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第5話 他視の眼鏡【前編】―見られる幸福―


雨が降っていた。

冷たい粒が頬を打ち、化粧をじわじわと崩していく。

傘を差しても無駄だった。湿気が髪を重くし、ヒールが水たまりを踏むたびに、水音が心の奥へ染みこんでいく。


神崎理沙かんざき・りさ、二十三歳。

ファッション誌やSNSで活動するモデル。

撮影本数は多いほうだが、名前で呼ばれることはほとんどない。

業界では、誰かの“次点”であり続ける存在だった。


今日も撮影が終わり、楽屋で鏡を覗く。

濡れた髪、少し崩れたファンデーション。

鏡の中の顔は整っている。

けれど、どこか“映えない”気がした。


(何が足りないんだろう……)


SNSでは別のモデルが話題をさらい、コメント欄には“理沙、最近印象薄いね”と書かれていた。

それを見た瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。

「綺麗」と言われたい。

「憧れる」と言われたい。

けれど、言葉は画面の向こうから返ってこない。


(どうして……私は綺麗なのに。)


理沙は鏡に映る自分を見つめた。

頬のラインも、目のバランスも悪くない。

でも、何かが足りない。

あの日、カメラマンに言われた言葉が蘇る。


「神崎さん、綺麗なんだけどさ……なんか、自信なさそうに見えるんだよね。」


それが引っかかっていた。

“自信なさそうに見える”――つまり、私の中身が問題なのか。

努力が報われない理由が、そこにあるのかもしれない。


撮影後の帰り道、雨音に紛れてため息がこぼれる。

ネオンが滲み、街の輪郭がぼやけていく。

傘を持つ手が重く感じられた。



その時、ふと路地の奥に光が揺れた。

古びた木の扉、その上に金属の看板が掛かっている。


「クロノス」


不思議とその文字だけは、雨に濡れても滲まなかった。

どこか懐かしく、呼ばれているような感覚。


気づけば、理沙はその扉に手をかけていた。



扉を押すと、鈍い音と共に冷たい空気が流れ込んだ。

外よりも少し温度が低い。

棚には古い本、ガラス瓶、見慣れない器具が並び、

奥には黒いローブの人物が立っていた。


その顔は影に沈み、性別も年齢も分からない。

ただ、圧倒的な“静けさ”をまとっていた。


「……いらっしゃい。」


低く落ち着いた声。

理沙は、どこか懐かしさを覚えた。


「ここ……何の店ですか。」


問いかけると、ローブの人物は静かに答えた。

「あなたの“望み”を映す店です。」


曖昧な言葉に戸惑いながらも、

口が勝手に動いた。


「……私、どうしても満たされないんです。

 どれだけ努力しても、認めてもらえない。

 綺麗になっても、足りない気がして……」


ローブの奥の瞳がわずかに光った。


「あなたは、“他人の視線”に取り憑かれているのですね。」


理沙は息を呑んだ。図星だった。


「他人の視線……?」

「そう。あなたが信じている美しさは、常に“他人の目”を通したもの。

 本当のあなた自身を、あなたは一度も見たことがない。」


胸の奥に、重いものが沈んだ。

“本当の自分を見たことがない”――それはまるで呪いのような言葉だった。


ローブの人物が、棚から小さな箱を取り出す。

中には曇ったレンズの黒縁眼鏡が入っていた。


「これは《他視たしの眼鏡》。

 他人の視線に映る“あなた自身”を、見ることができます。」


「……それで、私が綺麗に見えるなら?」

「ならば、あなたはそう“信じる”でしょう。」


不思議と、その言葉が心に響いた。

信じたい。

誰かの目に、自分が本当に美しく映っていることを。


理沙は眼鏡を受け取った。

冷たいフレームが指先を撫でる。

レンズ越しに、世界がわずかに揺らいだ。



鏡の前に立つ。

《他視の眼鏡》をかけると、景色が変わった。

鏡の中の“自分”が、微かに光を帯びていた。

姿勢が整い、目が輝き、微笑みが自然。


(……あれ? 私、こんな顔してたっけ?)


理沙は驚いた。

肌の艶も、目の奥の光も、何も変わっていないはずなのに、

そこに映る“他人の目で見た自分”は、自信に満ちていた。


“綺麗”とは、この感覚のことなのか。


「……これが、本当の私?」


小さく呟くと、胸の奥がふっと軽くなった。

鏡の前で背筋を伸ばすと、表情が自然に柔らいだ。



翌朝。

目覚めると、世界の輪郭が少し明るい。

スタジオに向かう途中、見知らぬ人が振り返った。

「……あの人、綺麗。」

誰かのそんな声が聞こえた気がした。


撮影現場で、スタッフがざわついた。

「理沙、今日すごいね。表情が柔らかい。」

「雰囲気がまるで違う。」


理沙は笑った。

何も変えていない。ただ、見方を変えただけ。

けれど、世界の方が変わって見えた。


SNSでも、フォロワーが急増していた。

「理沙ちゃん、最近輝いてる」「見てるだけで元気になる」

コメントを読むたび、胸の奥が温かくなった。


(ああ、これだ……これが、私の生きる意味なんだ。)



夜。

部屋で一人、《他視の眼鏡》をかける。

鏡の中の自分は、完璧だった。

誰かが私を見ている、その視線を感じるたびに、

姿勢が良くなり、声が明るくなる。

自信が美を生み、周囲の視線がそれを裏付ける。


“見られる幸福”が、心の中心に巣食った。


だが同時に、

鏡から眼鏡を外すと、世界が急に灰色に戻る。

鏡の中の自分は、疲れた顔をしていた。

「……本当の私は、どっち?」

問いかけても答えはない。

レンズの奥に映る“他人の目”が、彼女の現実になりつつあった。



数日後、次の撮影。

照明が眩しく、カメラが彼女を追う。

スタッフが「今日の理沙、神がかってる」と囁く。

笑顔でポーズを取るたび、フラッシュが輝き、

その光が彼女の自信をさらに強くする。


撮影の合間、他のモデルが彼女に話しかけた。

「最近、すごいね理沙。何か変わった?」

「……ううん。ちょっと、見方を変えただけ。」


自分でも、その答えにぞくりとした。



夜、スマホを開く。

いいねの数を確認し、コメントを読み漁る。

少しでも減っていると、胸がざわめく。


「見られてないと……私、いなくなるみたい。」


呟いた声が、部屋に響いた。

《他視の眼鏡》のレンズが、暗闇の中で淡く光る。


理沙は笑いながら、その眼鏡を再びかけた。

鏡の中の彼女は、今日も誰かに見られていた。

見られている限り、存在できる。

それが、彼女の“真実”だった。


そしてその夜、雨がまた降り始めた。

ガラスを打つ音が、拍手のように静かに響いていた。


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