表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/38

第7話 怠惰の砂時計【中編】―止まらない休息―


朝、目が覚めても眠っているようだった。

頭の奥が霞がかって、夢と現実の境目が曖昧だ。

それでも体は軽く、眠気も疲労もなかった。


机の上の《怠惰の砂時計》が、淡い光を放っている。

昨日、逆さにしたはずの砂が、また満ちていた。


(……補充された?)


そんな馬鹿なと思いつつも、確かに砂は増えていた。

それが不思議というより、“当然のこと”のように感じた。

なぜか、何も考えなくても分かる気がした。


俺は砂時計を一度だけ見つめてから、出社した。



会社に着くと、誰もが驚いた顔をした。


「柏木、お前ほんとにすごいよな。どんどん数字出してくるじゃん。」

「資料のまとめ方も完璧だし、どうしたんだよ。」


褒められても実感がなかった。

自分が努力した記憶がない。

けれど、結果は確かに残っている。


頭の中が妙に静かで、無駄な思考がない。

必要な言葉だけが、自然と出てくる。

感情が削ぎ落とされて、作業が楽になった。


――考えない。

――悩まない。

――疲れない。


それだけで、世界が驚くほど簡単になった。



夜、部屋に戻る。

砂時計を机に置き、ぼんやりと見つめた。

金の砂は、ゆっくりと落ちていく。


それを見るだけで、全身の力が抜けていった。

頭の中が空っぽになる。

何もかも、どうでもよくなっていく。


(これが……休むってことか。)


知らないうちに笑っていた。

久しく感じなかった“穏やかさ”が胸の中に満ちていく。



数日後。

俺は驚くほど順調だった。


プレゼンは通り、営業成績は社内トップ。

周囲の評価はうなぎ登りだった。

上司からも「来期の主任候補」と言われた。


けれど、嬉しくなかった。


笑顔を作ろうとしても、顔の筋肉が動かない。

心の底で、何かが冷めていた。


成功しても、失敗しても、感情が動かない。

砂時計の砂が流れる音だけが、唯一のリズムになっていた。



翌日、いつもと違うことを試した。

“砂時計を使わないで”仕事に出てみたのだ。


久々に体が重く、頭の中がざわつく。

ちょっとした言葉に苛立ち、ミスが続いた。

プレゼン中、声が裏返り、資料の数字を間違えた。


「柏木、今日はどうした? 調子悪いな。」

「お前らしくないぞ、しっかりしろ。」


周囲の声が痛かった。

脳が熱を持つように重く、息が詰まる。


昼休みにトイレに籠もり、鏡を見つめる。

顔色が悪く、目の下にクマができていた。

胸のポケットの中――そこに砂時計が“ない”ことに気づく。


(……そうか、あれがないからだ。)


喉が渇く。

水を飲んでも渇きは癒えない。


机に戻っても、頭の中がうるさくて集中できない。

声、足音、電話のベル。

全ての音が神経を刺す。


“さらさら、さらさら”――あの音がない。


(これが現実なのか?)


帰り道、胸の奥がずっとざらついていた。

そして部屋に戻るなり、真っ先に砂時計を手に取った。


光が、金色の線を描いて指を包む。

瞬間、頭の中のざわめきが消える。


(……ああ、やっと戻った。)


胸の奥が、じんわりと温かくなった。

まるで、止まっていた歯車が再び動き出したような感覚。

息を吐くと、世界の輪郭がゆっくりと戻ってくる。


(努力なんて、もういらない。才能も、情熱も。)

(これで正しいんだ。これでいいんだ。)


自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返した。

そうしないと、また壊れてしまいそうだった。


“さらさら、さらさら”


その音が静かに響く。

それはまるで、何かに屈していく音のようだった。

けれど――不思議と、心地よかった。



ある日の昼休み、後輩が声をかけてきた。


「柏木さん、最近すごいですね! どうやったらそんなにうまくいくんですか?」


俺は少し考えてから答えた。


「……何も考えないことだ。」


「え?」


「余計なことを考えなければ、間違えない。」


後輩は笑っていたが、俺は本気だった。



その日から、周囲の声が遠ざかっていった。

同僚の笑い声、上司の指示、取引先との会話――

どれも薄い膜の向こう側にあるように感じる。


代わりに、頭の奥で砂の音が絶えず響いていた。

“さらさら、さらさら”

それが心地よくて、静かで、眠りのようだった。



夜。

砂時計を逆さにした瞬間、強い眠気が襲ってきた。

ベッドにも入らず、椅子に腰を下ろしたまま目を閉じる。


夢を見た。


会社の会議室。

同僚たちが笑っている。

俺はその中にいるのに、誰も俺を見ていない。


時計の針が逆回転を始めた。

金色の砂が空へ吸い上げられていく。

時間が巻き戻るように、音が遠のいていく。


(これが、俺の“怠惰”か……)


目を開けると、朝だった。

机の上の資料が、完成していた。



日を追うごとに、生活は静かになっていった。

テレビをつけても、音が入ってこない。

音楽を聴いても、感情が動かない。


「感情なんて、必要ないのかもしれない。」


呟いた言葉が、妙にしっくりきた。



そんなある日、同期の村上が家を訪ねてきた。

心配そうな顔をしている。


「柏木、お前……最近おかしいぞ。顔色も悪いし、目が死んでる。」


「そうか?」


「そうだよ。昔はもっと熱くて、バカみたいに真面目だったじゃないか。」


(ああ、そんな時期もあったな……)


「頼むから休め。会社だって誰かに頼めば――」


「休んでるよ。」


村上は一瞬、言葉を失った。

そして机の上の砂時計を見つけた。


「……それ、何だ?」


俺は答えなかった。

ただ砂が落ちていくのを見つめていた。


村上の声が遠くなっていく。

何を言っているのか分からない。

ただ、金の砂が落ちる音だけが響いていた。


気づけば、彼は帰っていた。



静寂。

部屋の中に、砂の音だけが残る。


金の粒がひとつ、またひとつと落ちていくたびに、

頭の中の“何か”が削れていく。


努力も、焦りも、後悔も――

すべてが心地よく消えていく。


もう、何も感じない。

ただ、静かに息をしているだけでいい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ