第7話 怠惰の砂時計【中編】―止まらない休息―
朝、目が覚めても眠っているようだった。
頭の奥が霞がかって、夢と現実の境目が曖昧だ。
それでも体は軽く、眠気も疲労もなかった。
机の上の《怠惰の砂時計》が、淡い光を放っている。
昨日、逆さにしたはずの砂が、また満ちていた。
(……補充された?)
そんな馬鹿なと思いつつも、確かに砂は増えていた。
それが不思議というより、“当然のこと”のように感じた。
なぜか、何も考えなくても分かる気がした。
俺は砂時計を一度だけ見つめてから、出社した。
◇
会社に着くと、誰もが驚いた顔をした。
「柏木、お前ほんとにすごいよな。どんどん数字出してくるじゃん。」
「資料のまとめ方も完璧だし、どうしたんだよ。」
褒められても実感がなかった。
自分が努力した記憶がない。
けれど、結果は確かに残っている。
頭の中が妙に静かで、無駄な思考がない。
必要な言葉だけが、自然と出てくる。
感情が削ぎ落とされて、作業が楽になった。
――考えない。
――悩まない。
――疲れない。
それだけで、世界が驚くほど簡単になった。
◇
夜、部屋に戻る。
砂時計を机に置き、ぼんやりと見つめた。
金の砂は、ゆっくりと落ちていく。
それを見るだけで、全身の力が抜けていった。
頭の中が空っぽになる。
何もかも、どうでもよくなっていく。
(これが……休むってことか。)
知らないうちに笑っていた。
久しく感じなかった“穏やかさ”が胸の中に満ちていく。
◇
数日後。
俺は驚くほど順調だった。
プレゼンは通り、営業成績は社内トップ。
周囲の評価はうなぎ登りだった。
上司からも「来期の主任候補」と言われた。
けれど、嬉しくなかった。
笑顔を作ろうとしても、顔の筋肉が動かない。
心の底で、何かが冷めていた。
成功しても、失敗しても、感情が動かない。
砂時計の砂が流れる音だけが、唯一のリズムになっていた。
◇
翌日、いつもと違うことを試した。
“砂時計を使わないで”仕事に出てみたのだ。
久々に体が重く、頭の中がざわつく。
ちょっとした言葉に苛立ち、ミスが続いた。
プレゼン中、声が裏返り、資料の数字を間違えた。
「柏木、今日はどうした? 調子悪いな。」
「お前らしくないぞ、しっかりしろ。」
周囲の声が痛かった。
脳が熱を持つように重く、息が詰まる。
昼休みにトイレに籠もり、鏡を見つめる。
顔色が悪く、目の下にクマができていた。
胸のポケットの中――そこに砂時計が“ない”ことに気づく。
(……そうか、あれがないからだ。)
喉が渇く。
水を飲んでも渇きは癒えない。
机に戻っても、頭の中がうるさくて集中できない。
声、足音、電話のベル。
全ての音が神経を刺す。
“さらさら、さらさら”――あの音がない。
(これが現実なのか?)
帰り道、胸の奥がずっとざらついていた。
そして部屋に戻るなり、真っ先に砂時計を手に取った。
光が、金色の線を描いて指を包む。
瞬間、頭の中のざわめきが消える。
(……ああ、やっと戻った。)
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
まるで、止まっていた歯車が再び動き出したような感覚。
息を吐くと、世界の輪郭がゆっくりと戻ってくる。
(努力なんて、もういらない。才能も、情熱も。)
(これで正しいんだ。これでいいんだ。)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返した。
そうしないと、また壊れてしまいそうだった。
“さらさら、さらさら”
その音が静かに響く。
それはまるで、何かに屈していく音のようだった。
けれど――不思議と、心地よかった。
◇
ある日の昼休み、後輩が声をかけてきた。
「柏木さん、最近すごいですね! どうやったらそんなにうまくいくんですか?」
俺は少し考えてから答えた。
「……何も考えないことだ。」
「え?」
「余計なことを考えなければ、間違えない。」
後輩は笑っていたが、俺は本気だった。
◇
その日から、周囲の声が遠ざかっていった。
同僚の笑い声、上司の指示、取引先との会話――
どれも薄い膜の向こう側にあるように感じる。
代わりに、頭の奥で砂の音が絶えず響いていた。
“さらさら、さらさら”
それが心地よくて、静かで、眠りのようだった。
◇
夜。
砂時計を逆さにした瞬間、強い眠気が襲ってきた。
ベッドにも入らず、椅子に腰を下ろしたまま目を閉じる。
夢を見た。
会社の会議室。
同僚たちが笑っている。
俺はその中にいるのに、誰も俺を見ていない。
時計の針が逆回転を始めた。
金色の砂が空へ吸い上げられていく。
時間が巻き戻るように、音が遠のいていく。
(これが、俺の“怠惰”か……)
目を開けると、朝だった。
机の上の資料が、完成していた。
◇
日を追うごとに、生活は静かになっていった。
テレビをつけても、音が入ってこない。
音楽を聴いても、感情が動かない。
「感情なんて、必要ないのかもしれない。」
呟いた言葉が、妙にしっくりきた。
◇
そんなある日、同期の村上が家を訪ねてきた。
心配そうな顔をしている。
「柏木、お前……最近おかしいぞ。顔色も悪いし、目が死んでる。」
「そうか?」
「そうだよ。昔はもっと熱くて、バカみたいに真面目だったじゃないか。」
(ああ、そんな時期もあったな……)
「頼むから休め。会社だって誰かに頼めば――」
「休んでるよ。」
村上は一瞬、言葉を失った。
そして机の上の砂時計を見つけた。
「……それ、何だ?」
俺は答えなかった。
ただ砂が落ちていくのを見つめていた。
村上の声が遠くなっていく。
何を言っているのか分からない。
ただ、金の砂が落ちる音だけが響いていた。
気づけば、彼は帰っていた。
◇
静寂。
部屋の中に、砂の音だけが残る。
金の粒がひとつ、またひとつと落ちていくたびに、
頭の中の“何か”が削れていく。
努力も、焦りも、後悔も――
すべてが心地よく消えていく。
もう、何も感じない。
ただ、静かに息をしているだけでいい。




