渚
死にたい、と思った。
何故そう思ったのかは今すぐにはっきりと思い出せない。
俺は日暮れの学校の屋上の欄干の前に立った。
この世界は摩訶不思議に溢れている。
最もな例えは、異能。簡単に言えば、超能力。
されどほとんどの異能は大層なものじゃなく、ささいなことを変化させることしかできない。
ガムを膨らませやすくなる、ティッシュを綺麗に折り畳みやすくなる……
中には雷を操る異能など、優秀な異能を持つ人間もいる。
人々には生まれつき何かしらの異能が備わっている、はずだ。
だのに、俺は無能力だった。
異能を何も持っていない、世界でも珍しい人間。それが俺。
「お前、異能なしなんだってな?ただの雑魚じゃん」
踏まれ、蹴られ、殴られ。
俺を痛ぶる彼らの笑みを思い出すと、背筋がゾクリとする。
もう終わろう……。
そして俺は欄干を手放し―――――――――
♪~♪
突然聞こえた音に、俺は手を止めた。
「何だ……?」
耳を澄ますと、それはピアノで弾かれた怒涛の展開の続く旋律だった。
高音へと滝の如く登り、再び低音へと雪崩れ込む。
そして焦るような高音の連続。
知らない曲なのに、完璧ともいえる繊細な超絶技巧。
それが頭を自然にそちらへ引っ張った。
気づいたら俺は足が勝手に動いていた。
屋上の縁から離れ、その音のもとへと歩き出していた。
音の出所は音楽室だった。
学校で唯一、グランドピアノが置かれている部屋で普段俺が立ち入る所ではなかった。
その部屋の扉をそっと開けると襲ってたのは圧倒的な音だった。
そして同時に、ピアノの弾き手が視界に入る。
弾いているのは同学年の証である緑色の紋章を付けた制服を纏う、ミディアムショートの黒髪の少女だった。
真剣な表情で俺が入ってきたのも気づかず、蜘蛛の脚が走るように指を動かし鍵盤を打つ。
それがこの荘厳な曲になっているのかと思うと、不思議な気分になった。
俺はそこで立ち止まり、曲を聞いた。
やがて曲は更なる広がりを見せ、そして落ち着いた後、再び激しくなって終わった。
音が途絶えてシンとした静けさが俺を襲うが、何も言う気になれなかった。
俺の胸中が未だに音の余韻を感じ取っていた。
少女がゆっくりと鍵盤から手を離す。
ゆっくりとこちらを見た。
少女の灰色の目と視線が合う。
「君、誰かな?」
高校生にしては幼さの残る顔つき。
全てが普通のように見えたが、キャラクターのヘアピンがやけに目立っていた。
「あ、すまん……今の曲って何て言うんだ?」
何言ってるんだ。気づけば勝手にそんな事を言っていた。
明らかに初対面の人間が最初に言う言葉じゃないだろう。
俺がキョどっていると、少女は普通に答えてくれた。
「超絶技巧練習曲のマゼッパだ」
少女がピアノの縁を撫でながら微笑む。
それが俺と彼女―――音無渚の最初の出会いだった。
★ ★ ★
「渚ちゃん、今日こそ僕の告白、受け入れてくれないかな?}
朝礼前、僕の席の前に現れたのは一人の美青年。
僕にとってはただのストーカーまがいの人間だったが、世間から見れば彼は強力な異能を持っている優れた人材だった。恐らくこの学校どころか日本でもトップを争う異能持ちだろう。
「聞いてるのか?」
「……聞いてるけど、返事は決まってるよ」
そして彼が求める相手である僕は勿論女だ。もしかしたら彼はあっち系かもしれないが、現に僕は女なので違うだろう。
男に言い寄られるというのは前世では味わったことのないむずがゆい感覚だ。
「ノーだよ。今のところ、恋愛をする気はないんだ」
僕の前世は男だ。BLを読んだことはないし、好きなわけでもないので断るに決まっているだろう。
「……そっか。ありがとう……」
彼は悲しそうな表情をしながら離れていった。一瞬哀れに思ったが、明日にはまた僕の前にやってくる。たまげた根性である。
男だった僕が言うのもあれだが、僕の見た目は突出しているわけではない。
普通の中央を堂々歩いている程度の容姿なはずで、彼みたいな人間が何故僕に執着するのか分からない。……名前何だったっけな。
先生が教室に入ってきて、気だるげな鶴の一声で朝礼が始まる。
前世で散々学業をしてきた僕にはここからの時間は酷く退屈だ。
窓越しに移り変わる空を見上げる方がよっぽど楽しい。
「おい、音無。空は授業より楽しいか?」
「はい」
「……そうか」
先生も完全に諦めたのか最近は強く注意してこない。
暇だなぁ……
キーンコーンカーンコーンと放課後への合図が鳴る。
さようならーと挨拶してから僕はさっさと教室から出て、音楽室へと向かった。
音楽室のドアにカギを差す。僕は常連なので先生からスペアキーを貰っているので、職員室に寄る必要もない。
カラカラと開けると視界に飛び込んできたのは壁に飾られた数々の偉人の肖像画とグランドピアノ。
僕は鞄を傍に降ろし、早速ピアノベンチに腰掛けた。
目の前にはたくさんの真っ白な鍵盤。
これが数々の名曲を生み出すことができると思うと、その表現しようもない凄さを感じる。
僕は鍵盤に指を置いた。
前世ではピアニストをやっていた僕にとっては何千回もやった動作だ。
されどこの体は前世よりも更にピアニストとしての素質を持っていた。
絶対音感のある耳に、小指の長い手。
ふぅっと息を吐いてから、前世より長く細く白い指に力を込める。
チャラララチャララララ――――――
指がなぞっていくその曲は、テンペスト第三楽章。
文字通り嵐のように曲が進行していくのが特徴の、クラシックの中ではかなり有名な曲だ。僕も数ある曲の中でお気に入りの一つだ。
ズッと指で押すとピアノは美しい音色を出力する。
やはりピアノは本物がいい。
全ての指が頭の中の譜面の音符を正確に、素早く追っていく。
風、周りの音、汗さえも意識から消えていく。
やがて最後の上下を両手で奏で、曲は静かに終わりを迎えた。
余韻が音楽室を満たし、僕は肺に貯めていた空気をフッと吐いた。
いい……。やはり芸術ほど心を満たすものがあろうか。
前世から未練を持つ僕を、慰めてくれるような気がする。
すると、その余韻に誰かの声が混じった。
「スゴ……」
入口の方を見ると、そこには一人の青年が立っていた。
黒髪短髪のイケメンだが、自クラスではないと思うので誰か見当もつかない。
感嘆の息を漏らして、呆けている。
「君は確か昨日の……」
僕がそう言うと彼はハッとしたように僕を見た。
「あっあ……すまん、今日も聞いてしまって」
「別にいいけど。なんなら、もう少し聞いてくかい?」
「え?いいのか?」
「いいよ。音楽はたくさんの人と聞いてなんぼだろう。そこに座りなよ」
近くに置かれている折り畳み式のパルプ椅子を勧める。
彼が座ったところで、僕は再び鍵盤へと意識を向ける。
さて、次は何を弾こうかな?




