伯爵の代官は、決意する
「姉さん」
僕は、本来そこに座るのが正しいはずの姉さんに執務室の席を明け渡す。
つい先ほどの話を実現へと向けるため、いざとなった時のために引き出しに入れてある養子縁組の書類を取り出すと、席に座った姉さんの前にその書類を置いた。
本当は、その引き出しに入っている、養子縁組の書類ではなく、結婚証明書の夫の記載に僕の名前を書いて置いてある書類を取り出して、さりげなく妻の部分に姉さんの直筆で書いてもらうのも手だとも思ったものの、流石に気づきそうだったのでやめておいた。
……いや、待てよ。
気づく、か?
気づかないんじゃないかな。
「とりあえず、養子縁組は早急に終わらせて。フィンバルク殿下でも、エルト殿下でも。なんだったらカシムール殿下でもいい。とにかく、王家に連なる権力者ならすぐに対応できるから、優先的に処理させるようにして」
「わかってるわよ」
「あと、養女とした場合、エスフィ王女の名前はどうするの?」
「エフィね。エフィ・ランページ」
「……ああ。キュア王子だけが呼ぶことを許されている愛称だね。なるほど。それならキュア王子も愛称で呼び続けることもできるし、王女様も正式名が変わるだけでほぼほぼ変わらないね」
「いいでしょ」
代筆で、僕が養女の名前を記載すると、次は姉さんの番。
「エフィは継承権がないから、ランページの継承権がないことを示すランペルジの名になるね。エフィ・ランペルジ。こことここに名前を書いて、ハンコはここ」
こっそりと結婚証明書の書類を取り出しつつ、指をさして姉さんの記載箇所を説明。姉さんはふんふんと頷きながら直筆のサインを書いていく。
「ハンコはどれ?」
「姉さんしか使えないあのハンコだよ」
「あら、ヨモギに使わせようとしてたのに。私が先に使うのを許してね」
「使う予定は今のところないから大丈夫だし、姉さんは決済用にいつも使ってるじゃないか」
「使ってもいいのに。ヨモギが使えたら楽よ?」
「楽になるのは姉さんだけだよ」
使っていいなら僕の手元に今あるこの書類にハンコをびしっと押してみようか。
なるほど、僕は今姉さんを手に入れる千載一遇の場面に出くわしているのか。このままさりげなくサインを書かせて、後は僕がハンコを使ってもいいみたいだからそのハンコを押してしまえばいい。
後は帝都の王城に書類提出すれば、僕と姉さんは晴れてランページ夫婦となる。
提出が終わった後に姉さんに言えば、姉さんだって仕方がないと諦めてくれるに違いない。
そう、今こそこの書類を――
「――……」
書類は、引き出しにしまった。
書き終わった養子縁組の書類に問題がないことを確認すると、くるくると丸めてまとめ、汚れないよう筒に大切にしまう。
「? あれ? 今のも必要なものじゃなくて?」
「姉さんに必要なのは、その机にどっさりと置いてある書類だよ」
姉さんが珍しくハンコをもったこの際だから、ついでに溜まった書類にハンコを押してもらおう。
僕が指差した書類の束を見て、姉さんは「うげぇ」と令嬢にあるまじき声を出して机にへばりついた。やがて、覚悟を決めたのか、書類を一枚とって、内容を吟味してハンコを押していく。
「……姉さん」
「ん? なにかしら?……ねぇヨモギ。この地域、雨季になったらいつも氾濫が起きてて危険だったわよね。治水工事は進んでるの?」
一つの書類をじっと見つめて、姉さんは珍しく領土の問題について向き合っている。いや、正しくは、常に向き合っているけども、書類で見るか、目で見てその場で判断しているかの違いなだけ。現場で全部終わらせちゃうのを、その後に聞いて書類に起こしてハンコ押したりすることの方が多いから、書類から先にみることが珍しいってだけである。
本当は、書類を見て決裁するのが正しいんだけど。姉さんは自分で現場を見ないと気が済まないから。自分判断で対応できることは即決するからこそ、問題の解決も早い。それが姉さんのいいところだ。……その、尻ぬぐいは全部僕のところに書類で来るんだけどもね……。
「んー……治水工事をもう少し早めないと、今年の収穫に影響も出そうね。ちょっと予算をかけて――」
「姉さん」
「さっきからなにかしら? そんなに珍しく書類仕事してる私が気に入らない? しっかりやってるわよ?」
「無理、しなくてもいいんだよ?」
「っ」
姉さんは、こんなことをするわけがない。
自慢じゃないけど、姉さんは、書類に興味がない。自分の目で見て対応するのが姉さんだから。
だけど、今、こうやって書類決済をする姉さんは、どこかおかしい。
いや、正しいんだけどもね?
正しいけど、姉さんは、書類に逃げるときは、何か悩みを抱えているときだ。
「フィンバルク殿下と何かあったんだろうけど」
「なんでフィンなのよ……」
「姉さんが落ち込むときって、大体殿下が関係してるからね。なんにせよ。今回のことと関係なく、殿下と仲違いしたのなら、今回の大事の前に、しっかりと関係修復しないと大変だよ?」
「……私だけが、気になっているだけよ」
その気になるという行為が、どれだけ僕が求めているものなのか。
こうやって姉さんをヤキモキさせては、苦悩させるフィンバルク殿下が羨ましくも妬ましい。
だけども、そうやって姉さんを悩ませるのが殿下だけであるのだから、やはり、姉さんを幸せにできるのは、フィンバルク殿下だけなんだろう。
そう思うこともなければ、結婚証明書にサインしてもらったんだけどもね……。
「もし、本当に辛いのなら、少しは僕にも相談してほしいな。姉さんを心配しているのは、何もフィンバルク殿下やマオ姉、ミサオ姉だけじゃなくて、僕もだから」
「……ヨモギ……」
姉さんが幸せになるなら、なにも僕が、だけじゃなくてもいい。
「ありがとう」
そのお礼だけでいい。
僕は、姉さんが幸せになってくれるのなら。それだけで。
「ホリン。……帝都にいるアイラに、伝言を」
僕は、姉さんが帝都に向かう馬車に乗り、遠くなっていく一団を見ながら、背後に控える僕の専属執事であり中郡部隊の補佐を任せているホリンに声をかけた。
「どのような」
「……姉さんは、王女様を救うことができる。だけど、姉さんはその後のことを考えられていない」
「……お嬢様に、害が及ぶと?」
「間違いなくね」
姉さんのことだ。
きっと、エスフィリア王女を自分の手でキュア王子の元へと届ける。
だけど、帝都に戻ってきたときが、ちょうどカシムール殿下に声をかけられてしまうのだろう。
「ランページ不可侵法が、撤廃される」
「……なるほど」
そこからが勝負になる。
ランページ不可侵法が撤廃された時。カシムール殿下はすぐにでも姉さんに会おうと、王権を使って姉さんを呼び出すはず。ランページだからそれに逆らってもいいのだけども、姉さんは帝国に忠誠を誓っているから、自分が罠にかけられ不幸の道を歩かせられそうになっていることにも疑いもせずに呼び出しに応じるに決まっている。
フィンバルク殿下がそこにどれだけ抗うことができるか。帝王を巻き込みカシムール殿下の動きを抑えこむことができれば、フィンバルク殿下のほうが先に姉さんに婚約、婚姻を申し込むことができるだろう。
姉さんが悩まずに、そのままなにも考えず受け入れれば、それで今回の騒動は終わる。
……こういう時に、猪突猛進を披露してもらいたいものなんだけどね。
だけど、それは、細い糸の上を歩くかのごとくに、難しい。
カシムール殿下の、そう言うときの行動力は、ランページ以上だから。
もしかすると、姉さんを帝国中探し回るかもしれない。
「フィンバルク殿下が、間に合うかどうか、ですか」
「……それがうまくいかなかったことを考えるべきだね」
僕は、自分の手にある、二つの薬をじっと見つめ、その時に備えて、動き出す。
姉さんを、カシムール殿下に渡すわけにはいかない。
もし、そうなったのなら。
僕は――
姉さんを、殺してでも、この帝国から、救ってあげたい。
だから僕は。
自分が思い描く数手先を見据える。
ああ。こんなことになるのなら。
僕がもっと早くに、姉さんを攫ってしまえばよかったのに。
それこそ、冗談でもなく。
さっきの書類――結婚証明書を無理やりにでも書かせてしまえばよかった。と。
訪れる最悪を愁い、僕は、姉さんのために、最善を尽くす。




