第7話 怠惰の砂時計【後編】―動かない心の終着点―
朝、目覚ましの音が鳴らなくなってから、どれくらい経つだろう。
時計の針は止まっているのに、時間だけが流れている気がした。
外は晴れている。
カーテンの隙間から光が差し込む。
それでも、起き上がる気にはなれなかった。
机の上の《怠惰の砂時計》が、金色に輝いている。
昨日も、そしておそらく今日も、砂は落ち続けていた。
◇
会社からの電話は、もう出ていない。
着信履歴がいくつも並んでいる。
「心配している」「一度話そう」「戻ってこい」
どの言葉も、意味をなさなかった。
電話の音が鳴っても、心が動かない。
応答という行為自体が、もはや面倒だった。
食事も、睡眠も、呼吸すら惰性で続けている。
それでも、不思議と苦しくはなかった。
砂時計の音が、鼓動の代わりになっている。
“さらさら、さらさら”
その音が止まらない限り、世界は平穏だ。
◇
数週間後、ポストに封筒が届いていた。
会社からの退職通知。
開封する気にもならず、机の隅に置いた。
家賃の支払いが滞り、光熱費の督促も増えていた。
それでも、何も感じなかった。
やがて部屋を追い出され、
俺は砂時計だけをポケットに入れて外に出た。
夜の街は冷たく、コンビニの明かりが遠かった。
働こうという気持ちはもうなかった。
だが、不思議と“生きよう”という本能だけは残っていた。
砂時計を逆さにする。
金の砂が流れ始めると、体が少し軽くなる。
疲労も空腹も、ほんの少しだけ遠のいた。
(……これでいい。)
◇
それから、河川敷の生活が始まった。
拾った段ボールを屋根代わりに、
濡れたベンチを寝床にする。
朝になると、川沿いのゴミ袋を漁る。
ペットボトル、空き缶、食べ残し。
鼻を刺すような臭いがする。
中には、黒いカビの浮いたパンや、
ぬるくなった総菜の残りが混ざっている。
指先でつまみ、口に運ぶ。
酸味と腐敗が舌に広がる。
吐き出すこともできず、ゆっくりと飲み込む。
喉を通る冷たさと重さが、
“まだ生きている”という確かな実感になった。
通りすがりの人々が、
汚れた服と髪を見て眉をひそめる。
それでも、俺は視線を返さない。
恥ずかしいとも思わなかった。
胸ポケットの中で、砂時計がかすかに鳴っている。
その音があれば、
どんな目で見られようと、何も感じなかった。
◇
日が暮れると、川の水面が鈍く光る。
拾い集めた空き缶を袋に詰め、
リサイクル所に運んで小銭を受け取る。
その金で安い缶コーヒーを買い、
冷えた指先で缶を包む。
一口飲む。
苦味と砂の音が重なり、
世界がかすかに“動いた気がした”。
(動かなくても、生きていけるんだな。)
そう思うと、笑いが漏れた。
自分でも、その声が自分のものだとは思えなかった。
◇
ある日、通りすがりの少年が言った。
「おじさん、いつも同じ時間にいるね。」
俺は答えなかった。
ただ、砂時計を握りしめる。
金の砂が指の熱に反応して、
小さく、規則的に流れ始める。
(人は生きるために働く。
でも俺は、働かないために生きている。)
そう思った瞬間、
胸の奥の何かが静かに音を立てて消えた。
◇
夜。
砂時計を逆さにすると、体が温まる。
川沿いのベンチで目を閉じると、
雨の音と砂の音が混ざって、同じリズムになった。
どれだけ時間が経っても、眠気も寒さもやってこない。
ただ、穏やかな“休息”だけが続いていた。
◇
外に出なくなっていた頃のことを、時々思い出す。
あの頃も、今も、やっていることは変わらない。
ただ“何も考えずに過ごす”だけ。
違うのは、もう誰も俺を見ていないということだ。
それが、不思議なほど心地よかった。
◇
夜明け。
川沿いの空気が冷たい。
ポケットの中の砂時計を取り出し、空を見上げた。
金の粒が朝日を受けて輝いている。
(……これでいい。何も失っていない。
何も得なくても、苦しくない。)
微笑みながら、砂時計をまた逆さにした。
音が静かに流れ始める。
“さらさら、さらさら”
世界が、その音に合わせて呼吸しているようだった。
◇
……雨の音が、店の中に流れ込む。
棚の上で《怠惰の砂時計》が静かに光を放っていた。
店主は指先でそれを持ち上げ、しばらく眺めていた。
金色の砂が、ゆっくりと動いている。
「努力をやめることは、罪ではありません。
けれど――動かなくなることを、安らぎと呼ぶのなら。」
短く息を吐く。
「それは、“生きることをやめた心”でしょうね。」
店主は静かに砂時計を棚に戻した。
その瞬間、砂の流れが一瞬だけ止まった。
外では、また雨が降っている。
路地の奥、ひとりの人影が看板を見上げた。
「クロノス」
扉の前で立ち止まったまま、しばらく動かない。
まるで、砂が落ちるのを待つように。
◇
店の中で、時計の針がひとつ、音を立てた。
その音が、まだわずかに動いている心の音のように響いた。
――怠惰の砂は、今日も静かに流れ続けている。




