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夜明けの戸締まり(下)

 一

 翌日の夕方。腹割亭を早じまいにした。

 常連のゴウが「今日はもう終いか」と訊いた。サエルが「ちょっと野暮用や。明日はいつも通り開ける」と答えた。ゴウは何も訊かなかった。ジョッキを空にして、「気ぃつけてな」とだけ言って帰った。

 ナジは朝粥に来ていた。いつもの場所に座って、いつもの速さで粥を啜って、いつものように椀を返した。懐の瓶は——今日は見えなかった。

 ツキは来なかった。昨日も来なかった。二日空くことは、前にもあった。でも三日目が来たら——。

 サエルはミーシャを呼んだ。

「ミーシャ。ツキが三日連続で来んかったら、いつもの席の匂いを辿ってくれ。お前の鼻なら、ツキの匂いは覚えとるやろ」

 ミーシャが頷いた。耳がぴくりと動いた。

「……うん。覚えてる。生姜の匂い」

「頼む。俺は今夜から手が離せん。ツキのことは、お前に任せる」

 ミーシャの尻尾が一度揺れた。任された、という揺れ方だった。

 閉店後、二階に全員を集めた。

 ガルド。ミーシャ。ソル。リーラ。

「今夜、温もり処に行く。正面から入る。セラを出す。セラだけやない。あそこにおる人間を、全員出す」

 ガルドがサエルを見ていた。サエルの目を。それから手を。手が震えていないことを確認するように。

「ガルド。お前は裏口から入ってくれ。リーラが道を教える。深夜三時、見張りが手薄になる。裏口の鍵は——」

「——あたしが開ける」

 リーラが言った。

「裏口の鍵は旧式の鉄錠よ。エルフの指と、150年分の経験があれば、どうにかなる」

「どうにかなる、って何や」

「訊かない方がいいわよ」

 サエルは突っ込まなかった。

「ミーシャ。お前は外で待機や。温もり処の正面と裏口の両方が見える位置で、何かあったら知らせてくれ」

 ミーシャが頷いた。耳が前を向いている。

「ソル。お前はガルドと一緒に裏口から入ってくれ。中にいる人を外に運ぶ力がいる。歩けない人もおるかもしれん」

 ソルの胸の光が、一度強く光った。

「俺は正面から入る。ガセイと話をつける」

 リーラが腕を組んだ。

「話をつける、って——あの男が話で動くと思う?」

「動かん。でも俺が正面で時間を稼いどる間に、裏口からガルドたちが入る。セラたちを外に出す。それが先や。ガセイは後でええ」

 ガルドが膝を叩いた。ぱん。

 サエルが叩き返した。ぱん。

 リーラがソルを見た。ソルの光が安定したリズムで明滅していた。

「——行くか」

 サエルが立ち上がった。


 二

 深夜二時半。

 サエルは温もり処の正面に立っていた。

 外套の下に何も隠していない。革袋もない。金貨は前回、ガセイの机の上に置いたまま——受け取ったか投げ捨てたかは知らない。

 今夜は金の話をしに来たのではない。

 扉を叩いた。

 覗き窓が開いた。

「——お前か。もう来るなと言われとるやろ」

「ガセイに伝えてくれ。ロウタ・サエルが来とる。最後の話がしたい、と」

 覗き窓が閉まった。

 長い沈黙。三分。五分。

 扉が開いた。

 前回と同じ体格のいい男。「ついてこい」。

 二階。あの廊下。ガセイの部屋。

 扉が開いた。

 ガセイが机の向こうに座っていた。前回と同じ姿勢。背筋が伸びている。

 違うのは、机の横に部下が二人立っていたことだった。腰に短剣。

「——懲りんやつやな」

 ガセイの声は平坦だった。

「金なら返す。持って帰れ」

 革袋が机の上に置いてあった。前回と同じ場所に。動かされた形跡がなかった。

「金はいらん」

「ほな、何しに来た」

「お前に訊きたいことがある」

 ガセイの眉がわずかに動いた。

「……訊きたいこと?」

 サエルは椅子に座った。座る許可を待たなかった。

「お前は、なんであんな場所を作ったんや」

 ガセイの指が机の上で止まった。

「あんな場所、とは?」

「名前を奪って、番号で呼んで、鍵をかけて、逃げた人間を殴って——あの『特別な部屋』で何をしとるのかも、俺は見た。お前は、なんでそんなことをしとるんや」

 部屋の空気が変わった。部下の二人が身構えた。

 ガセイは動かなかった。

 長い沈黙の後、ガセイが口を開いた。

「——お前に言うてもわからん」

「わかるかどうかは俺が決める」

 ガセイの目がサエルを見た。冷たい目——のはずだった。でも今夜は、冷たさの奥に、何かが揺れていた。

「……秩序がなかったら、世の中は回らんのや」

 ガセイが言った。声が、前回より低かった。

「強い人間がおって、弱い人間がおる。上がおって、下がおる。それを壊したら、全部が崩れる。俺がやっとることは——秩序を守っとるだけや」

「秩序を守るために、人の名前を取り上げるんか」

「名前が何や。番号の方が管理しやすい。効率がええ」

「効率」

 サエルの声が、低くなった。

「……お前は、効率のために、人から名前を取り上げたんか」

 ガセイの表情に、微かな亀裂が入った。眉の間の筋が動いた。

「取り上げたんやない。管理しとるんや。あいつらは——自分では何もできん人間や。食って、寝て、それだけの——」

「それだけの、何や。言うてみい」

 ガセイの口が止まった。

 サエルが前に身を乗り出した。

「言えんやろ。『それだけの人間』と言おうとして、言えんかったやろ。お前は自分で言うとることが嘘やと知っとるんや。あの人らには名前がある。痛いことを痛いと感じとる。怖いことを怖いと感じとる。お前はそれを知っとる。知った上で番号をつけたんや」

 ガセイが立ち上がった。椅子が倒れた。

「——黙れ」

 その声は、怒りだけではなかった。

 サエルのこめかみが脈打った。

 ——来る。

 建物の中に満ちている感情の残滓が、頭の奥に流れ込んできた。前回よりも速く。前回よりも深く。

 サエルの視界が揺れた。


 三

 最初に来たのは、音だった。

 サエルの耳に、聞こえるはずのない声が流れ込んできた。

 泣き声。呻き声。「やめて」という声。「107番」と呼ばれる声。「おとなしくしろ」という声。何年分もの声が、一度に、重なって。

 ——【共感把握】が、暴走しとる。

 使っていない。使おうとしていない。なのに、スキルが勝手に起動していた。この建物に染みついた何百人分もの感情が、蓋の外れた壺のように溢れ出していた。

 サエルの目が見開かれた。

 視界に映像が混じった。

 ——暗い部屋。壁に背中をつけている。目隠しをされている。手首が紐で縛られている。足音が近づいてくる。扉が開く。光が差す。その光が怖い。

 サエルの身体ではない。サエルの記憶ではない。この建物の壁に染みついた、誰かの記憶だった。

 こめかみが割れるように痛んだ。膝が震えた。

「——やめ……」

 サエルが声を出した。自分に向けた言葉だった。止めようとした。止まらなかった。

 部屋の中の空気が変わった。

 ガセイの部下たちが、目を見開いていた。二人とも、顔色が変わっている。白い。

 ——暴走が、俺だけやなくて、この場にいる全員に波及しとる。

 部下の一人が、壁に手をついた。

「やめろ……」

 震える声だった。

「見せるな……俺は——俺は知らん、あの部屋で何をしとるかなんか、俺は——」

 もう一人の部下が膝をついた。両手で頭を抱えた。

 暴走した【共感把握】が、温もり処の壁に染みついた感情を掘り起こしていた。何百人分もの恐怖。痛み。絶望。——それが、部屋の中にいる人間に流れ込んでいく。

 ただし、全員に同じように流れ込んでいるわけではなかった。

 サエルの頭の片隅で、壊れかけた思考が一つの理解を掴んでいた。

 ——この力は、「ないことにしてきたもの」をこじ開けとる。

 ガセイの部下たちは、この建物で何が行われているかを知っていた。知った上で「知らん」と言っていた。扉の向こうの悲鳴を聞いて、聞こえなかったことにしていた。暴走した【共感把握】は、その蓋を——「知らんふり」の蓋を——力ずくで引き剥がしていた。目を逸らしてきたものを、無理やり見せていた。

 こじ開ける蓋がない人間には、何も起きない。最初から目を逸らしていない人間には。

 ガセイが動いた。

「——何をしとる」

 ガセイの声が、初めて乱れた。

 サエルを見ている。サエルの目が、光っていた。共感把握が暴走している証だった。本人にも制御できていない光。

「止めろ。止めんか」

「止められん——」

 サエルの声が掠れた。

「俺にも、止められん——」

 そして——流れが、逆転した。

 サエルの記憶可視化が制御を完全に失った瞬間、スキルが双方向に作用し始めた。サエルから周囲へだけでなく、周囲からサエルへ。

 ガセイの記憶が、サエルの頭の中に流れ込んだ。


 ✱ ✱ ✱


 ——若い男が、頭を下げている。

 軍服を着ている。二十代の初め。痩せている。肩幅はあるが、まだ軍人の身体になりきっていない。将校の前に立っている。将校は三人。椅子に座って、若い男を見上げもしない。書類に目を落としたまま。

「——ガセイ。お前は」

 将校の一人が書類をめくった。

「ガセイ家か。聞いたことはある。……ああ、あの辺りの中流やな」

 将校の口調には、値踏みが混じっていた。荷物の重さを量るような声だった。

「まあ、使い走りにはなるだろう」

 笑い声。将校たちの笑い声。若い男——若いガセイは、頭を下げたまま動かなかった。唇を噛んでいた。唇の端が切れて、血が滲んでいた。

 映像が変わった。

 ——軍の営舎。夜。若いガセイがベッドの端に座っている。軍靴を磨いている。自分のではない。上官の靴だった。三足。毎晩、磨く。それが中流出身の新兵に割り当てられた仕事だった。

 隣のベッドでは、上位貴族の息子が寝ている。靴を磨く必要がない。最初から磨いてもらえる身分だった。

 若いガセイの手が止まった。靴の表面に映った自分の顔を見ていた。歪んだ顔。靴の革が曲がっているから歪んでいるのか、自分の顔が歪んでいるのか、わからない。

 映像が変わった。

 ——昼の訓練場。隊列の中にガセイがいる。将校が前を歩いている。

「——ガセイ。お前、昨日の報告書、字が汚い。書き直せ」

「はい」

「それと、今夜の宴席の準備もお前がやれ。上の者が酒を飲む場を整えるのも、お前の仕事や」

「はい」

 隣の兵士が小声で笑った。「おい、また使い走りか」。ガセイは聞こえていないふりをした。拳が、身体の横で握られていた。

 映像が変わった。

 ——退役の日。三十年の軍歴の後。退役証書を受け取るガセイの手。もう若くない。手の甲に皺が走っている。将校はいない。末端の事務官が、窓口でそっけなく証書を渡しただけだった。

 ガセイは営舎を出た。門を振り返った。三十年。三十年間、頭を下げ続けた場所。門の向こうに、何も残っていなかった。出迎える人間は、誰もいなかった。

 映像が変わった。

 ——退役後。温もり処の帳簿をめくっている。番号が並んでいる。101。102。103。番号の横に、金額が書かれている。

 ガセイの手が帳簿の上で止まった。

 この帳簿を開くとき、初めて——生まれて初めて——誰にも頭を下げなくてよかった。この場所では、自分が一番上だった。自分が決めて、自分が命じて、自分に頭を下げる人間がいた。

 帳簿を閉じた。窓の外を見た。

 窓の向こうに、坂道がある。坂の上に、明かりが灯っている建物がある。小さな看板。文字は読めない。

 建物の中から、笑い声が聞こえてくる。

 男は窓際に立った。暗い部屋の中から、明るい建物を見ていた。

 建物の入口に、若い男が立っていた。客を送り出している。笑っている。隣に大きなドワーフの若者がいて、膝を叩いている。ぱん。ぱん。猫の耳をした少女が手を振っている。

 窓際の男の手が、窓枠を握っていた。爪が白かった。

 あの若い男は二十歳だ。二十歳で、店を開いて、仲間がいて、客に慕われて、毎晩笑っている。

 自分が二十歳のとき何をしていたか。上官の靴を磨いていた。

 その目に映っていたのは、憎悪ではなかった。

 ——あいつらには、あれがある。俺には、ない。俺は三十年かけて、一度も手に入れられんかった。

 映像が消えた。


 ✱ ✱ ✱


 サエルの目に涙が溢れていた。

 自分の涙ではなかった。ガセイの孤独が、涙として溢れていた。

 こめかみが限界を超えていた。視界が白くなっていく。耳鳴りがしていた。手の感覚がなくなっていた。

「——見るな」

 ガセイの声だった。

「見るな!!」

 ガセイの叫び声。内面を晒されたことへの、生涯で最大の怒りだった。

 ガセイが机を蹴った。机が横にずれた。書類が散った。

「お前——お前に、何を見た——」

 サエルの口が動いた。自分の意志で動いたのかどうか、わからなかった。

「……孤独を、見た」

 ガセイの全身が硬直した。

 三秒。

 部屋の外から、声が聞こえた。一階の廊下。扉が開く音。複数の足音。叫び声。温もり処の従業員たちだ——記憶可視化の余波が建物中に広がったのだろう。統制が崩壊している。

 ガセイの目が動いた。サエルから扉へ。扉の向こうの騒音へ。一瞬で計算した顔だった。

 部下は使い物にならない。一人は膝をついたまま頭を抱えている。もう一人は壁に手をついて吐いている。建物中の人間が混乱している。この状態で命令を出しても通らない。

 そして——自分の過去が、この部屋にいた全員に見られた。上官の靴を磨いていた記憶が。窓の外から腹割亭を見つめていた記憶が。

 ガセイの目に、何かが満ちた。怒りか。恥か。恐怖か。全部が混ざった、名前のないものだった。

「——覚えてろ、ロウタ家の小僧。ここで終わりやないからな」

 ガセイが踵を返した。まだ立っていた方の部下の腕を掴んで、引きずるように部屋を出た。

 廊下をガセイの足音が遠ざかっていく。速い。逃げているのではない。態勢を立て直すために、一度退く足音だった。この建物を手放す気はない。ここはガセイの権力の根だ。ただ今この瞬間は、統制が効かない。それだけだった。

 サエルの膝が折れた。床に崩れた。

 こめかみの脈動が止まらなかった。視界が暗くなっていく。

 ——あかん。倒れる。

 ——ガセイが戻ってくる前に、全員を出さなあかん。

 意識の端で、扉が開く音がした。建物の裏口の方角から、足音が近づいてきた。

 重い足音。一つは大きく、もう一つは——もっと重い。

「……サエル」

 ガルドの声だった。

「……ここにおるで。急いでくれ——ガセイが戻る前に、全員出す」

 サエルの声は掠れていた。

 ガルドの手が、サエルの腕を掴んだ。温かかった。荒い手だった。木を削り、石を積み、漆喰を塗ってきた手だった。

「……帰る」

「待って。まだ——セラが——」

「リーラが行っとる。ソルも」

 ガルドがサエルを引き上げた。サエルの体重を、片腕で支えた。ドワーフの腕力だった。

 ガルドの顔は平静だった。暴走の余波が建物中に残っているはずなのに、ガルドには何も起きていない。目は澄んでいた。呼吸も乱れていなかった。

 ——やっぱりそうや。ガルドには、こじ開ける蓋がない。誰かの内面を「ないもの」にしたことがないから。

 廊下を歩いた。サエルの足が何度もふらついた。そのたびにガルドの腕が支えた。

 一階に降りた。廊下に出た。

 扉が——開いていた。

 すべての扉が。

 101。102。103。扉の鍵が外されていた。リーラの手だった。廊下に人が出てきていた。戸惑った顔。怯えた顔。何が起きているのかわからない顔。——でも、暴走に苦しんでいる顔はなかった。この人たちにも、蓋はなかった。痛みを知っている人間に、同じ痛みを二度押しつけるような力ではなかった。

 ソルが廊下の奥に立っていた。胸の光を、廊下全体に向けて明滅させていた。強い光。でも温かい光。「ここにいるよ」ではなく——「こっちだよ」という光だった。ソルにも何も起きていなかった。言葉を持たないソルは、最初から誰の内面も否定したことがなかった。

 ソルの腕に、一人の人間が抱えられていた。歩けない人だった。ソルが慎重に、壊れ物を扱うように、抱えていた。

 廊下の出口に——セラが立っていた。

 白い石を、両手で握りしめていた。

「——サエル、さん」

「……約束通り、来たで」

 サエルの声は掠れていた。ガルドに支えられたまま、真っ直ぐ立てていなかった。

 セラの目から涙が零れた。

「……来て、くれた」

 セラの手が、白い石を胸の前に持った。

 リーラがセラの肩に手を置いた。

「行くわよ。外、出るわよ。——歩ける?」

 セラが頷いた。

 裏口から出た。夜風が吹き込んだ。外の空気が、建物の中の淀みを吹き飛ばした。

 ミーシャが裏口の外に立っていた。温もり処から出てくる人たちを見て、耳が震えていた。

「……サエル、たくさんおる」

「全員、連れて帰る」

「腹割亭に?」

「腹割亭に」

 サエルの膝が、また折れかけた。ガルドが支えた。

「……歩ける?」

「……歩ける。ゆっくりやったら」

 坂道を上った。先頭にリーラ。真ん中にセラと、温もり処から出てきた人々。歩ける人は歩いた。歩けない人はソルが運んだ。最後尾にガルドとサエル。

 ミーシャが列の横を走り回って、一人一人の様子を確認していた。

「あんた、大丈夫? 歩ける? 手、握っとこか?」

 猫の耳が、休みなく動いていた。

 坂の上に、腹割亭の明かりが見えた。

 消したはずの灯りが、一階に灯っていた。


 四

 腹割亭の扉を開けたとき、カウンターの前に人影があった。

 フードを被っていなかった。銀と褐色が縞のように混じった髪が、ランタンの光に照らされている。

 ツキだった。

 ルツィアが、腹割亭にいた。

「——ツキ? どうしたんや、こんな時間に」

 サエルの掠れた声に、ルツィアが振り向いた。

「……扉が、開いていました。誰もいなかったから——鍵をかけようと思って」

 ルツィアの目が、サエルの後ろに広がる光景を見た。温もり処から出てきた人々。泣いている人。座り込んでいる人。ソルに運ばれている人。

 ルツィアの手が、カウンターの端を掴んだ。

「……何が、あったのですか」

「長い話や。——ツキ、お湯を沸かしてくれへんか。みんな、冷えとる」

 ルツィアは一瞬だけ動かなかった。それから頷いて、台所に入った。

 温もり処から来た人たちが、腹割亭の中に入った。一階の客席に座る人。床に座り込む人。壁際にしゃがみ込む人。

 セラがサエルの隣に立っていた。周りを見回していた。

「……ここが」

「ああ。腹割亭や」

 セラの手が、まだ白い石を握っていた。

 リーラが毛布を二階から運んできた。ミーシャが椀に白湯を注いで配った。ガルドが椅子を並べ直した。ソルが入口の横に立って、胸の光を安定したリズムで明滅させていた。いつもより明るかった。「ここは大丈夫だよ」という光だった。

 ルツィアが台所からやかんを持ってきた。白湯を注ぐ手が、少しだけ震えていた。でも止めなかった。一杯、また一杯。

「……温かい、です」

 白湯を受け取った人が言った。

 ルツィアの手が止まった。

「……温かいです」と同じ言葉を、ルツィア自身がこの店で初めて口にした夜のことを、サエルは覚えていた。生姜湯を両手で包んで、「温かい」と独り言のように言ったあの夜。

 ルツィアも覚えていたのだろう。やかんを置いて、一瞬だけ目を閉じた。

 それから、次の椀を注いだ。


 ✱ ✱ ✱


 明け方近く。

 温もり処から来た人たちの大半は、毛布にくるまって眠っていた。床に、椅子に、テーブルの下に。

 セラはカウンターの端に座っていた。眠っていなかった。手の中の白い石を、親指でなぞっていた。

 サエルはカウンターの向こうに座っていた。身体が重い。こめかみの痛みは鈍くなっていたが、手の震えが止まらなかった。

「セラ」

「はい」

「バーネーム、決めてくれるか」

 セラが顔を上げた。

「……バーネーム」

「ここの決まりや。本名の代わりの名前。ここではみんなバーネームで呼び合う。身分も過去も——」

「——関係ない」

 セラが言った。サエルの言葉を引き取って。

「……聞いてたん?」

「あの夜、サエルさんが話してくれました。ここには名前がある、と」

 セラは白い石を見つめた。

「……ユリ」

「ユリ?」

「百合の花が好きでした。母が庭に植えていて。白くて、強くて。風が吹いても折れない花」

 サエルは頷いた。

「ユリやな。ようこそ、腹割亭へ」

 ユリの——セラの目から、また涙が零れた。

 でも今度の涙は、温もり処で見た涙とは違っていた。

 五

 人々が眠った後、サエルはカウンターに一人で残っていた。

 ガルドとミーシャとソルは二階に上がった。リーラは温もり処から来た人たちの様子を最後まで見てから、二階に上がっていった。ユリも、リーラに連れられて二階に上がった。

 ルツィアだけが、まだ台所にいた。やかんを洗っていた。

「ツキ。もうええで。帰り——」

 サエルは言いかけて、止まった。ルツィアが帰る場所を、サエルは知らなかった。腹割亭に通い始めてから、ルツィアがどこに住んでいるのか、一度も訊いていなかった。

 ——訊いたら、来なくなる。そう思って訊かなかった。

 ルツィアがやかんを置いた。

 台所からカウンターへ出てきた。サエルの正面に立った。フードのない顔。銀と褐色の髪。琥珀と灰色の瞳。

「……サエルさん」

 ルツィアの声が、いつもより少しだけ大きかった。

「ん」

「あたしは——住む場所が、ありません」

 サエルは黙って聞いた。

「路地裏の空き家に入っていました。誰も使っていなかったから。でも昨日——持ち主が来て。あたしの顔を見て」

 ルツィアの声が、硬くなった。

「『混じりものが勝手に住みよって。出ていけ』と」

 サエルは黙って聞いた。

 ——混血。エルフとドワーフの血が混じっているから。それだけで、空き家にすら住めん。

「今夜、行く場所がなくて——腹割亭に来ました。扉が開いていたから」

 ルツィアの手が、身体の前で握られていた。手の甲が白い。

「あたしは——ここに、いてもいいですか」

 サエルはカウンターから手を離した。

「ここはお前の店やで、ツキ」

 ルツィアの肩が、ほんの少し下がった。力が抜けたのだ。

「……二階に、空き部屋がある。ミーシャの隣や。布団はリーラに借りれるやろ。明日、ガルドに棚をつけてもらう」

 ルツィアは動かなかった。しばらく。

 それから、小さく頭を下げた。

「……ありがとう、ございます」

「礼はいらん。——ツキ、一つだけ訊いてええか」

「……はい」

「お前、なんでフードを外したんや。あの夜」

 ルツィアが目を伏せた。

「……ミーシャさんが、月みたいと言ったから」

「それだけか?」

「……ここでは、誰も石を投げなかったから」

 ルツィアが階段を上がっていった。足音が小さかった。

 サエルは一人になった。


 ✱ ✱ ✱


 視界の端に、光が見えた。

 振り返った。

 白く淡く光る人影が、カウンターの向こう——いつもの場所に立っていた。割烹着。湯呑み。

 ヨシエだった。

「——ほんまに、無茶しよったな」

「……ヨシエさん」

「約束したやんか。仲間に頼りや、って。足元おぼつかんようになったら戻りや、って」

「……仲間には頼りました」

「足元はおぼつかんかったやろ」

「……はい」

 ヨシエが湯呑みの湯気を吹いた。

「あんた、あの男の記憶を見たやろ」

 サエルの手が、膝の上で握られた。

「……見ました」

「何が見えた」

「……孤独が」

 ヨシエが湯呑みをカウンターに置いた。

「あんたな。あの男のことを、ただの悪い奴やと思うとったやろ。最初は」

「……思うとりました」

「ほんで、孤独を見て、どう思った」

 サエルは目を閉じた。

「……あの人も、居場所がなかったんや、と。でも——」

「でも?」

「——だからといって、人を踏みつけていい理由にはならん」

 ヨシエが頷いた。

「そうや。それでええ。あの男にも背景がある。でも背景があるから許されるわけやない。——あんた、それがわかるから、あんたでよかったんや」

 サエルは顔を上げた。

「……それと、ヨシエさん」

「ん?」

「今夜、温もり処から出てきた人たちの中に——あそこで、客の相手をさせられとった人がおった。名前を奪われて、番号で呼ばれて。身体を使わされて」

 サエルの手が、カウンターの木目をなぞった。リーラの指が辿ったのと同じ木目を。

「あの人たちが、ここで暮らすようになったとして。あの人たちの……傷は、俺には治せへん。身体の傷は治癒魔法でどうにかなるかもしれん。でも、心の傷は——」

 ヨシエが湯呑みを持ち上げた。

「あんたに全部は治せへん。そりゃそうや。あんたは魔法使いやない。支援者や」

「……はい」

「でもな。支援者にしかできんこともあるんやで」

「何ですか」

「場所を作ることや。安心して傷を開けられる場所。名前で呼んでもらえる場所。——あんた、もうそれを作っとるやないか」

 ヨシエが笑った。

「あんたな。あの温もり処でやっとったこと——身体を売らせとったこと。あれの反対を、ここでやりや」

「反対?」

「あそこでは、名前を奪って、身体を道具にした。ほな、ここでは——名前を返して、身体を人間に戻す場所を作ったらどうや」

 サエルは黙った。

 ヨシエの言葉が、頭の中で形を取り始めていた。

 ——名前を返す。身体を人間に戻す。

 ——温もり処の反対。搾取ではなく、回復。身体を使われる場所ではなく、身体を取り戻す場所。

 ——邂逅。出会い直すこと。自分の身体と、もう一度出会い直す場所。

 言葉にはならなかった。まだ、輪郭だけだった。でも、何かが芽を出そうとしていた。

 ヨシエの姿が薄くなっていった。

「——夜が明けるで」

 声だけが残った。

「あんた、また倒れかけとったやろ。今日は寝ぇ。明日からまた忙しくなる。あの子ら全員の飯、誰が作るんや」

 声が消えた。

 カウンターの上に、湯呑みの跡の水滴が残っていた。

 サエルは窓の外を見た。

 東の空が、ほんの少しだけ白んでいた。

 一階の床に、温もり処から来た人たちが眠っている。毛布にくるまって、名前のない人たち。番号で呼ばれていた人たち。

 明日から、一人一人に訊く。バーネームを。

 ——「お前の名前は、なんや?」

 空が白んでいく。夜が明ける。

 腹割亭の扉は、開いたままだった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます! まっとんです。


上・中・下の三部構成、これにて完結です。第一部の山場にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


お気づきの方もいるかもしれませんが、上と中は「闇をすませば」、下だけ「夜明けの戸締まり」とタイトルが変わっています。これは意図的なものです。上・中は闇の中に踏み込み、闇をやり過ごす物語。下は闇を抜けた先——扉を開けて、夜明けを迎える物語です。同じ夜の話ですが、「耐える時間」と「動く時間」は違う。その切り替わりを、タイトルでも示したかったのです。


この章で最も書きたかったのは、ガセイの記憶です。上官の靴を毎晩三足磨いていた若い兵士。三十年間頭を下げ続けて、退役の日に誰も迎えに来なかった男。そして暗い窓から、腹割亭の明かりを見つめていた目。サエルが【共感把握】の暴走で見たのは「憎悪」ではなく「孤独」でした。加害者にも背景がある——でも、背景があるから許されるわけではない。その両方を書きたかった。


ガルドやソルが暴走の影響を受けなかった場面も、まっとんにとって大切なシーンでした。「この人間には内面がない」と決めつけてきた側にだけ、その内面が突きつけられる。誰かの痛みを見ないようにしてきた人間にだけ、蓋がこじ開けられる。逆に言えば、最初から誰の内面も否定しなかった人間には、こじ開けられる蓋がない。ガルドがそうであるように。


福祉の現場では、虐待的な施設を閉鎖した後の「行き先の問題」が常につきまといます。居場所を壊しただけでは支援にならない。次の居場所を作らなければ、壊したことが新しい苦しみを生む。この問いは次章以降で正面から扱います。


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それでは、次回もお楽しみに!

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