。
会社の誰もが諦め、
馬主会からも冷笑され、
調教師ですら希望を持たなかった――
一頭の無名馬が、名もなき企業の“夢の残り火”を灯し始めた瞬間だった。
――この物語は、
名もなき会社と、名もなき一頭の、
最後の夢の物語である。
『ステイゴナファイト』
――Stay Gonna Fight. 俺はまだ、闘える。




