第5話 他視の眼鏡【前編】―見られる幸福―
雨が降っていた。
冷たい粒が頬を打ち、化粧をじわじわと崩していく。
傘を差しても無駄だった。湿気が髪を重くし、ヒールが水たまりを踏むたびに、水音が心の奥へ染みこんでいく。
神崎理沙、二十三歳。
ファッション誌やSNSで活動するモデル。
撮影本数は多いほうだが、名前で呼ばれることはほとんどない。
業界では、誰かの“次点”であり続ける存在だった。
今日も撮影が終わり、楽屋で鏡を覗く。
濡れた髪、少し崩れたファンデーション。
鏡の中の顔は整っている。
けれど、どこか“映えない”気がした。
(何が足りないんだろう……)
SNSでは別のモデルが話題をさらい、コメント欄には“理沙、最近印象薄いね”と書かれていた。
それを見た瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
「綺麗」と言われたい。
「憧れる」と言われたい。
けれど、言葉は画面の向こうから返ってこない。
(どうして……私は綺麗なのに。)
理沙は鏡に映る自分を見つめた。
頬のラインも、目のバランスも悪くない。
でも、何かが足りない。
あの日、カメラマンに言われた言葉が蘇る。
「神崎さん、綺麗なんだけどさ……なんか、自信なさそうに見えるんだよね。」
それが引っかかっていた。
“自信なさそうに見える”――つまり、私の中身が問題なのか。
努力が報われない理由が、そこにあるのかもしれない。
撮影後の帰り道、雨音に紛れてため息がこぼれる。
ネオンが滲み、街の輪郭がぼやけていく。
傘を持つ手が重く感じられた。
◇
その時、ふと路地の奥に光が揺れた。
古びた木の扉、その上に金属の看板が掛かっている。
「クロノス」
不思議とその文字だけは、雨に濡れても滲まなかった。
どこか懐かしく、呼ばれているような感覚。
気づけば、理沙はその扉に手をかけていた。
◇
扉を押すと、鈍い音と共に冷たい空気が流れ込んだ。
外よりも少し温度が低い。
棚には古い本、ガラス瓶、見慣れない器具が並び、
奥には黒いローブの人物が立っていた。
その顔は影に沈み、性別も年齢も分からない。
ただ、圧倒的な“静けさ”をまとっていた。
「……いらっしゃい。」
低く落ち着いた声。
理沙は、どこか懐かしさを覚えた。
「ここ……何の店ですか。」
問いかけると、ローブの人物は静かに答えた。
「あなたの“望み”を映す店です。」
曖昧な言葉に戸惑いながらも、
口が勝手に動いた。
「……私、どうしても満たされないんです。
どれだけ努力しても、認めてもらえない。
綺麗になっても、足りない気がして……」
ローブの奥の瞳がわずかに光った。
「あなたは、“他人の視線”に取り憑かれているのですね。」
理沙は息を呑んだ。図星だった。
「他人の視線……?」
「そう。あなたが信じている美しさは、常に“他人の目”を通したもの。
本当のあなた自身を、あなたは一度も見たことがない。」
胸の奥に、重いものが沈んだ。
“本当の自分を見たことがない”――それはまるで呪いのような言葉だった。
ローブの人物が、棚から小さな箱を取り出す。
中には曇ったレンズの黒縁眼鏡が入っていた。
「これは《他視の眼鏡》。
他人の視線に映る“あなた自身”を、見ることができます。」
「……それで、私が綺麗に見えるなら?」
「ならば、あなたはそう“信じる”でしょう。」
不思議と、その言葉が心に響いた。
信じたい。
誰かの目に、自分が本当に美しく映っていることを。
理沙は眼鏡を受け取った。
冷たいフレームが指先を撫でる。
レンズ越しに、世界がわずかに揺らいだ。
◇
鏡の前に立つ。
《他視の眼鏡》をかけると、景色が変わった。
鏡の中の“自分”が、微かに光を帯びていた。
姿勢が整い、目が輝き、微笑みが自然。
(……あれ? 私、こんな顔してたっけ?)
理沙は驚いた。
肌の艶も、目の奥の光も、何も変わっていないはずなのに、
そこに映る“他人の目で見た自分”は、自信に満ちていた。
“綺麗”とは、この感覚のことなのか。
「……これが、本当の私?」
小さく呟くと、胸の奥がふっと軽くなった。
鏡の前で背筋を伸ばすと、表情が自然に柔らいだ。
◇
翌朝。
目覚めると、世界の輪郭が少し明るい。
スタジオに向かう途中、見知らぬ人が振り返った。
「……あの人、綺麗。」
誰かのそんな声が聞こえた気がした。
撮影現場で、スタッフがざわついた。
「理沙、今日すごいね。表情が柔らかい。」
「雰囲気がまるで違う。」
理沙は笑った。
何も変えていない。ただ、見方を変えただけ。
けれど、世界の方が変わって見えた。
SNSでも、フォロワーが急増していた。
「理沙ちゃん、最近輝いてる」「見てるだけで元気になる」
コメントを読むたび、胸の奥が温かくなった。
(ああ、これだ……これが、私の生きる意味なんだ。)
◇
夜。
部屋で一人、《他視の眼鏡》をかける。
鏡の中の自分は、完璧だった。
誰かが私を見ている、その視線を感じるたびに、
姿勢が良くなり、声が明るくなる。
自信が美を生み、周囲の視線がそれを裏付ける。
“見られる幸福”が、心の中心に巣食った。
だが同時に、
鏡から眼鏡を外すと、世界が急に灰色に戻る。
鏡の中の自分は、疲れた顔をしていた。
「……本当の私は、どっち?」
問いかけても答えはない。
レンズの奥に映る“他人の目”が、彼女の現実になりつつあった。
◇
数日後、次の撮影。
照明が眩しく、カメラが彼女を追う。
スタッフが「今日の理沙、神がかってる」と囁く。
笑顔でポーズを取るたび、フラッシュが輝き、
その光が彼女の自信をさらに強くする。
撮影の合間、他のモデルが彼女に話しかけた。
「最近、すごいね理沙。何か変わった?」
「……ううん。ちょっと、見方を変えただけ。」
自分でも、その答えにぞくりとした。
◇
夜、スマホを開く。
いいねの数を確認し、コメントを読み漁る。
少しでも減っていると、胸がざわめく。
「見られてないと……私、いなくなるみたい。」
呟いた声が、部屋に響いた。
《他視の眼鏡》のレンズが、暗闇の中で淡く光る。
理沙は笑いながら、その眼鏡を再びかけた。
鏡の中の彼女は、今日も誰かに見られていた。
見られている限り、存在できる。
それが、彼女の“真実”だった。
そしてその夜、雨がまた降り始めた。
ガラスを打つ音が、拍手のように静かに響いていた。




