だ、だいじょーぶだからー!
「……おはよー」
「おはよう、遅かったね」
次の日、普段より早く起きるかと思っていたリタの期待を裏切り、フィルはいつも通りの時間に起きてきた。はだけたガウンから上半身は露わになり、なぜか腰に巻きついている。
「どうやったらそんな感じになるの……」
「んー?」
「いや、なんでもない」
ペタペタと歩いて椅子に座ろうとするフィルの服を整え、リタはため息をついた。フィルのきめ細かく白い肌は、少しどこかに擦っただけで傷つきそうだ。
「パン用意するからちょっと待ってね」
フィルを椅子に座らせ、キッチンに入る。パンとジャムを用意している時、フィルはあくびをしてリタに話しかけた。
「んー、なんか思ったよりお腹すいてないかもー」
「そう?」
「いつもとおんなじくらいー」
「じゃあ今日から食べるのやめる?」
「それはだめー!」
クスクスと笑って返事をしながら、ミルクをカップに注ぐ。よそ見をしたせいで縁のギリギリまで入ってしまい、リタは慌てて手を止めた。一緒に運ぼうと思っていたパンとジャムを先にフィルの前へ運ぶ。
目の前に並んだパンを見て、フィルのお腹がぐーと控えめに鳴った。その音を聞いてリタはフッと笑う。
「お腹空いてるじゃん」
「空いてたねー。いっただきまーす」
フィルがジャムに手を伸ばしたのを確認して、リタは再びキッチンへ戻った。カップをそーっと持ち上げ、揺らさないようにゆっくりと運ぶ。すり足でそろりそろりと歩くリタを見て、フィルは不思議そうな表情でジャムの塗られたパンをかじった。
「何してるのー?」
「わ、話しかけないで」
「えー、なにー」
集中が途切れるとこぼしそうで、リタはそれ以降テーブルに着くまでフィルの言葉を無視し続ける。ようやくテーブルにカップを置くと、フーと息をついた。
「はい、フィル」
「おー、ありがとー」
「なんかすごく疲れた……」
脱力してフィルの向かいに座る。フィルがカップを持ち上げようとしたので、リタは慌てて止めた。
「ちょ、私がこぼさないように運んだのに!」
「えー、どうやって飲むのー」
持ち手にかけた指を外して、反対の手に持っていたパンをかじる。飲み方を提案しようとしたリタがフッとフィルを見ると、頰についたジャムが目に入った。
「付いてるよ」
そう言ってリタが自分の頰をつつくと、フィルは口の中に残っていたパンをゴクンと飲み込んだ。大きい塊だったのかゲホゲホと咳き込んで、カップを掴む。もちろんその雑な動作に、カップの中のミルクはぶちまけられた。
「あー、動かないで! すぐ拭くから!」
「ごめんなさーい……」
立ち上がったフィルを制止させ、リタはパタパタとタオルを取りに走る。素早くテーブルと床を拭き、ミルクで濡れたバスローブを脱がせた。再び走り、フィルの服を一着取って戻る。
「これ着て。椅子は濡れてないよね?」
「んー、ありがとー」
素直に服を着たフィルは、椅子に座り直した。未だにジャムが付いており、リタは再び自分の頰をつつく。
「まだ付いてるよ」
再びビクリと反応したフィルだったが、そこにはこぼれるようなものはもうない。フィルは首を縦だか横だかわからない方向に勢いよく動かした。その慌てた様子に、リタは首をかしげる。
「どうしたの?」
「う、うん! だいじょーぶ!」
「大丈夫ってなによ」
「だ、だいじょーぶだからー!」
ケラケラと笑うリタに、フィルは手でゴシゴシと頰を拭う。その様子に、リタはより一層笑い声を強めた。それでもなお、フィルは頰をこする。
「それ、伸びてるだけだよ。ちょっと待ってて」
空になったカップに、キッチンでミルクを注ぐ。それから、乾いたタオルを濡らしてフィルの元へ戻った。
「ん、入れ直したから飲んでいいよ」
「ありがとー! わ、なにするのー」
フィルはお礼を言ったものの、自分の方に伸ばされたタオルを見て後ずさる。
「え? ほっぺた拭こうと思って」
「だいじょーぶ! 気にならないからー!」
「いや、私が気になるんだってば」
頰を拭こうとしているだけなのに、ブンブンと髪を振り回して首を横に振るフィルの様子は不自然だ。寝ぼけているんだろうか、とリタはソッと頭の上に手を置く。
「拭くだけだから」
「わ、わたしが自分でやるからー」
「ジッとしてってば」
ギュッと目をつぶったフィルの頰に優しくタオルを当て、ついたジャムを拭き取った。数回拭くだけで綺麗になったフィルの頰は、なぜか赤く染まっている。
「ごめん、こすりすぎた?」
「だいじょーぶ。もーいーい?」
「ちよっと赤くなっちゃった」
タオルとの摩擦で赤くなったと思ったリタは、ごめんね、とその頰に指で触れた。その瞬間、椅子をガタリと鳴らして飛び上がったフィル。守るように頰に両手を当て、目を伏せている。
「ごめん、そんなに痛かった?」
フィルの柔らかい肌は少しのことで傷つけそうだとさっき思ったばっかりだった。本当に傷つけてしまったのか、とリタは慌てて声をかける。
「だ、だいじょーぶ!」
「大丈夫ばっかりだけど、本当に?」
「ほんとーに!」
首を横に振ったフィルの様子は、明らかにおかしい。リタはゆっくりとフィルに近づき、頭に手を乗せた。
「ねえ、どうしたの?」
「な、なんでもないー」
「なんでもないことないでしょ。ミルクこぼしたことなら怒ってないよ」
「わかってるー……」
目を合わせようとしないフィルの視線は、あっちこっちへせわしなく動いている。隠した頰はそのままだが、リタは髪から覗く耳が真っ赤なことに気がついた。その時、フィルが小さい声で話し始めた。
「……だって、リタがきのーあんなことするからー」
「え?」
「きのー寝る前、リタがほっぺにー……」
そう言われて、リタは思いだした。恥ずかしすぎてなかったことにすらしようと思っていたその自分の行動に、リタの頰もほんのり赤くなる。
「そ、それはごめん」
だから頰を触られたくなかったんだ、と思ったと同時に、先にしたのはフィルなのに、と思い出した。自分からしてた時は恥ずかしがるそぶりも見せなかったのに。
「あ、えっと、うん。とりあえずパン食べたら?」
黙って床に視線を落としているフィルに、リタはそう声をかけた。こくん、と頷いたフィルは頰を隠したまま椅子に座り、恐る恐る右手を外してパンを手に取る。リタの視線が気になり、フィルはパンを口に放り込んで再び頰を隠した。
少し気まずい空気が流れたまま、フィルの朝食は進められる。真っ赤だった耳も朝食が終わった頃にはほとんどおさまっていた。




