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第7話 怠惰の砂時計【後編】―動かない心の終着点―


朝、目覚ましの音が鳴らなくなってから、どれくらい経つだろう。

時計の針は止まっているのに、時間だけが流れている気がした。


外は晴れている。

カーテンの隙間から光が差し込む。

それでも、起き上がる気にはなれなかった。


机の上の《怠惰の砂時計》が、金色に輝いている。

昨日も、そしておそらく今日も、砂は落ち続けていた。



会社からの電話は、もう出ていない。

着信履歴がいくつも並んでいる。

「心配している」「一度話そう」「戻ってこい」

どの言葉も、意味をなさなかった。


電話の音が鳴っても、心が動かない。

応答という行為自体が、もはや面倒だった。


食事も、睡眠も、呼吸すら惰性で続けている。

それでも、不思議と苦しくはなかった。


砂時計の音が、鼓動の代わりになっている。

“さらさら、さらさら”

その音が止まらない限り、世界は平穏だ。



数週間後、ポストに封筒が届いていた。

会社からの退職通知。

開封する気にもならず、机の隅に置いた。


家賃の支払いが滞り、光熱費の督促も増えていた。

それでも、何も感じなかった。

やがて部屋を追い出され、

俺は砂時計だけをポケットに入れて外に出た。


夜の街は冷たく、コンビニの明かりが遠かった。

働こうという気持ちはもうなかった。

だが、不思議と“生きよう”という本能だけは残っていた。


砂時計を逆さにする。

金の砂が流れ始めると、体が少し軽くなる。

疲労も空腹も、ほんの少しだけ遠のいた。


(……これでいい。)



それから、河川敷の生活が始まった。

拾った段ボールを屋根代わりに、

濡れたベンチを寝床にする。


朝になると、川沿いのゴミ袋を漁る。

ペットボトル、空き缶、食べ残し。

鼻を刺すような臭いがする。

中には、黒いカビの浮いたパンや、

ぬるくなった総菜の残りが混ざっている。


指先でつまみ、口に運ぶ。

酸味と腐敗が舌に広がる。

吐き出すこともできず、ゆっくりと飲み込む。

喉を通る冷たさと重さが、

“まだ生きている”という確かな実感になった。


通りすがりの人々が、

汚れた服と髪を見て眉をひそめる。

それでも、俺は視線を返さない。

恥ずかしいとも思わなかった。


胸ポケットの中で、砂時計がかすかに鳴っている。

その音があれば、

どんな目で見られようと、何も感じなかった。



日が暮れると、川の水面が鈍く光る。

拾い集めた空き缶を袋に詰め、

リサイクル所に運んで小銭を受け取る。

その金で安い缶コーヒーを買い、

冷えた指先で缶を包む。


一口飲む。

苦味と砂の音が重なり、

世界がかすかに“動いた気がした”。


(動かなくても、生きていけるんだな。)


そう思うと、笑いが漏れた。

自分でも、その声が自分のものだとは思えなかった。



ある日、通りすがりの少年が言った。

「おじさん、いつも同じ時間にいるね。」


俺は答えなかった。

ただ、砂時計を握りしめる。

金の砂が指の熱に反応して、

小さく、規則的に流れ始める。


(人は生きるために働く。

 でも俺は、働かないために生きている。)


そう思った瞬間、

胸の奥の何かが静かに音を立てて消えた。



夜。

砂時計を逆さにすると、体が温まる。

川沿いのベンチで目を閉じると、

雨の音と砂の音が混ざって、同じリズムになった。


どれだけ時間が経っても、眠気も寒さもやってこない。

ただ、穏やかな“休息”だけが続いていた。



外に出なくなっていた頃のことを、時々思い出す。

あの頃も、今も、やっていることは変わらない。

ただ“何も考えずに過ごす”だけ。

違うのは、もう誰も俺を見ていないということだ。


それが、不思議なほど心地よかった。



夜明け。

川沿いの空気が冷たい。

ポケットの中の砂時計を取り出し、空を見上げた。

金の粒が朝日を受けて輝いている。


(……これでいい。何も失っていない。

 何も得なくても、苦しくない。)


微笑みながら、砂時計をまた逆さにした。

音が静かに流れ始める。

“さらさら、さらさら”


世界が、その音に合わせて呼吸しているようだった。



……雨の音が、店の中に流れ込む。

棚の上で《怠惰の砂時計》が静かに光を放っていた。


店主は指先でそれを持ち上げ、しばらく眺めていた。

金色の砂が、ゆっくりと動いている。


「努力をやめることは、罪ではありません。

 けれど――動かなくなることを、安らぎと呼ぶのなら。」


短く息を吐く。


「それは、“生きることをやめた心”でしょうね。」


店主は静かに砂時計を棚に戻した。

その瞬間、砂の流れが一瞬だけ止まった。


外では、また雨が降っている。

路地の奥、ひとりの人影が看板を見上げた。


「クロノス」


扉の前で立ち止まったまま、しばらく動かない。

まるで、砂が落ちるのを待つように。



店の中で、時計の針がひとつ、音を立てた。

その音が、まだわずかに動いている心の音のように響いた。


――怠惰の砂は、今日も静かに流れ続けている。


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