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第4話 分岐の手鏡【中編】―過去の彼方で―


鏡の中の世界は、春の匂いで満ちていた。

窓辺から差し込む陽光、風に揺れる薄布、木漏れ日のような筆の音。

そこに立つ男の背中を、澪は知っていた。


「……れん。」


その名を呼ぶと、彼が振り返った。

驚いたように目を見開き、次の瞬間には穏やかに微笑む。


「澪、戻ってきてくれたんだな。」


声を聞いただけで、胸の奥が震えた。

その響きが心の空洞を埋めていく。

恋というより、渇きが満たされていく感覚だった。



再会した日々は、夢のようだった。

夜通し語り合い、絵を描き、朝日を浴びながら笑い合う。

過ぎた年月が嘘のように、息が合った。


「君の笑顔がないと、筆が進まないよ。」

「もう……相変わらずね。」


その言葉が嬉しくて、胸の奥が熱くなった。

蓮の指先が、かつてと同じように髪を撫でた。

それだけで、現実の痛みがすべて遠ざかっていった。


「もう一度、始めよう。」

「ええ、今度こそ、最後まで。」


それが約束だった。

“過去をやり直す”という、決して叶わない約束。



だが、日が経つにつれ、幸福の色が少しずつ褪せていった。


蓮の視線はキャンバスの上にしか向かなくなった。

澪が話しかけても、返事は短い。

笑顔の奥に、冷たい沈黙があった。


「ねえ、蓮、私たち……これでいいの?」

「いいに決まってる。君は僕のインスピレーションだ。」


優しい言葉だった。けれど、その響きには温度がなかった。

その言葉の奥に「君はもう、作品の一部だ」という棘が潜んでいる気がした。


次第に、彼の絵の中で澪は“モデル”になっていった。

恋人ではなく、素材としてそこにいる存在。

描かれるたびに、彼の世界から距離が広がっていく。


筆の音が静寂を裂くたび、胸の奥で何かが軋んだ。



夜、眠れずにベッドから起きる。

窓の外では雨が降っていた。

その音が、どこか懐かしかった。


――あの店も、雨の日だった。


頭の中に、低く響く声が蘇る。

「代償は、現実の記憶だ。」


(でも、これが代償だというなら……私は払ってもいい。)


指先が勝手に鏡の縁を撫でていた。

冷たさの中に、微かに脈動するようなぬくもりを感じる。

その奥から、蓮の声がかすかに呼んでいた。


「澪、まだ描きかけなんだ。君がいないと完成しない。」


涙が頬を伝う。

胸の奥が軋むように痛いのに、

その痛みが、なぜか愛しく思えた。



季節が変わった。

鏡の中では春が巡り、外の世界では雨が降り続いていた。


現実に戻ると、夫がコーヒーを淹れていた。

カップから立ち上る香りが、懐かしいのに、遠い。


「澪、最近よく眠れないみたいだね。」

「……少し、夢が続いてるの。」


そう答えると、夫は静かに頷いた。

その目に、どこか怯えのようなものが見えた。


食卓の上、夫の手の甲にある小さな火傷の跡を見て、

ふと、胸が締め付けられる。

――この人は、私の現実なのに。

そう思っても、心の奥がそれを拒んだ。


鏡の中の光景が頭を離れない。

蓮の声、筆の音、春の風。

思い出そうとするたびに、現実の景色が薄れていく。



ある日、夫が言った。

「澪、今夜、一緒に外を歩かないか。」

珍しく彼から誘われ、少し戸惑った。


夜の街は静かで、雨上がりの匂いが漂っていた。

並んで歩きながら、彼がふと呟いた。

「僕たち、いつからこうなったんだろうね。」


返す言葉がなかった。

喉の奥で何かがつかえ、声にならない。

代わりに、鏡の中の蓮の笑顔が浮かぶ。


夫の顔を見ると、どこか知らない人のようだった。

優しいのに、遠い。

その優しさが、かえって胸を締めつけた。



夜になると、鏡の奥が淡く光る。

そこに立つ自分が、確かに自分よりも幸せそうに見えた。


「ただの夢よ……」

そう言い聞かせながらも、

心の奥で“もう一度だけ”という囁きが消えなかった。


鏡の光が部屋の壁を照らす。

影が二つに割れ、揺れて重なる。

一瞬、鏡の中の自分がこちらを見て笑った気がした。


その笑顔が、あまりにも優しくて、

だからこそ怖かった。



「私、今……どちらにいるの?」


自分の声が震える。

返事はない。

ただ、鏡の奥で、あの春の空気がふたたび流れ出す。

花の匂い、絵具の甘い香り、筆の音。

すべてが呼吸のように近づいてくる。


「もう一度だけ……」

澪は囁いた。


指先を鏡に触れると、冷たいはずの表面が熱を持っていた。

心臓の鼓動が伝わり、

境界が音もなく溶けていく。


鏡の中から、聞き慣れた声がした。


「澪、また会えて嬉しいよ。」


その瞬間、涙があふれた。

現実では夫の名を呼ぶこともできなかったのに、

この世界では、呼吸をするように彼の名を呼べる。


もう後戻りできないと分かっていても、

手は勝手に鏡の奥へ伸びていた。


世界が二つに分かれ、やがて重なる。

どちらが夢で、どちらが現か――もう分からなかった。


光が揺れ、壁に映る影が二つ重なった。

ひとつは現実の澪。

もうひとつは、鏡の中で微笑む“あの時の私”。


どちらが本当なのか、もう分からない。

でも、どちらでもいい。

息をしている限り、世界は確かに存在する。


鏡の中で、蓮が笑った。

その笑顔の奥で、何かが崩れていく音がした。


澪は息を吸い込み、

震える手で、再び鏡の蓋を開けた。


その瞬間、部屋の灯がすべて消えた。

残ったのは、銀色のきらめきと、静かな雨音だけだった。


……遠くで、誰かの笑い声がした。

それは優しくも冷たく、

まるで世界そのものが、

彼女の選んだ“分岐”を祝福しているようだった。


外では、雨が降り続いている。

空は灰色で、街は滲んで見えた。


澪の部屋の中、

鏡の奥だけが、柔らかく光っていた。


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