第4話 分岐の手鏡【後編】―終わらない選択―
雨上がりの朝、澪は鏡の前に立っていた。
光を映すはずの銀面は、どこか柔らかく波打っており、
まるで水面が息をしているようだった。
指先を伸ばすと、鏡は冷たくも温かくもない、不思議な感触を返した。
覗き込めば、そこには昨夜と同じアトリエが広がっている。
机の上の筆、散らばったチューブ、乾きかけた絵具の匂い。
すべてが懐かしく、そして痛々しい。
だが――
その中に、蓮の姿はなかった。
代わりに、画布の上に描かれかけた絵があった。
それは澪自身。
目を伏せ、泣き出しそうな顔で、
誰かに言葉をかけるように、唇がわずかに開いていた。
「どうして……笑ってくれないの?」
呟いた声は、鏡の中へと溶けるように消えた。
返事はない。
ただ、外の世界で雨が再び降り出した音だけが、
遠くから響いてきた。
◇
それからの時間の流れは、奇妙だった。
アトリエの中の季節が、少しずつ変化していく。
木々の葉が色づき、やがて落ち、
窓の外には冷たい風が吹き込んでくる。
澪は鏡越しに、その変化をただ見つめていた。
何かが変わっていくのを見ているのに、
自分の世界は止まったままのように感じた。
ある夜、ようやく蓮が戻ってきた。
だがその顔には、あの穏やかな笑みがなかった。
疲れ切った目で、彼は筆を握ったまま、
絵の前に立っていた。
「描いても描いても、終わらないんだ。」
声は掠れていた。
「君を描くたびに、何かが違っていく。
どんどん、君が遠ざかっていくんだ。」
澪は鏡の外から、思わず叫んだ。
「私はここにいる! 見てよ、蓮! お願い!」
けれど、彼は顔を上げなかった。
「君はもう、ここにはいないよ。
あの日からずっと。」
その一言で、すべての音が止んだ。
次の瞬間、蓮はアトリエの奥へと消えていった。
残されたのは、未完成の絵と、
その前で揺らぐ鏡面だけだった。
◇
現実の部屋。
静寂の中、澪は目を開けた。
空気は重く、湿っていて、
まるで長い夢の底から戻ってきたような感覚だった。
テーブルの上には、一枚の紙があった。
――離婚届。
見慣れた夫の筆跡。
何度も迷ったように書かれた自分の名前。
ペン先の跡が歪んでおり、
泣きながら記したのが分かった。
「……嘘、でしょ。」
声が震えた。
夫のカップはまだ食卓に残っている。
昨日まで使っていた歯ブラシも並んでいた。
それなのに、
そのぬくもりだけが、もうどこにもなかった。
澪は鏡に手を伸ばした。
「お願い、戻して……。
もう一度、やり直したい。
今度は、ちゃんとあなたを選ぶから……。」
しかし鏡の中では、
蓮が別の女性を描いていた。
その女性の笑顔は美しく、
穏やかで、幸福そのものだった。
澪の膝が崩れた。
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
(そう……そうよね。
私は、あのとき彼を選ばなかった。
だから、あの人の世界には、私の居場所なんてないのよ。)
理解はしていた。
けれど、心がそれを拒んだ。
彼女は何度も鏡を叩き、
何度も名前を呼んだ。
「れん……れん……!」
呼ぶたびに、鏡面が静かに波紋を描く。
そのたびに、鏡の中の彼はさらに遠ざかっていった。
◇
現実でも、時間は止まらない。
雨が上がり、風が吹き、
人々は新しい一日を始めていく。
澪だけが、過去の影に取り残されていた。
離婚届の上に涙が落ち、
インクが滲んで名前が読めなくなる。
それでも彼女は微笑んだ。
「……あの人が幸せなら、それでいいのよね。」
自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、その声には力がなかった。
ペンを持つ指が震え、
紙を掴む手が次第に冷えていく。
そして、目の前の鏡が、また微かに光を放った。
◇
――次は、きっとうまくいく。
その囁きが、澪の頭の奥で響いた。
気づけば、彼女はまた鏡を覗いていた。
今度の世界は違った。
隣には、優しい夫がいた。
現実で離れてしまったはずの彼が、
穏やかな笑顔でコーヒーを淹れている。
「おはよう、澪。今日はいい天気だね。」
涙が滲んだ。
(戻れた……? 本当に……?)
「今度こそ、失敗しない。」
そう呟いて、彼の手を取った。
◇
しかし、穏やかな日々は長くは続かなかった。
会話の隙間に沈黙が増え、
夫の微笑みの奥に薄い疲れが見え始める。
「君、また忘れてるよ。」
「ごめんなさい、ちょっと考えごとをしてて。」
同じ言葉が、何度も繰り返された。
優しかった声が、いつの間にか諦めの音を含むようになる。
食器を落として割り、
笑って謝る自分の姿が、他人のように思えた。
夜になると、鏡の縁が青く光る。
光がゆらめくたび、
どこかで誰かが自分の名を呼んでいるように聞こえた。
「……もう、いいの。
私は、あなたを選んだから。」
そう呟きながらも、
心のどこかで“別の可能性”を探していた。
◇
次に目を覚ましたとき、隣にいたのは別の男だった。
知らない街、見知らぬ部屋。
けれど、彼の微笑みには不思議な懐かしさがあった。
「ねぇ、また夢を見てた?」
彼が囁く。
「君、寝言で言ってたよ。“今度こそ幸せになる”って。」
その言葉に、澪は息を呑んだ。
また同じ台詞。
同じ祈り。
最初は穏やかで、優しい恋人だった。
休日には映画を観に行き、手を繋いで歩く。
幸せは確かにそこにあった。
だが、時間が経つほどに、
彼の笑顔が少しずつ冷えていく。
嘘をつき、約束を破り、
目を合わせようとしなくなる。
「どうして……?」
問う声に、答えはなかった。
澪は悟った。
――また、間違えたのだ。
夜、鏡が光る。
「ねぇ、お願い。今度こそ、ちゃんと生きたいの。」
鏡は応えるように揺れた。
◇
次に開いた世界は、学生時代だった。
窓の外は春。桜の花が散っている。
教室のざわめき、チョークの音、
そして、懐かしいあの人の声。
(ああ、佐伯くん……)
心が震えた。
「高梨さん、ちょっといい?」
放課後、彼が照れくさそうに声をかける。
「前から……話してみたかったんだ。」
世界が輝いた。
胸の奥で何かが弾けた。
――今度こそ、幸せになれる。
その夜、澪は机の上に鏡を置いた。
「ありがとう、これでいいの。」
そう微笑んだ瞬間、鏡面が淡く光った。
◇
だが、幸福は長く続かない。
恋はすれ違い、友人との関係は壊れ、
彼女の笑顔もやがて消えた。
そしてまた、鏡を覗く。
――次は。
――次こそ。
――今度こそ。
澪は何度も世界を選び、
何度も愛し、何度も失った。
彼女の中の“現実”という言葉は、
少しずつ意味を失っていった。
◇
クロノスの店の奥。
棚の上で《分岐の手鏡》が静かに光を放つ。
その鏡の中では、無数の澪が眠っていた。
夫と笑う澪。
若い恋人と寄り添う澪。
学生の澪。
孤独な澪。
それぞれが別の世界で、
同じ言葉を呟いていた。
――次こそ、きっとうまくいく。
店主は鏡を手に取り、
その奥を静かに覗いた。
そこには、果てしなく連なる夢の層があった。
幸福の形を追い求め、
現実の痛みを拒み続けた者の魂が、
静かに蠢いている。
「……夢とは、終わりのない選択ですね。」
低く、静かな声が店内に響いた。
「そして、選ぶことをやめた者は、
永遠に“もしも”の中で生き続ける。」
雨の音が、屋根を叩く。
まるで、無数の涙が空から落ちてくるようだった。
棚の上で、鏡が再び光る。
その奥で、またひとりの澪が目を覚まし、
「次こそ」と呟く。
その声は、どこまでも優しく、
そして、どこまでも哀しかった。
外の雨が強くなる。
世界のどこかで、またひとつの扉が開いた。
そして、新しい“もしも”が、
静かに始まるのだった。




