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21.暴走

…………………は?



びっくりした。ここでもその名称を耳にするなんて。

でも私からしてみれば、すっきりした気分にもなった。なにせ。

『天魔の奇跡』ってことは、その場にいるのよね?



天魔が。



ほら、やっぱり。

いるんじゃない、天魔が。

使徒の許にって言うのは、問題だけど。


これで証明された。私は天魔じゃない。…と思うのは、浅はかかしら?


真名のことを言われると説明に困るけど、どっちにしたって私自身に自覚らしい自覚なんてないもの。

客観的に見れば、私には条件が揃ってるわよね。その程度の認識は、私にだってある。

他人事なら、あなたがそうよね間違いないわ頑張ってって言ってるところ。問題はひとつ。


どうしても、私が天魔だなんて生き物とは思えないのよ。

本音ぶっちゃけるわね? 一点、すごく肝心なところが、イマイチ確信持てないの。




―――――天魔という存在は、実在するのか?




ここ、重要です。


天魔は神話の存在なのよ。正直、否定も肯定もできないわ。

そんな存在が、私だって言われても…ねえ。

とうとう、テツさまが手を止める。ジネッティ医師を見た。一瞬、血が流れた錯覚を起こすくらい、眼差しが鋭い。


「では」


テツさまが声を発するなり。



「使徒の許に、天魔がいると?」



私の全身に鳥肌が立った。ぶわっと全身膨らんだ心地になる。寒気が凶悪なレベルで襲ってきた。

脆い部分を、いきなりカミソリで撫でられた気分だわ。逃げたい。


私と同じ気分を共有したんだろう。ジネッティ医師が、震えながら両手を挙げる。罪人みたいだ。悲鳴じみた声で答えた。

「そういう触れ込みというだけです、誰も信じていません!」


そうよね。神話の存在が、今目の前にいますよって言われても、誰も信じない。

まっとうな反応だと思うわ。


ただし、テツさまはベルシュゼッツの五大公家が一、アイゼンシュタット家の嫡子。

まさしく神話の実在の証明たる家系。彼にとって、天魔は別格の存在だわ。


そんなテツさまからしたら、真名を解した私こそが天魔に他ならないわけで。

他はニセモノってなるのは鉄板よね。


他の可能性もあるって、私なんかは思ってしまうんだけど。ただ。



やってしまった感があるのは、テツさまの真名を私が理解してしまったことよ。



考えてみて。この状態で、よ?

私は天魔じゃありません。と言うことになったら。…どうなる?




私がテツさまの真名を握っている、つまりは全存在を掴んでいるに等しい状態であっても見逃されているのは、それが天魔である証明であり―――――天魔ゆえに許されてるってだけの話なのよね。




なのに、私が天魔じゃないって逆に証明されたら。






私、たぶん、消される。


死亡、確定。






テツさまは許してくださるかもしれないけど、彼の周囲が許さないわ。

殺されたくないなら、天魔であると証明し続けなきゃならないなんて、どんな悪夢よ。


―――――だから、声高に、絶対違う、私じゃない、とも言えない。保身だわ。うん、卑怯よね。分かってる。



そう。私はちゃんと、自分の立場を理解してるわ。



だからこそ、逆に。

今の、ずるずる流されているこの状態には、腹が立っているの。

潔くない。イライラする。我がことながら。


こういうのは、嫌い。


確かに状況に対応しきれず、流され続けてきたのは私だけど、いい加減、はっきりさせるべきね。

もちろん、殺される危険性も無視はできない。



けど、ずっとこのむずむずを抱えていなきゃならないなんて、そっちの方が私には我慢できないわ。



きっと、消極的な姿勢は、テツさまたちには伝わってしまってるし。

ただ、それをどうにも言い出しにくい理由は、もうひとつ、あるわ。

私はテツさまを横目にする。彼の黄金の目は、



「そういう存在がいると言うだけでも不快だ」



今にも排除を実行しそうだ。そう、テツさまは心の底から真剣。


私が、天魔だって認識を否定して、拒絶するのが辛くなるくらい。

なんて、言い出しにくい雰囲気かしら。



でも、だからこそ、―――――誠実でありたいなら。


…この、私自身の戸惑いは、正直に伝えるべきよね。



学院の、他の人たちがいない、今なら、いい機会だわ。テツさま相手なら、いきなり危険なことにはならないと思うのよ。大公家を舐めているわけじゃないわ。ただ、ほら、私は表向き、テツさまの婚約者でしょう。公表した婚約者を、いきなり殺したりしないはず。

ただ、タイミングが難しい。



目の端で、薬缶がしゅんしゅんと音を立て、湯気を押し上げ始めてる。



ジネッティ医師はと見れば、テツさまの威圧に押しつぶされそうだ。見かねて、口をはさむ。

「でも実際、奇跡って何をするんです? …薬を回収して回るってことは、なくなった薬の代わりに病気や怪我を治して回るわけですか?」

彼は縋るように私を見た。ホッと肩の力が抜ける。

「ご明察。治癒を実践していくんだ」

ふうん? 使徒たちの天魔は、魔法を使えるわけね。経緯はともかく、優れた治癒の使い手は貴重だわ。だとしても、ひとつ気になるんだけど。


「でもそう都合よく病人やけが人がいるものですか?」


たちまち、ジネッティ医師の人の好さげな顔に険が走った。…これだけで、何かあるんだってすぐ分かる。彼は疲れた表情と声で、一言。

「そんなの簡単だ、作ればいい、状況をね」

私、目を瞬かせた。直後、ジネッティ医師は想像もしなかったことを告げる。




「砂漠のモンスターを人にけしかけるのなんか、子供にだって簡単にできる」




ぴーぴー元気な音を立て始めた薬缶を、機械的な仕草でジネッティ医師は止めた。私の思考も一瞬止まる。呟きが、呆然となったのも仕方ない。

「…まさか、自作自演してる…?」

次いで、青くなった。モンスターをけしかけるって―――――下手すれば死ぬのに。

相手だけの話じゃない。自分だって危険。


何やってるの。っていうのか、何がしたいの?? そこまで駆り立てる何が、そこに…使徒の活動に、あるっていうのかしら。


「そんな危険を、放置しているのか」

テツさまの声は厳しい。受け入れている住人側をって言うより、為政者たちを責めている感じね。

ジネッティ医師は頭を横に振った。

「西方の者は、逃げ方も熟知しています。人為的な危険は確かにないにこしたことはないんですが…」


様々のしがらみがある、そういうこと、なのだろうが。

「何も知らない旅人は…」

言いさした私に、ジネッティ医師は目を閉じ、首を横に振った。


「…運が悪かった、そういうことに、なりますね」

昨夜、私が砂漠でモンスターたちに追われたのも、使徒の活動とつながりはあるのかしら。



世の中って、大概、こういう意味が分からない理不尽がまかり通っているものだけど、これはまた極めつけだ。



何とも言えない沈黙が落ちた時。






「邪魔するよ!」






ノックもなしに、ドアが開いた。ついで、ばさり、大きな羽音。ひらりと室内に舞い込む茶系の羽。逆光を背景に、背に翼をもつ、よく日に焼けた少年がジネッティ医師に、にかっと笑いかけた。

「配達にきた。<白陽>事務所に今朝届いた手紙だってさ、置いとくよ!」

斜めかけにした大きな鞄から、手紙の束を取り出して、中の一束を出入り口のカウンターに放り出す。

「あ、ありがとう。ご苦労さん」


「そっちもお疲れさん。じゃあな!」

丈夫そうな鞄の表面にある鳥獣の刺繍から、彼が、獣人がメインで働く配達会社の子だと理解。それにしたって自由だ。顔を出したのはほんのひと時だったのに、嵐みたいな印象。

「ああ、話の途中で、失礼」

たちまち、寸前までの空気が入れ替わった。やれやれ、頭を横に振りながら、ジネッティ医師が手紙を取りに行く。


「…あれ、これ…」


ジネッティ医師が、無造作に数枚めくった。途中。不意に手を止め、戸惑いが強い指先で、一葉のハガキを抜き取った。

「驚いたね、支部長からだ」


「旦那さまからですか」

伝言などではなく絵ハガキというのが、いかにも、だ。示されたハガキの表には、


「最果ての鉄橋の絵ですね」

「だね、手前の街あたりにいらっしゃるのかな…って、え?」

裏のメッセージを読みはじめ、しばらくしてジネッティ医師の顔から血の気が引いた。なにかあったのかしら。


文面に視線を固定したまま、ジネッティ医師。




「…ハイネマン商会の情報網が意味わからないくらい正確ってことは、世情に疎いぼくだってよく知ってる事実だけど…こういうの、どこでどうやって調べてるの…」




さび付いた機械みたいな動きで、私にハガキを差し出してくる。なんだか不正を責められてるみたいな口調ね? ウチのはただの人海戦術のはず…うん、だと思うわ。少なくとも別に変なことはしていないはずよ?

受け取って、文面に目を通し―――――私は。


「テツさま」

一つ頷き、テツさまに目を向けた。無言で視線を返してくる御曹司に、

「間もなく、砂漠のモンスターが暴走スタンピートを起こします。その予想ルートに」

私は冷静に、―――――単に諦めの方が強いってだけだけど――――告げる。



「この街が含まれています」



私はテーブルの上、皿が並んだ隙間にハガキを置いた。裏面を上にして。

ほかならぬ旦那さま―――――ジャック・ハイネマンがもたらした情報だ。ガセなわけない。そんな悪趣味な冗談は言わない人だし。

ただまあ、示されている日にちが今日って言うのが、なんとも。しかも、この街が被害に遭うまで、あまり時間がない感じだ。

それでも、事前に情報が来るのはありがたい。


テツさまの黄金の目が、文面に向く。何かを思い出すように、顎を撫でた。

「話には聞いたことがある」

芯まで落ち着き払った態度で、仰る。



「西方では災害級のモンスターの暴走スタンピートが起きると」



モンスターの暴走スタンピート。これは、西方連合国における特有の事象だ。




ベルシュゼッツにおける五大公家の争いに並ぶ天災のひとつ。


北王国の魔物や、南の商工都市における聖獣、魔導大国に棲みつく精霊なんかも一旦箍が外れると膨大な死傷者を生み出すわね。




その被害は年々増加傾向にあるって話を聞いたことがある。天魔の加護が薄れてきているんじゃないかって、冗談交じりの言葉がその話の最後について回るところまで、お約束ね。

「そうです、通り過ぎた後に残るのは廃墟のみですね」

ジネッティ医師の反応は、あっけらかんとしてる。慣れを感じさせた。


「これは」

あまり言いたくなくて、指摘する口は自然と重くなる。

「…さっき聞いた話とつながりがあったり、するのかしら」

西の国を回る使徒たちが意図的にモンスターたちをけしかけている、その行為が呼び水になったなんて、…笑えないけど。


なんにしろ、使徒たちがやってくるって時に暴走スタンピートが起こるなんて、タイミングが悪い。

「実際のところは分かりませんが、誰も使徒たちを匿おうとはしないでしょうね」

ジネッティ医師が肩を竦めた。匿う、って言葉にテツさまが声を潜める。


「逃げるあてがあるのか? この砂漠の真ん中で」

表情に動きはないけど、街を案じる態度だ。

「逃げると言うか、隠れるのです」

ジネッティ医師が足元をサンダルの底で蹴った。テツさまがわずかに驚いたような、納得した声で呟く。



「地下に、潜むのか」


「オアシスの家はすべて、地下が設けられています」



言った私を、テツさまが真っ直ぐ見据えた。

「だがモンスターの中には地中に潜るものがいるだろう」

その疑問には同感だわ。でも、

「不思議なんですけど」

ゆっくり水を飲み、喉を潤した後、私は床を見下ろす。


「街の区画内の地下には、モンスターは潜れないみたいで」



過去、何人もの研究者がその謎に挑戦したけど、未だ真相は解明できずにいるのよね。



よって、オアシスの住人たちの、逃亡先は地下一択。

一択、…なんだけど。もうひとつ、あるんじゃないかって私は考えていたりする。

今まで何度か、暴走スタンピートに出くわした経験から、あそこも逃げ場所になるんじゃないのって思うところがあるんだけど…試すのは命懸けだから、やってみたことはないわ。


「では」

テツさまは冷静に結論。

「俺たちは早急に街をでなければな」


そう、ここまで聞けば、分かるわ。街の住人は対応に慣れている。代々の歴史、過去の経験から、身を守る術を常日頃において準備万端整えているわけね。

問題は、街の外から来た人間。つまりは、私たちみたいな。

頼み込めば、ジネッティ医師は暴走スタンピートが収まるまで、自宅の地下に置いてくれるかもしれない。でもそれは、明らかに迷惑だ。もちろん、ジネッティ医師はそんなこと言わないだろうけど。

こちらが居たたまれなくなるわよね。


「そうと決まれば、出立ですね」

手を叩き、皿の上にパンくずを落とす。

「悪いね。あ、片づけとかはしておくから気にしないで」

「すみません、ありがとうございます」

慌ただしく動く合間に、ジネッティ医師が紙切れを手渡してきた。


「これ、目的地の地図だけど。…立ち寄る時間を惜しんで出立したほうがいいかもね」

悩みどころだ。

「ちなみに、暴走スタンピートの情報って他には」


「ぼくのところに手紙が来るくらいだから、他の組織にも行ってると思う。支部長は抜かりのない人だし」

「となれば、寄っても無駄足になる可能性もあるか」

もう避難は始まっていると考えれば、テツさまの言葉は、もっともよね。でも。


「私、移動用の魔道具持っていますし、駆け足で立ち寄っても暴走スタンピートの進路から逸れれば逃げ切れると思います」


私はよく考えて、そういったわけじゃない。

単に、昨夜、テツさまを引き留めちゃったことだし、今日はできるだけテツさまの望みに添いたいなって思った上での発言だったのよ。



後から思えば、この何でもない提案こそが、間違いのもとだったんだわ。



「昨夜、砂漠では使っていなかったようだが」

真っ向からの指摘に、私はつい、ごにょごにょ。


「込められてる魔力を節約したかったんですよ…」

そこは反省しています。それに、先に追いかけられたんじゃ、走ってる途中に出そうとすれば取り落とす可能性が高い。

幸い、それ以上、テツさまは突っ込んでこなかった。魔道具の方に、興味を示す。

「ちなみに、どういう魔道具だ」


「空飛ぶ絨毯です」

少人数で乗って移動も可能だし、重い荷物があっても楽チン。ただし雨の日や風の強い日は使えない。雨よけ・風よけの結界を張ると言っても、また別の魔道具で作るとなれば、一方の機能が効かなくなったり弾いたりで、難しいのよ。

同じ理由で、魔法が使える人がいても、気楽にお願いするのは考え物。


「ああ、お嬢さまお気に入りのアレ」

いいんじゃないかな、とのんびりジネッティ医師。

「融通は利かないけどきっちり基本を押さえた堅い仕事する道具だよね。うん、アレならまっしぐらに逃げられる」

何か言おうとしたテツさまを抑え込む形で、私。


「定員五名みたいですから、二人乗るなんて余裕です」

また抱えて飛ばれるなんて、申し訳ないやら恥ずかしいやらなので、避けたい。


それじゃ行きましょう、と診療所の扉を開けた。

「ジネッティ医師、お世話になりました。お礼はまた今度、必ず」

「はい、気を付けて」

返された穏やかな笑顔に、ちょっと不安になる。




まだ解決できてない問題があったから。…なんで、昨夜この診療所は、襲撃みたいな真似をされたのか。




ただ、今はそんなこと気にしてる場合じゃないのは確かで。


―――――仕方ない、あとで旦那さまへの手紙を書いて問題提起しておこう。


私が調べるなんて、限度があるもの。なにより、ミアの本分は何だね、と旦那さまに低い声で言われそうだ。

よく、旦那さまは私に甘い、とか皆言うけど、旦那さまに叱られると怖い、と思うくらいには、あの方は私に厳しいもの、怒らせたくはない。



一旦外に出れば、西の空気は、ひどく乾いている。



私は口元にショールを巻きながら、テツさまにジネッティ医師から渡された紙を広げて示した。

「どちらもここから近いです」

テツさまは、軽く頭部に巻いた布を気にして、頭に手を当てる。

西方連合の男性としては普通の出で立ちだけど、慣れないテツさまは気になるんだろう。そのまま、周囲を見渡す。


「ああ…慌ただしいな」

確かに、さっきまでは穏やかだった街中が、にわかに慌ただしくなっていた。

あっという間に情報が駆け抜けたらしい。迅速な対応に、感心。命にかかわる問題だ。そうでなければ困るのだけど。


街のひとたちは、夜逃げ準備でもするみたいに荷物をまとめている。

「あ、ここを右みたいです」

指さしたところで、気づいた。しまった、テツさまの横に並んでる。

テツさまは気にされていないし、そういう場合でもないんだけど。気が付くと、気になってしまうわ。それにやっぱり、テツさまは…目立つ。


長身だからってだけじゃない。

厳格さと退廃が矛盾なく同居した美貌は、目にした者から、どうしても言葉を奪う。意識を奪う。

酩酊に近い心地にさせて、近寄りがたくて恐ろしいのに、その一瞥を得られたらそれだけで天に昇るような心地にもさせてしまう。


一言で言うわね。




厄介だわー。




まとっている空気から違うのだもの。テツさまの感情の影響、とやらは私からはなくなったみたいだけど、それでもやっぱり、この方は特別よねって思っちゃう。

でも、いい機会かも。

「テツさま、こんな場合に何ですが」

時と場合を選んでいては、話せるものも話せない。学習した私は、小走りになりながら、さっそく口を開いた。



「ひとつ聞いて頂きたいことが」



テツさまは何も仰らない。ただ視線を、頭上に感じる。少なくとも、拒絶はない。

「例の…私の今後に関するお話ですが」

天魔。この言葉を、こういう場所・場面で口にするのは憚られた。

適当に濁らせながら、言葉を紡ぐ。



「私が今まで通りの生活を望むことを、お伝えはしていますけど、それ以前の、重要な問題がありまして」



ただ、私自身の惑いだけは、正直に伝える。

「正直なところ、かの存在が私であることは、何かの間違いとしか私には思えません。いえ、他人の身に起こったこととして、判断するなら、肯定できるんですけど」

要するに、私には。



「…覚悟がありません」





天魔。





その言葉を自分のものとして口にする、責任も持てない。声の弱さに、思わず、内心、歯噛みした。


これじゃ、弱音だ。違うでしょう。

胸を張りなさい、ミア・ヘルリッヒ。私にやましいことは何一つないわ。



「あるのは違和感だけで、ちぐはぐなんです、現実と」



もし真実、私が天魔であるとして。何が、―――――できるのかしら。そう。





私は、自分が天魔だとすれば、何がしたいの。





記憶の一つがあるわけでもないのに。

今の私は、単に。


…現実を、持て余しているのね。


天魔という言葉と向かい合った時、あまりにも、手応えがなくて。

「受け入れることは、私には、難しいのです」




私は、ただのミア・ヘルリッヒ。それ以外ではありえないわ。




天魔という壮大な存在に対して、なんてちっぽけなのかしら。でも私にとって、そのちっぽけさの方が、安心できるの。


逃げていると言われても仕方ないわね、これは。だとしても、このまま黙っているのも間違っているわ。

流され続けたら、そんなつもりじゃなかったのに、って恨み言を言ってしまいそう。それこそ肝心なところで逃げ出すんじゃないかしら。

きっと、取り返しのつかない失敗を、最悪の形でしてしまう。



そんな、愚かな間違いこそ、一番避けたい。



「そうか」

内心恐々としてた私に、テツさまは拍子抜けするほど簡単に頷いた。見上げた表情も、静かで。





「俺はミアを尊重する。その望みに沿って、動こう」


テツさまは、丁寧に言葉を紡いだ。気持ちを、汲んでくれた。





正直言えば、…私はテツさまの反応を具体的には想像していなかったわ。

けど、この方の厳格さを考えれば、叱られる可能性が高いと思ってたの。それこそ。




逃げるなって。




「…構わないんですか」


「おかしいか」

―――――そういえば昨夜、テツさまは妙なことを仰らなかったかしら。

そう。確か。



―――――こういうときあなたならどう考えるか。あなたならどう行動するか。それらを考え、実行に移した。



昔、テツさまを助けた私に憧れたから、と。

まさかこんなしっかりした方が、私に盲目的に従おうとしているわけはないだろうけど、かつての行動原理は今のこの方に、どんな作用をもたらしているのかしら。読めない。


「心の伴わないあなたに、強要するのは間違いだろう。ただ」


路地を抜け、見えた、広そうな建物に目を向け、テツさまは突拍子もないことを言った。





「俺は、あなたは俺たち五大公家が仕えるに相応しく在れる方だと思っている」





ぎょっとした。何を根拠に。


でも、そうよね。天魔であるとは、そういうことだわ。五大公家の方々が、頭を下げる。私を前に? ますます、しり込みする。

私には、無理。分かって、仰ってるの?


「テツさまは私を苦しめたいのですか」

物わかりのいい台詞を口になさるけど、テツさまは危険だわ。

私の気持ちを優先するって言いながら、さらっと自分の考えも正直に発言する。隠さない。


うん、知ってた。こういう方だって。案の定、

「ああ」

返されたのは、肯定。優しげな声で。


「苦しむあなたも見たい」

残酷な言葉を思いやり深く告げられると、逆に、色気が増す気がする。いいように嬲られている心地になった。耳を塞ぎたい。


「そのとき、俺も苦しむのか。楽しむのか。それはどんな感情なのか…楽しみだ」


相変わらず厳格な態度と言うのに、声の端にどこかだらしない愉悦がにじんだ、直後。







―――――大気の色が変わった。







そう感じるほどの空気の変化に、びりと肌が痺れた。この感覚。知って、いるわ。

揃って、足を止める。テツさまと同時に空を見上げ、緊張と警戒の声を上げた。



「テツさま、来ます」


「そのようだな」



どうやら、目的地に立ち寄る間もないらしい。

少なくとも、蒼穹はいつもと変わらない表情で、そこにあった。

けど、押し迫る何かの気配が湿気に交じって周囲にムッと立ち込めている。



ここまでね。



魔道具を出そうと腕輪に触れた、そのとき。


目の端に、特徴ある紋様が映った。黒い生地に、白い天秤を染めぬいた紋様。あれは。

思わず、動きが止まる。同時に、





「あんたらが呼んだんだろう! だったら、追い払って見せろよ!」





家屋に逃げ込む街の住人が叫んだ。

見れば、彼に振り払われた少女が乾いた地面に倒れこむところだった。その腕に、庇うように小さな少年を抱え込んで。

彼女を含め、その周囲に立ち尽くす数人の男女が身にまとう日除けの外套は、―――――使徒のもの。


いつの間にか、通りはがらんとして、大半の、街の住人たちの姿が消えているのが分かった。さすが、行動が早い。

対する使徒たちは、戸惑いが強いみたい。

モンスターの暴走スタンピートに関する情報は耳にしているはずだけど、すぐに街へやってくるとは想像もしていないみたいな鈍さ。実際、分かってないんだろう。



暴走スタンピートは、通り過ぎるのも一瞬だけど、やってくるのも一瞬なのよ。



テツさまを伺うように見上げれば。

…不穏なくらいの、無表情だわ。五大公家が一、アイゼンシュタット家ならば、使徒は気に食わないはず。


ただ、立ち去ろう、と私を急かすようにはしない。


使徒を見ていた眼を、すぐ私に戻す。尋ねるような色合いに、私は視線を使徒たちに転じた。

見捨てていくのは、きっと、後味が悪い。

原因は、私が、相手を『誰』でなく『命』と見てしまうから、よね。とはいえ、私の魔道具じゃ定員オーバーだから使えない。

使徒は十人くらいいる。でも。


ひとつだけ。





皆助かる方法なら、思いつかないでもない。





やって、みようか。博打だけど。立ち去るべきか、悩みながら使徒たちを見つめていると。

先に少年を立たせていた少女が、ふ、と顔を上げた。私と目が合う。


砂糖を煮詰めたようなこげ茶の瞳は、飴玉みたいに甘そうなのに、ひどく、―――――…暗い。諦念。憎悪。苦悩。負のいっさいをこれでもかと詰め込んだみたいな、目。


普段なら、絶対関わろうとは思わない不吉が、彼女を取り巻いてた。

でも。…今は。




私は、一歩踏み出す。腹をくくって。






「何をしているの、暴走スタンピートはもう始まっているわよ!」


私は叱る勢いで声を張った。教壇に立つ教師みたいな迫力があったのかしら、少年と少女が揃って身を震わせた。ごめんなさいね。


でも本当に、のんびりしている場合じゃないのよ。




「助かりたいの? 逃げるあてはあるのっ!?」






老若男女、総勢十名の使徒たちは、戸惑った顔を見合わせる。そこまで切羽詰まってはいないけど、確かな焦燥がそこにあった。

いいわ。状況がよろしくないってことは、きちんと理解してるみたいで何より。上等ね。



「助かりたいなら走りなさい、オアシスまで!」



私は真っ先に、踵を返して走り出す。間を置かず、テツさまが隣に並んだ。

やってみるだけは、やってみた。ついてこなければ、それまでよね。

だいたい、初対面、出合頭に厳しい声を投げる相手に、簡単に従うわけが…。



無い、と思いながら少し振り向いた私は。

内心、盛大にギョッとなる。






―――――…ついてきてる…え、本気?






路地を抜け、通りに出れば、逃げ遅れた側の取り残された幾人かまでが、私たちに従う使徒たちの後ろにくっついて走り出した。



「…どうなっているのかしら」



ウンザリした気分を隠さず、憮然と呟けば、隣から、テツさまの落ち着き払った声。

「ミアの声はよく通る。一帯に響いていたのだろう」

追い詰められた状況で、助かる可能性を示した私に、皆が死に物狂いでしがみついて来たってことかしらね、重い…。

テツさまが言葉を重ねた。



「逃げる場所もなく絶望していたところで、生き残る気満々で走っている者がいれば、ついていくのは当たり前だ」



オアシスへ行けば助かるなんて断言してないんだけど! そこらへんは冷静に判断しようよ!


その可能性があるってだけで、私も博打なのよね…。

迷うことなく彼らがついてきているのは、…―――――目印があるせいでもあると思うの。


私は、ちらとテツさまを上目遣いに一瞥した。



このうるわしさ、広告塔としての働きは天下一だわー…。でも時と場合は考えてほしい。







「オアシスに、何かあるのか」








砂漠のお話、もうすこし続きます。

読んでくださった方ありがとうございました~。

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