第4話 分岐の手鏡【中編】―過去の彼方で―
鏡の中の世界は、春の匂いで満ちていた。
窓辺から差し込む陽光、風に揺れる薄布、木漏れ日のような筆の音。
そこに立つ男の背中を、澪は知っていた。
「……蓮。」
その名を呼ぶと、彼が振り返った。
驚いたように目を見開き、次の瞬間には穏やかに微笑む。
「澪、戻ってきてくれたんだな。」
声を聞いただけで、胸の奥が震えた。
その響きが心の空洞を埋めていく。
恋というより、渇きが満たされていく感覚だった。
◇
再会した日々は、夢のようだった。
夜通し語り合い、絵を描き、朝日を浴びながら笑い合う。
過ぎた年月が嘘のように、息が合った。
「君の笑顔がないと、筆が進まないよ。」
「もう……相変わらずね。」
その言葉が嬉しくて、胸の奥が熱くなった。
蓮の指先が、かつてと同じように髪を撫でた。
それだけで、現実の痛みがすべて遠ざかっていった。
「もう一度、始めよう。」
「ええ、今度こそ、最後まで。」
それが約束だった。
“過去をやり直す”という、決して叶わない約束。
◇
だが、日が経つにつれ、幸福の色が少しずつ褪せていった。
蓮の視線はキャンバスの上にしか向かなくなった。
澪が話しかけても、返事は短い。
笑顔の奥に、冷たい沈黙があった。
「ねえ、蓮、私たち……これでいいの?」
「いいに決まってる。君は僕のインスピレーションだ。」
優しい言葉だった。けれど、その響きには温度がなかった。
その言葉の奥に「君はもう、作品の一部だ」という棘が潜んでいる気がした。
次第に、彼の絵の中で澪は“モデル”になっていった。
恋人ではなく、素材としてそこにいる存在。
描かれるたびに、彼の世界から距離が広がっていく。
筆の音が静寂を裂くたび、胸の奥で何かが軋んだ。
◇
夜、眠れずにベッドから起きる。
窓の外では雨が降っていた。
その音が、どこか懐かしかった。
――あの店も、雨の日だった。
頭の中に、低く響く声が蘇る。
「代償は、現実の記憶だ。」
(でも、これが代償だというなら……私は払ってもいい。)
指先が勝手に鏡の縁を撫でていた。
冷たさの中に、微かに脈動するようなぬくもりを感じる。
その奥から、蓮の声がかすかに呼んでいた。
「澪、まだ描きかけなんだ。君がいないと完成しない。」
涙が頬を伝う。
胸の奥が軋むように痛いのに、
その痛みが、なぜか愛しく思えた。
◇
季節が変わった。
鏡の中では春が巡り、外の世界では雨が降り続いていた。
現実に戻ると、夫がコーヒーを淹れていた。
カップから立ち上る香りが、懐かしいのに、遠い。
「澪、最近よく眠れないみたいだね。」
「……少し、夢が続いてるの。」
そう答えると、夫は静かに頷いた。
その目に、どこか怯えのようなものが見えた。
食卓の上、夫の手の甲にある小さな火傷の跡を見て、
ふと、胸が締め付けられる。
――この人は、私の現実なのに。
そう思っても、心の奥がそれを拒んだ。
鏡の中の光景が頭を離れない。
蓮の声、筆の音、春の風。
思い出そうとするたびに、現実の景色が薄れていく。
◇
ある日、夫が言った。
「澪、今夜、一緒に外を歩かないか。」
珍しく彼から誘われ、少し戸惑った。
夜の街は静かで、雨上がりの匂いが漂っていた。
並んで歩きながら、彼がふと呟いた。
「僕たち、いつからこうなったんだろうね。」
返す言葉がなかった。
喉の奥で何かがつかえ、声にならない。
代わりに、鏡の中の蓮の笑顔が浮かぶ。
夫の顔を見ると、どこか知らない人のようだった。
優しいのに、遠い。
その優しさが、かえって胸を締めつけた。
◇
夜になると、鏡の奥が淡く光る。
そこに立つ自分が、確かに自分よりも幸せそうに見えた。
「ただの夢よ……」
そう言い聞かせながらも、
心の奥で“もう一度だけ”という囁きが消えなかった。
鏡の光が部屋の壁を照らす。
影が二つに割れ、揺れて重なる。
一瞬、鏡の中の自分がこちらを見て笑った気がした。
その笑顔が、あまりにも優しくて、
だからこそ怖かった。
◇
「私、今……どちらにいるの?」
自分の声が震える。
返事はない。
ただ、鏡の奥で、あの春の空気がふたたび流れ出す。
花の匂い、絵具の甘い香り、筆の音。
すべてが呼吸のように近づいてくる。
「もう一度だけ……」
澪は囁いた。
指先を鏡に触れると、冷たいはずの表面が熱を持っていた。
心臓の鼓動が伝わり、
境界が音もなく溶けていく。
鏡の中から、聞き慣れた声がした。
「澪、また会えて嬉しいよ。」
その瞬間、涙があふれた。
現実では夫の名を呼ぶこともできなかったのに、
この世界では、呼吸をするように彼の名を呼べる。
もう後戻りできないと分かっていても、
手は勝手に鏡の奥へ伸びていた。
世界が二つに分かれ、やがて重なる。
どちらが夢で、どちらが現か――もう分からなかった。
光が揺れ、壁に映る影が二つ重なった。
ひとつは現実の澪。
もうひとつは、鏡の中で微笑む“あの時の私”。
どちらが本当なのか、もう分からない。
でも、どちらでもいい。
息をしている限り、世界は確かに存在する。
鏡の中で、蓮が笑った。
その笑顔の奥で、何かが崩れていく音がした。
澪は息を吸い込み、
震える手で、再び鏡の蓋を開けた。
その瞬間、部屋の灯がすべて消えた。
残ったのは、銀色のきらめきと、静かな雨音だけだった。
……遠くで、誰かの笑い声がした。
それは優しくも冷たく、
まるで世界そのものが、
彼女の選んだ“分岐”を祝福しているようだった。
外では、雨が降り続いている。
空は灰色で、街は滲んで見えた。
澪の部屋の中、
鏡の奥だけが、柔らかく光っていた。




