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第4話 分岐の手鏡【後編】―終わらない選択―


雨上がりの朝、澪は鏡の前に立っていた。

光を映すはずの銀面は、どこか柔らかく波打っており、

まるで水面が息をしているようだった。


指先を伸ばすと、鏡は冷たくも温かくもない、不思議な感触を返した。

覗き込めば、そこには昨夜と同じアトリエが広がっている。

机の上の筆、散らばったチューブ、乾きかけた絵具の匂い。

すべてが懐かしく、そして痛々しい。


だが――

その中に、蓮の姿はなかった。


代わりに、画布の上に描かれかけた絵があった。

それは澪自身。

目を伏せ、泣き出しそうな顔で、

誰かに言葉をかけるように、唇がわずかに開いていた。


「どうして……笑ってくれないの?」


呟いた声は、鏡の中へと溶けるように消えた。

返事はない。

ただ、外の世界で雨が再び降り出した音だけが、

遠くから響いてきた。



それからの時間の流れは、奇妙だった。

アトリエの中の季節が、少しずつ変化していく。

木々の葉が色づき、やがて落ち、

窓の外には冷たい風が吹き込んでくる。


澪は鏡越しに、その変化をただ見つめていた。

何かが変わっていくのを見ているのに、

自分の世界は止まったままのように感じた。


ある夜、ようやく蓮が戻ってきた。

だがその顔には、あの穏やかな笑みがなかった。

疲れ切った目で、彼は筆を握ったまま、

絵の前に立っていた。


「描いても描いても、終わらないんだ。」

声は掠れていた。

「君を描くたびに、何かが違っていく。

 どんどん、君が遠ざかっていくんだ。」


澪は鏡の外から、思わず叫んだ。

「私はここにいる! 見てよ、蓮! お願い!」


けれど、彼は顔を上げなかった。

「君はもう、ここにはいないよ。

 あの日からずっと。」


その一言で、すべての音が止んだ。

次の瞬間、蓮はアトリエの奥へと消えていった。

残されたのは、未完成の絵と、

その前で揺らぐ鏡面だけだった。



現実の部屋。

静寂の中、澪は目を開けた。

空気は重く、湿っていて、

まるで長い夢の底から戻ってきたような感覚だった。


テーブルの上には、一枚の紙があった。

――離婚届。


見慣れた夫の筆跡。

何度も迷ったように書かれた自分の名前。

ペン先の跡が歪んでおり、

泣きながら記したのが分かった。


「……嘘、でしょ。」


声が震えた。

夫のカップはまだ食卓に残っている。

昨日まで使っていた歯ブラシも並んでいた。

それなのに、

そのぬくもりだけが、もうどこにもなかった。


澪は鏡に手を伸ばした。

「お願い、戻して……。

 もう一度、やり直したい。

 今度は、ちゃんとあなたを選ぶから……。」


しかし鏡の中では、

蓮が別の女性を描いていた。


その女性の笑顔は美しく、

穏やかで、幸福そのものだった。


澪の膝が崩れた。

胸の奥で何かが音を立てて崩れた。


(そう……そうよね。

 私は、あのとき彼を選ばなかった。

 だから、あの人の世界には、私の居場所なんてないのよ。)


理解はしていた。

けれど、心がそれを拒んだ。


彼女は何度も鏡を叩き、

何度も名前を呼んだ。

「れん……れん……!」

呼ぶたびに、鏡面が静かに波紋を描く。

そのたびに、鏡の中の彼はさらに遠ざかっていった。



現実でも、時間は止まらない。

雨が上がり、風が吹き、

人々は新しい一日を始めていく。


澪だけが、過去の影に取り残されていた。

離婚届の上に涙が落ち、

インクが滲んで名前が読めなくなる。

それでも彼女は微笑んだ。


「……あの人が幸せなら、それでいいのよね。」


自分に言い聞かせるように呟いた。

だが、その声には力がなかった。

ペンを持つ指が震え、

紙を掴む手が次第に冷えていく。


そして、目の前の鏡が、また微かに光を放った。



――次は、きっとうまくいく。


その囁きが、澪の頭の奥で響いた。

気づけば、彼女はまた鏡を覗いていた。


今度の世界は違った。

隣には、優しい夫がいた。

現実で離れてしまったはずの彼が、

穏やかな笑顔でコーヒーを淹れている。


「おはよう、澪。今日はいい天気だね。」


涙が滲んだ。

(戻れた……? 本当に……?)


「今度こそ、失敗しない。」

そう呟いて、彼の手を取った。



しかし、穏やかな日々は長くは続かなかった。

会話の隙間に沈黙が増え、

夫の微笑みの奥に薄い疲れが見え始める。

「君、また忘れてるよ。」

「ごめんなさい、ちょっと考えごとをしてて。」


同じ言葉が、何度も繰り返された。

優しかった声が、いつの間にか諦めの音を含むようになる。

食器を落として割り、

笑って謝る自分の姿が、他人のように思えた。


夜になると、鏡の縁が青く光る。

光がゆらめくたび、

どこかで誰かが自分の名を呼んでいるように聞こえた。


「……もう、いいの。

 私は、あなたを選んだから。」


そう呟きながらも、

心のどこかで“別の可能性”を探していた。



次に目を覚ましたとき、隣にいたのは別の男だった。

知らない街、見知らぬ部屋。

けれど、彼の微笑みには不思議な懐かしさがあった。


「ねぇ、また夢を見てた?」

彼が囁く。

「君、寝言で言ってたよ。“今度こそ幸せになる”って。」


その言葉に、澪は息を呑んだ。

また同じ台詞。

同じ祈り。


最初は穏やかで、優しい恋人だった。

休日には映画を観に行き、手を繋いで歩く。

幸せは確かにそこにあった。


だが、時間が経つほどに、

彼の笑顔が少しずつ冷えていく。

嘘をつき、約束を破り、

目を合わせようとしなくなる。


「どうして……?」

問う声に、答えはなかった。


澪は悟った。

――また、間違えたのだ。


夜、鏡が光る。

「ねぇ、お願い。今度こそ、ちゃんと生きたいの。」


鏡は応えるように揺れた。



次に開いた世界は、学生時代だった。

窓の外は春。桜の花が散っている。

教室のざわめき、チョークの音、

そして、懐かしいあの人の声。


(ああ、佐伯くん……)

心が震えた。

「高梨さん、ちょっといい?」

放課後、彼が照れくさそうに声をかける。

「前から……話してみたかったんだ。」


世界が輝いた。

胸の奥で何かが弾けた。


――今度こそ、幸せになれる。


その夜、澪は机の上に鏡を置いた。

「ありがとう、これでいいの。」

そう微笑んだ瞬間、鏡面が淡く光った。



だが、幸福は長く続かない。

恋はすれ違い、友人との関係は壊れ、

彼女の笑顔もやがて消えた。


そしてまた、鏡を覗く。


――次は。

――次こそ。

――今度こそ。


澪は何度も世界を選び、

何度も愛し、何度も失った。


彼女の中の“現実”という言葉は、

少しずつ意味を失っていった。



クロノスの店の奥。

棚の上で《分岐の手鏡》が静かに光を放つ。

その鏡の中では、無数の澪が眠っていた。

夫と笑う澪。

若い恋人と寄り添う澪。

学生の澪。

孤独な澪。


それぞれが別の世界で、

同じ言葉を呟いていた。


――次こそ、きっとうまくいく。


店主は鏡を手に取り、

その奥を静かに覗いた。

そこには、果てしなく連なる夢の層があった。

幸福の形を追い求め、

現実の痛みを拒み続けた者の魂が、

静かに蠢いている。


「……夢とは、終わりのない選択ですね。」


低く、静かな声が店内に響いた。


「そして、選ぶことをやめた者は、

 永遠に“もしも”の中で生き続ける。」


雨の音が、屋根を叩く。

まるで、無数の涙が空から落ちてくるようだった。


棚の上で、鏡が再び光る。

その奥で、またひとりの澪が目を覚まし、

「次こそ」と呟く。


その声は、どこまでも優しく、

そして、どこまでも哀しかった。


外の雨が強くなる。

世界のどこかで、またひとつの扉が開いた。

そして、新しい“もしも”が、

静かに始まるのだった。


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