第50話 笑顔抽出プロセス
『真乃極さんの笑顔抽出プロセス』
エスパーからの防衛など必要ない。これからの僕の脳内コンピューターの演算リソースはすべて、彼女を幸せにするためだけに割かれるべきだ。
彼女がどんな言葉で喜び、どんな行動でその美しい頬を染めるのか。その変数を集め、最適解を導き出すための、新しい観測記録。
『観測記録01:音声シグナル(呼称)の変遷に伴う心理的パラメーターの変化および次期検証課題』
初期の観測において、対象は僕が用いる「先輩」という階層的な呼称を明確に忌避していた。これは、上下関係という社会的・物理的距離が、彼女の求める親密化のノイズになっていたためと推測される。
その後、僕が「真乃極さん」という同格のシグナルへと移行した結果、対象の警戒心は著しく低下し、笑顔の抽出効率は一定の安定を見せた。呼称という単なる音波の組み合わせの違いが、対象の意識や自律神経にこれほど直接的な影響を与えるとは、実に興味深い生体反応である。
したがって、次なる仮説に基づく実験を実行する。
社会的距離を完全にゼロにする呼称――すなわち「凛」というファーストネーム単独での音声入力だ。この最適化されたシグナルが、彼女の顔面毛細血管の拡張(赤面)と最大出力の笑顔を抽出できるか、早急に検証を行う必要がある。
ただし、その発声に伴い、僕自身の心拍数が平常値を大幅に超過し、システムがオーバーヒートを起こす確率が極めて高いことについては、あらかじめ覚悟しておかなければならない。
僕は満足してノートをパタンと閉じ、鞄の奥底へとしまった。
窓の外を見ると、柔らかな春の日差しが校庭を照らしている。僕は席を立ち、僕の絶対的な確率100%で好きな人が待つ場所――校舎裏へと向かって歩き出した。
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三月の暖かな風が、私の長い髪をふわりと揺らしていく。
春の日差しに包まれた校舎裏。頭上には、満開に近い桜の枝が薄紅色の天蓋を作っていた。時折吹く風に乗って、ひらひらと花びらが舞い落ちてくる。
私、真乃極凛は、少しだけ早くなる心拍数を抑えながら、彼が来るのを待っていた。
思えば、本当に奇妙な一年だった。
海外から戻り、馴染めるか不安の中で、私を物理的な計算式ごと受け止めてくれた男の子。
恋をして、振り向いてほしくてアピールするたびに、「念動力だ」「精神攻撃だ」と的外れな理屈で論破され続けた日々。
普通ならとっくに心が折れていたかもしれない。でも、彼のその理屈っぽさの裏にある、誰よりも真面目で、不器用で、優しいところを、私はずっと知っていたから。
ザクッ、ザクッと、砂利を踏む規則正しい足音が聞こえてきた。
「お待たせしました」
振り返ると、そこにはいつも通りの少し冷徹そうな三白眼を眼鏡の奥に光らせた、頼斗くんが立っていた。
風で乱れた前髪を気にするでもなく、私の前に歩み寄ってくる。
「ううん、今来たとこ」
私が微笑むと、彼もほんの少しだけ、口角を柔らかく上げた。
桜の木の下で、私たちは向かい合う。
二人の間の距離は、もう絶妙なパーソナルスペースを保つ必要なんてない。手が届く、すぐ目の前。
私は、彼の顔をじっと見上げた。
そして、この一年間、彼を困らせるために、気を引くために、何度も何度も繰り返してきたあの言葉を、最後にもう一度だけ口にした。
ゆっくりと目を閉じ、少しだけ背伸びをする。
「ねぇ、頼斗くん」
春の風に溶けるような、甘い声で。
「私は今、何を考えているでしょう?」
今までなら、ここで「脳波の異常なシグナルが……」とか「自律神経の乱れによる……」とか、斜め上の物理法則が飛んできたはずだ。
私は目を閉じたまま、彼のどんなポンコツ理屈でも受け止める覚悟で、その答えを待った。
しかし、私の耳に届いたのは、理屈っぽい長台詞ではなかった。
「……こういうことでしょうか。凛」
低く、落ち着いた声。
次の瞬間、私の唇に、少し冷たくて、けれどひどく優しい、柔らかな感触が重なった。
「……っ」
驚いて目を開けると、至近距離に頼斗くんの顔があった。
いつも冷静な彼が、耳の先まで真っ赤にして、少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らしている。
「よくできました……頼斗くん……!」
「物理的な接触による、オキシトシンの分泌を促すための行動です。あなたの脳内物質の要求に、最も効率的に応える最適解を実行したまでですが……計算違いはないでしょうか?」
顔を真っ赤にしながら、それでも必死に論理の盾を構えようとする彼を見て、私は堪えきれずに吹き出してしまった。
「ふふっ……あははっ! もう、頼斗くんったら! キスする時までそんな理屈言う人、世界中に頼斗くんしかいないよ!」
「……非論理的で不確実な感情行動は、僕の性分に合わないので。ですが」
頼斗くんは言い訳を途中でやめ、私の腰にそっと腕を回し、力強く抱き寄せてくれた。
彼の胸の奥から、ドクン、ドクンという、私と同じくらい早くてうるさい心臓の音が聞こえてくる。
「……凛の求めている答えと完全に一致したという事実は、観測できました」
彼のその不器用な言葉に、私は嬉しくて、愛おしくて、彼の胸に顔を埋めたまま強く抱きしめ返した。
「うんっ……大正解だよ、頼斗くん」
桜の花びらが、春の光の中を美しく舞い散っていく。
ちょっと変わった神社の天才息子に、エスパーと勘違いされた私。
決して交わるはずのなかった論理と非論理は、今、この桜の木の下で、完璧なハッピーエンドという名の最適解を導き出したのだった。
第1章 完
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