20.オアシス
事前に言っておくわね。
私に期待とか、恐怖はなかったわ。けど仕方ないわよね? 緊張したって。なにせ。
一晩、テツさまと同じ部屋で過ごしたんだから。
あんなきれいな生き物がすぐ近くにいるって、それだけで浮つくでしょ。
ええ、ミーハーだけど何か。これだから、学院の他の女生徒たちを責められないのよ。
テツさまはしばらく、私の腕の中でじっとしたあと、満足したみたいに離れた。いやそう感じたってだけで、実際どうだったかなんて、分からないわ。
すぐ立ち上がって、放たれたのは、意味不明の一言。
「着替える」
何を言われたのか、本気で理解できなかった。
けど頭の痛いことに、テツさまに、躊躇いはなくてね。すぐ服を脱ぎ始めたから、そこでようやく私の理解が追い付いたってわけ。
私の視線なんて、空気と同じなのよきっと…。
ただし私は、そうじゃない。異性の着替えを冷静に眺めていられるほど、鋼の心は持ってないわ。
速攻、おやすみなさいと背を向けた。ベッドのひとつに潜り込む。平静を装うので精いっぱいよ。明かりの始末もできなかった。…仕方ないわよね。
衣擦れの音が心底、心臓に悪かった。気づいたのは、その時よ。
あれ、私、部屋を出て行った方が正解だったんじゃないの、って。
間違いに気づいた時って言うのは、大概、もう手遅れなのよね。今更のそのそ這い出していくわけにもいかなかった。いえ、すれば良かったのかしら。
でも変に意識していますって、行動で示すのも、なんだか妙な空気になりそうで嫌だったのよ。
でもシーツからかおる太陽の匂いに誘われて、自然と寝入ってた。
テツさまはどうなさったのかと言えば。
私におやすみと返した後、結局何もしゃべらずに明かりの始末をして、別のベッドでお休みになられた。そこまでは把握済み。
そして、朝。
乾いた、さわやかな朝日が室内に差し込んでいる。ただ、西方連合国の日差しは、朝でもきつい。
私はシーツの中の自分を意識。身体の調子も格好も、昨夜と変わらない。結論。
…なにも、ありませんでした。
心の中で、レオ・マイヒェルベックさまに勝利宣言。
―――――どうよ、テツさまは紳士よ!
やだやだ、あんな方の脅しが少しでも胸につかえてたなんて、テツさまに対して、とっても失礼だったわね。
ひょこり、起き上がる私。改めて、室内を見渡した。
この部屋はおそらく、長期入院の患者さん用よね。ジネッティ医師は生活スペースって仰ったけど、ベッドが四つあるもの。視線を巡らせれば、天井裏へ続く階段が見えた。
もしかするとこの上が、私的な部屋なのかも。
テツさまを見遣る。こっちに背中を向けて、起き上がる気配はない。この隙に、ご飯でも作ってこようっと。
まずはオアシスで水を汲んでこないと。それから、台所を借りて、と段取りを考えながら床に足をつける。刹那。
「…着替えないのか」
びっくりした。顔を上げると、テツさまが起き上がってるところだった。
ゆっくり振り向く態度は、私には何の興味もないって風に見える。
とはいえ、朝一番に見るには、心臓に悪い容姿だ。私まだ夢の中にいるのかしらって思う…本気で。
寝起きのせいか、いつもより退廃的な雰囲気がひどい。
そう言えば、昨日も私は結局、そのままの服装で眠ったわけよね。
急に気になった服のしわを伸ばしながら、あいまいに頷く。
「まあそのうち」
そのうちって何さ。自分で自分に、心の中でツッコミ。
なんにせよ、衝立もない同じ部屋にテツさまがいらっしゃるのだ。さすがに、ここでは着替えられない。
言葉を濁した私に何を思ったんだろう。テツさまは私を誘うように、片手を伸ばした。
「手伝おうか?」
はい? 聞いた言葉の意味が理解できず、私はテツさまの指先を、まじまじ。
人差し指が、私の胸元を指さす。
「そのボタンをはずすのも」
離れたところで、指がゆっくり、私の胸元から順に下へと示していく。
「腕と足から服を引き抜くのも」
テツさまの表情に変わりはない。いつも通り。つまりは無表情。でも。
指に肌を直接なぞられているみたいな感覚に襲われる。完全に気のせいだって分かってるのに、私はつい、身をすくめた。
「ミアがする必要はない」
声が、掠れて気怠げ。
「俺がやろう」
指を下したテツさまがゆるりと身を起こす。
テツさまの金色の目に、欲はない。書類仕事でも前にしたような乾いた義務感があるだけ。
それを、目の当たりにして。
私一人、妙な想像をしたような羞恥に見舞われ、赤くなり。
でも、つまりテツさまは彼の手で私を着替えさせる、と仰ったわけで。
…すぐ、血の気が引いたわ。青くなる。
この時、私は悟ったの。
マイヒェルベックさまも、私も、認識を間違っていたって。
なんてこと。
造作一つで見る者の魂くらい奪ってみせそうなとびきりきれいなこの悪魔公は、どうやら全力で―――――私の下僕になろうとしている。
ケモノとか紳士とか言う以前の問題だわ。
…確かに。
ベルシュゼッツ公国の、五大公家は、天魔の魂を持つ者を守護する役割を永劫に負ってるわ。
その掟に忠実であろうとなさっている? なら、着替えの手伝いと言っても、この方は決して私に直接は触れないだろう。だとしても。
それに対する安心は、欠片もない。
いくら図太いと言われる私の心臓だって、テツさまの色気に耐える強靭さは持っていないわ。
だってこれ、日常的に浴びるには、致死量じゃない?
なにより。
今、はっきり思ってしまったことがあるのよね。
多分、あの手に触れてもらえるのは、きっと―――――気持ちがいい。
それなのに決して触れない、となると…ねえそれどんな拷問?
私は自分がそれなりにいやらしい子だとはじめて自覚。次いで、開き直った。
だからなにかしら。ただテツさまに知られると、恥で死ねる気がする。
私の全理性を持って、沈黙を決意。
でもとにかく、そんな理由だから、着替えの手伝いなんて勘弁してください。
私は、きっぱり意識を切り替え、立ち上がる。
「結構です」
勢いのまま、事務的に断った。
「そうか」
淫らとも思える誘いをかけたとも思えないほど、あっさりテツさまは頷く。横顔は、厳格かつ清廉。
いえきっと、誘ったつもりはないわね。
本人からすれば、私の面倒を見るのは仕事みたいなものなんじゃないかしら。
でも毎度思うけど、悪魔の誘惑って、怖い。言葉一つ、仕草一つで、相手を崖っぷちに立たせるの。悪魔は相手が勝手に落ちてくるのを待つだけ。
我に返れば、震える。
「私はこれから、ジネッティ医師の手伝いをしてきます。朝ごはんとか掃除とか。テツさまはゆっくりなさっていてください」
まさかこの方を働かせるわけにはいかない。
テツさまからの発言の間を許さず、私はとっとと階下へ降りていく。だってテツさまは私が立ち働くことを許さない気がしたのよ。だとしても、言葉を聞かなければ問題なし!
この方は、どちらかと言えば、おっとりなさっている。素早い方じゃないわ。ただペースに巻き込まれたら厄介なの。つまりは逃げるが勝ち。
階下へ降りれば、二階よりは涼しい。
ジネッティ医師は…いた。机に突っ伏して、まだ寝てるみたい。昨夜、結局いつまで起きてたのかしら。
私は魔道具の腕輪を操作。
タオルを取り出し、台所へ向かう。よかった、こちらはそんなに散らかってない。
水おけに張ってあった水を、ボウルで少し拝借。顔を洗って、簡単に髪を手櫛で整える。鏡ってどこにあるのかしら。寝起きは髪が跳ねるのよね…。今は諦め、最後に一度手を洗い、床の氷室を開けた。
西方では、台所の床下に、氷室が設置してある。診療所なら必須だ。だけじゃなくって、地下室もあるんだけど、普段は使われない場所ね。
うん、食材は問題ないみたい。なら。
私は軽く身だしなみを整える。台所の片隅に置いてあった空の桶を取り上げ、思い切って診療所のドアを開けた。
とたん、焼けた砂の匂いが鼻を突く。
日差しは強いが、まだ朝早い砂の道には、人通りがちらほらあるだけ。昨日の、暴力の気配を身にまとった男たちが待伏せ、などということはないみたい。結局、彼らは何だったのかしら。
後ろ手にドアをしめ、用心しながら歩き出す。
今の私には守護の指輪があるし、攻撃用とまではいかないまでも、自衛の魔道具なら、腕輪の中に入ってる。
昨日の連中くらいなら、出くわしても問題なかった。
オアシスを目指し、深呼吸。懐かしい。どこに行っても、私はそう感じてしまう。
幼い頃、色々な場所を旅していたせいかしらね。どこにいたって、当時の面影が、眼裏に蘇るの。
そうならない場所の方が少ない。
だからオアシスの場所も、案内されなくたって、分かるわ。
いえ、実際、空気がここまで乾いていると、教えられなくっても匂いがするんだけどね。水の匂い。
ちなみに、ジネッティ医師の診療所は、オアシスに近い場所にある。つまりはこの街の中心地ってわけね。
オアシスにたどり着くには市場を通り抜けていく必要があるんだけど、時間が早いせいか、今から店の準備に取り掛かろうかって雰囲気が強い。ただしこういう空気が漂ってれば、開店はすぐのはず。
露店用のテントを張り出そうって外に出てきた何人かと目が合った。営業スマイルで挨拶。最中、朝帰りかいって、冷やかしの声がかかる。私の格好のせいね。明らかに、服のサイズが合っていないもの。これじゃ逆に目立つ。
通りを歩いているうちに、衣服らしいものを並べ始めてる女性を見つけた。奥で着替えて行っていいと言うから、比較的安価なものを買い求める。
地元の人間と同じ格好をしていれば、地元の人間じゃなくても案外と風景に溶け込めるものだし、どこに行っても、大概風習に倣うようにしてる。
身体にぴったりしたインナーに、サルエルパンツ。帯をくるくる巻いて、急激な日焼け防止の上着を羽織る。柄物の長いショールを頭と首に巻いて、足元はサンダルで固めた。お店の人に礼を言ってオアシスへ急ぐ。
もともと着てた服は、魔道具にしまってある。こういう格好だと、立派に地元の人間だとつい自画自賛。
水の匂いが濃くなったと思えば、いっきに視界が明け、陽光を反射する水面が見えた。
たっぷりとした水は澄んで、この暑さの中、厳しい渇きを知らないように穏やかだ。
これが、オアシス。
青く澄み渡った水は、久しぶりに来たけど、いつ見ても癒しよね。
西方のそれぞれの集落、街において、オアシスは宝。天魔の恩恵から見放された大地なんて言われてるけど、まさにオアシスは恩恵そのものだと思うんだけどな。
祭りの日、人々は、この水源地と生活の場の周辺を、円を描くようにして練り歩き、踏み固められたその小路にとりどりの花を撒くのよ。まるで結界を張ってるみたいにね。
祭りの日でなくたって、長い歴史の中、代々踏み固められてきた裸の土の小路はよく分かる。
それらを含めて、オアシスをぐるりと見渡すと、既に何人かの女の人たちが水を汲みに来てた。話し込んでいる。
挨拶したものの、邪魔にならないよう彼女たちがいる場所を避け、水をくみ上げた。と。
「じゃあ、二、三日はどこの診療所に行っても、だめだねぇ」
苦笑気味の言葉が聴こえて、一瞬動きが止まる。すぐ、不自然にならないよう、動きを再開。
「金も落としていってくれるからね、仕方ないけど…不便だね」
私はオアシスの水に手を突っ込んだ。外気より温度は低い。
水を掬い上げ、汗ばんだ手を少し洗わせてもらう。ちょっと、さっぱりした。でも。
「ほんの少しの辛抱さ。それにどうせ居つかないよ、連中は」
ご婦人方の歓談を聞き流しながら、私は内心、首をひねる。
光の加減かしら。
なんだか、手を突っ込んだ一瞬、オアシスがつよく輝いた気がした。…いえ、気のせいね。たぶん。
だって誰も何も言ってないし。
「だったら歓待して、機嫌よくいい商売相手になってもらおうじゃないか」
しかし、なんの話だろう。混ざるべきか、悩んだのは一瞬。
彼女たちの様子からして、当たり前の話みたい。なら、何も知らないことはいらない不審を呼ぶわ。
どうせ、戻ればジネッティ医師に事情を聞ける。
立ち上がり、視線を向こう岸に向け、…あれ、何かしら。
例の小路に、なにか草が生えているのが見えた。水面の反射がきつくて幻かとも思ったけど、目を凝らせば、やっぱり何か、小さな草が生えてきてる。しかも小路沿いに点々と…え、さっきまで何もなかったわよね?
でも私はいつもここで生活してるわけじゃない。生えてなかったって記憶の方が間違っていると言われたら、そうかもって程度のおぼろげな印象しかなかった。
あらでも、あの植物。見覚えがあるような?
実は、私の学院での専攻は薬学と植物学なの。将来は薬師になるつもりだから、必須よね。
それも、店を構えるんじゃなくって、諸国を回る行商。
学院まで進んだ人間が本気かって言われそうだけど、ぶっちゃけこの仕事、なり手がいないのよ。危険この上ないからね。それに、楽じゃない。
ま、だからこそ、食いっぱぐれることはないでしょ?
私の場合、旅慣れているし、むしろ旅そのものが故郷って言うか。母のお腹にいるときから旅してたものね。旅の危険における対処法も知識を持ってる。なによりこの仕事なら、縁故のあるハイネマン商会や<白陽>とそれで関わり続けることができるわ。
なにもこれ、いきなり思いついたものじゃないのよ。物心ついた時から、修道院でお勤めの一環として薬草は煎じていたし、慣れ親しんでる。
だから自然と、学院を卒業したら、旅に出る。そういうつもりで、いたの。
…今となっては、どうなるか分からないけどね。
将来の夢、とか、そんな大層なものじゃない。なんとなく、そうなるのかなって思ってて。
もし、それが取り上げられるんだとしたら。
いまいち、実感はわかないけど。じくり、微かに胸が痛む。
…いや、かも。
いきなり学院の外に放り出されて、久しぶりに外の空気を吸ったせいかしら。
旅の感覚が戻ってきて、逆に息苦しくなってきた。
ベルシュゼッツがもし、私を閉じ込める意向を示したら、この自由さは消える。
息の根を、止められる。
あんまりばたばたしてて、全然向き合ってなかったものと、曲がり角でいきなり正面衝突した気分。あ、だめだ。これは、考え続けると、際限なく落ち込む。
気分を切り替えないと。よし、目に映ったものに集中。
…うん、やっぱり、引っかかる。今も見えてる植物の若芽が。
目を凝らすのも疲れて、私、ぐるりとオアシスの縁を回る。そんなにかからず、目当ての場所にたどり着いた。しゃがみ込んで、上からしげしげ。
んん?
つい、難しい顔になってたと思う。だってこの植物、私の記憶が確かなら。
(濃密な魔力が流れている土地にしか生えない…そう、ヴァジュリ)
魔力のある地になら万年生えてて、白くて丸い花を咲かせる。水が必要じゃないから、魔力が豊富なら砂漠でも元気に育つ。
根にも茎にも薬効はあるけど、量を間違えれば毒になるのよね。
ここに魔力が流れてるってこと?
それはそれで問題ないけど、ヴァジュリが根付くような魔力って、相当よね。いったいどこから。
…いいわ。これについても、ジネッティ医師に聞こう。
重くなった桶を下げ、軽い足取りで踵を返せば、
「お使いかしら、お嬢ちゃん、偉いわねえ」
そんな言葉に笑顔を返し、オアシスを後にした。ちびっていうのは場合によっては役に立つけど、複雑よね。
帰る道では、砂色だった世界に彩りが増えている。朝市の新鮮な活気が溢れていた。
呼び込みを軽く流しながら、診療所へ向かう。途中、
「じゃあ、昨夜はジネッティさんのところか」
誰かの言葉が、ため息交じりに耳に届いた。
「あそこはぎりぎりまで薬を置いてくれるから…」
「医療組合<白陽>に籍を置いてるから、質的にも信用できるしね」
「仕方ないけど、しばらくは、どこも当てにならないか」
「治したいなら奇跡を行うって言われても、タダじゃないしなぁ…」
話し込むひとたちを横目にしながら、通りを横切った私が診療所の扉へ向かえば、周囲に少し、沈黙の空白が満ちた気がする。
気にせず、大きくノックし、
「ただいま戻りました」
声をかけて、素知らぬ顔で中に入る。
石造りの建物の中は影であることもあって、外より格段に涼しい。
「おおおかえりなさいお嬢さま」
抱き着かんばかりの勢いのジネッティ医師に出迎えられた。ショールを解きながら、周囲を見渡す私。
「テツさまは」
「おかえり」
テツさまの冷静な声が、台所から返った。その時点で、勘が叫んだ。
きっとこれ、困った状況になってるわ。
ジネッティ医師を見る。彼は無言で何度も頷いた。彼は今にも泣き出しそう。
…なんだかごめん。一人にして。
私は頷き返し、桶を持ったまま台所へ。
「ただいま、」
とたん、鼻先に漂う良いにおい。机には、既にいくつかの食事が並べられている。
「…戻りました」
「ちょうどいい塩梅だな」
最後の一皿を机の上に置き、テツさまは私の手から桶を取り上げた。ふと私を見直して、
「着替えたのか」
目ざとい指摘に、なんとなく出がけの言葉を思い出して落ち着けなくなる。
「はい」
逃げることもかなわず頷けば、テツさまの目尻が小さく和んだ。
「似合う」
「あ、りがとうございます。テツさまも」
テツさまも着替えたのか、地元の服装を身に着けている。ジネッティ医師のものかしら。
「朝食ができたところだ」
「ありがとうゴザイマス」
抑揚のない返事をしながら、私はジネッティ医師を横目にした。彼は再度頷く。
この食卓の準備をすべてテツさまが整えられたというのか。ありあわせの材料で。そしてこの短時間で…なんという生活力。本気で大公家はどういう教育を子らに行なっているのかしら。
「この水は、飲料用で間違いないか」
「はい、オアシスの水です」
「オアシス」
黄金の目が、素直な好奇心を浮かべて桶の中の水を覗き込む。珍しい表情だ。
なんとなく目を離せないでいると、
「念のため、いったん沸かしましょう。地元の人間以外が生水を口にするのはちょっと」
ようやく割り込めた、といった感じで、ジネッティ医師。
「続きはぼくがやりますよ。二人とも先に食べてください。テーブルは三人が座るには狭い」
テーブルを見遣り、ついで私はテツさまと顔を見合わせた。確かに、小さい。
「お二人は、そこの水差しに入っている水を飲んでください。それとも、果汁がいいですか」
よっぽど、手持無沙汰だったみたい。背中に、役目があることに対する安堵が全力で漂ってた。
「水でいい」
「…では、お言葉に甘えて」
目でテツさまを促し、揃って席に着く。
パンにバターにチーズ、ベーコンエッグと豆のスープに果物数種類。
寮の食事を思えば簡素なものだが、はっきり言おう、あれは贅沢だわ。
今食卓に並んでいる食事だって、砂漠での生活を考えれば十分贅沢の類。
卵も貴重よね。使ってよかったのかしら。
「お嬢さま、食事がすんだら、すぐにでも出立したほうがいい」
薬缶を手に、ジネッティ医師が疲れ気味に言う。
「あ、先に、天賢議会の議席持ちの家を教えますね。あとは、そう、<塔>の出張所」
「ありがとうございます、助かります」
ジネッティ医師に礼を言って、テツさまにいただきます、と合掌。スープを口に含み、少し目を見開く。
「おいしいです、テツさま」
単純に塩と胡椒だけじゃない、うん、スパイスが使われてた。複雑な風味。
そうか、とテツさまは頷いただけ。でも、なんとなく嬉しそう、かしら。
意外な得意技だわ。基本、なんでもできるのね。
なんだか少し悔しい気分になりながら、ジネッティ医師を見遣る。
「すぐにでも出立したほうがいいって、これから危険なことが起こるんですか?」
「危険…では、ないんだけどね。街特有の暗黙のルールって言うか、そういうの、あるでしょ。知らないとちょっと…やりにくくなる、かも」
「問題は、噂の、金を落としていってくれる客人、ですか?」
言えば、ジネッティ医師は額を押さえた。
目の端で、テツさまは黙々と食事を続けていらっしゃる。さすが、所作がきれいだ。
「もうそこまで知ってるんだ」
「詳しいことは知りません。ただ、自然に耳に入る会話や皆の様子からして、一応歓迎はするけど困ってもいるって感じでしたね。皆の態度からして、もしかして、定期的に来てるんですか?」
「そうだよ」
「では…この街では、定期的に薬を取り上げられるのですか?」
薬って、一言で簡単に括ってくれるけど。
きちんとしたものが出来上がるまでに、どれだけの労力がかかってると思うの。薬草を一から育てて、一番効力のある時期に収穫して、最も適した方法で薬に変えていく過程の大変さ、どれだけわかってるのかしら。…まあそこが楽しさと言えば楽しさなんだけど。
ジネッティ医師は苦笑して、作業に戻る。
「お嬢さまはすぐに出ていくから知らなくっていいって言いたいところだけど、たまに西方にお立ち寄りになるから…そうですね、情勢の一つとしてお耳に入れておいて頂けたならいいかな」
薬缶を火にかけ、ジネッティ医師は私たちに向き直った。
「結論から言えば、…―――――使徒が巡回してるんです」
一瞬、テツさまの手が止まる。表情は一つも動かない。すぐ、食事を再開。私はつい、顔をしかめた。
「…天魔の使徒?」
「ベルシュゼッツの方々は、聞きたくもない名前と思いますが」
テツさまを気にするように視線を流し、ジネッティ医師は身を守る態度で腕を組む。
「彼らはそれでも金を落としていってくれる客人であり、ゆえに、薬を取り上げられることも、…まぁ目をつむるしかないんですよ」
ますます話が読めない。使徒がなぜ、薬を取り上げるのか。
「なんにせよ、後で返ってきますからね、言ってくれたら『ああ来るんだな』と思って素直に渡すんですが…」
ジネッティ医師は語尾を濁らせた。
「昨夜みたいな乱暴は、なら、はじめてなんですか」
「そうなんですよ」
揃って首を傾げる。
今までと、今回の、状況が何か違っているのかしら。
「ええと」
私はパンをちぎり、片手を挙げた。まずは情報の整理よね。
「まずなぜ、使徒が薬を回収なんてするんです?」
薬と天魔の使徒という要素に、つながりが感じられない。
「彼らはより多くの見世物を実行したいんですよ」
「見世物ですか?」
ジネッティ医師は重々しく頷いた。
「天魔の奇跡です」
読んでくださった方ありがとうございました~。




