49話 桜子ですけど、眉に唾を付けてください
1939年7月上旬 東京 秩父宮邸
【理化学研究所のリーゼ・マイトナー博士が、核分裂反応に成功したと発表! 世界初の快挙か?】
ほうほう、マイトナー博士も着実に実績を積み上げているようでなによりです。しかし、出来るのであれば、極秘にしておきたかった気がしないでもない。
でも、新たな発見や発明を公表するのは、科学者としての義務のような気もしますし、うーむ…… パトロンからしてみれば、痛し痒しといったところでしょうかね?
といいますか、核分裂反応の成功が、人類に何を齎すのか理解している人間が、この地球上にどれだけいるのでしょうか?
記事を書いた新聞記者も、きっと理解しないで書いている気がしますね。
でも、優秀な物理学者ならば、理解してしまうんだろうなぁ……
欧米の優秀な科学者を数十人ぐらい闇に葬り去っておいた方が、後々の世の為にも、枕を高くして眠ることができて良かったのかも知れない。
いかん、それは科学技術の進歩に対しての冒涜でもあるし、まだ、危ない核兵器を生み出してさえいない科学者を殺すのも、倫理的にも人道的にも後味が悪すぎましたね。
思わず、ダーク桜子ちゃんに変身してしまうところでしたよ。
それはそうと、ドイツのオットー・ハーン博士は、まだ核分裂反応に成功してなかったのかな?
成功していれば、大々的に発表するはずですので、仮に偶然の産物で実験に成功していたとしても、まだそれが核分裂反応だと気が付いてなかったのかも知れませんね。
まあ、オットー・ハーンからの手紙がマイトナー博士に届かなかったのだから、そうなるのもやむを得ないのかな?
【ノモンハン大戦車戦! 精強なる大日本帝国陸軍戦車部隊が、ソ連軍戦車を撃破!】
なになに……
【大日本帝国陸軍発表! 昨日まで数日間行われた、満蒙国境のノモンハンでソビエト赤軍の戦車部隊との戦闘で、我が精強なる陸軍戦車部隊が、ノモンハンの荒野を縦横無尽に暴れ回り、ソ連軍戦車を次々に撃破!
撃破された敵の戦闘車両の数は、三百台以上にも及ぶ! 我が方の戦車の損害は二十五両。そのうち、戦線復帰出来る車両は半分の見込み!】
は……? なに、この大本営発表は?
なんですかこれ? こんな、10:1以上のキルレシオなんてあり得るのか? 戦線復帰出来る戦車を除いたら、20:1以上のキチガイ染みたキルレシオになっちゃうんですよ? 陸戦でこんなのあり得ん……
こんな発表は、完全に眉唾物ですよね? 嘘を吐くのでも、もう少しマシな嘘を吐けと言いたい。
「お父様! お父様!」
「桜子さん、そんなに慌ててどうしたんだい?」
「ノモンハンですよ! ノモンハン!」
「ノモンハンがどうしのかな? 心配しなくても我が国の勝ち戦だよ」
それは、新聞を読んで知っているのですが、そうではなくて、
「問題は撃破した敵の数ですよ! 数!」
「ああ、そのことでしたか。まあ、三百両はちょっとオーバーだけど、二百両以上撃破したのは確実みたいだよ」
「なん…だ…と!?」
二百台以上の撃破は確実だと? いくら、私がテコ入れしたといっても、そんなにもキルレシオで差が付くものなのか?
この当時のソ連の主力戦車は、BT-5やBT-7とかだったよな? ソ連の戦車には、T-34以降の丈夫なイメージがあるから、BT-7とかも装甲が分厚いのだと思ってしまっていたけど、案外、脆かったのでしょうかね?
「桜子さん、言葉が汚いですよ」
「ごめんなさい、ちょっと興奮してしまいました。それで、二百台以上、敵の戦車を撃破したのですか?」
「半分以上は、空からの攻撃で撃破したらしいけどね」
あー、そういうことでしたか。制空権を失ったら悲惨な一言ですしね。空から、九八式戦闘機の12.7mm機銃や小型爆弾に狙われて、次々に撃破されてしまったみたいですね。
戦車は前面と砲塔は、装甲を分厚くしていますけど、上部や後部などの装甲は、それほど分厚くありませんので、12.7mmでも貫通しそうな気がしますしね。
「なるほど、合点が行きました」
「そうだね。前に桜子さんが言っていた、制空権を失ったら惨めな末路を辿るというのが、これがそうだったのかと、私にも実感として理解できましたよ」
ふふふっ、お父様も理解して下さいましたか。もっと沢山の軍人や政治家に理解してもらいたいですね。そう、肌で現実に体験する前に……
イメージ力というのは、政治家や軍人に必要な資質の一つに絶対に入ると思います。無能な働き者では、国が傾くのですから。下手をしたら滅びかねません。
話がそれた。
「それでも、キルレシオが10対1以上だなんて、近代と前近代の戦いみたいです」
「ああ、うん、そうだね。敵の戦車は、ブリキの玩具みたいに弱くて、よく燃えたみたいだと聞いたよ」
「ブリキの玩具……」
「実際に、撃破したソ連軍の戦車を調べてみたら、装甲も日本の戦車よりも薄かったと言ってたなぁ」
なぬ!? チハたんよりも、装甲が薄かっただと? どういうことだってばよ……? まあ、言葉そのままの意味なんでしょうけど、ソ連戦車=頑丈というのは、T-34以降が正解だったのでしたか。
ということは、史実でも、この世界線でも、ノモンハン事件の戦訓を取り入れさせてしまい、ソ連の戦車を強化する手助けをしたのって、もしかして、日本ってことになるんじゃね?
もしそれが本当ならば、チョビ髭おじさんに少しだけ同情しちゃいます…… ええ、ほんの1ミリグラム程度ですけど。
「そうだったんですかぁ。それならば、納得できる話ですね」
「それに、エンジンもガソリンエンジンだったから、燃えやすかったのだろうね」
「日本の戦車は、ディーゼルエンジンですよね?」
「今のチハやジロとかは、ディーゼルエンジンだから、ガソリンエンジンよりは燃えにくいだろうね」
「日本の戦車は、ディーゼルエンジンで助かりましたね!」
そう考えると、なんで工業先進国であったドイツとかで、わざわざ戦車に燃えやすいガソリンエンジンを搭載したのでしょうかね?
一般的に言われているのは、ガソリンエンジンよりもディーゼルエンジンの方が、粘りがある。とか言われていたような気がするのですけど?
だから、未来では、トラックやダンプなどの重量がある車は、その殆どがディーゼルエンジンを搭載しているのですしね。戦車は重たいのだから、ディーゼルエンジンの方が都合が良さそうに思えるのだけどなぁ。
でも、もしかしたら、ディーゼルエンジンにも、私が知らないだけで、デメリットがあったのかも知れませんね。技術的制約とかでしょうか? まあ、専門的に考えるのは技術者に任せましょう。
「そうなるのかな? もっとも、撃破された戦車の大半はピアノ線という細い鋼鉄のワイヤーが、履帯に絡まって動けなくなった所を狙われて撃破されたみたいだね」
「戦車に随伴する工兵か歩兵が、その場に居なかったのですか?」
「詳しい戦闘報告はまだ上がってきてないから、そこまでの詳しい事は分からないなぁ」
もしかしたら、戦車と歩兵の連携が、あまり上手く行ってなかったのかも知れませんね。日本人って組織人のクセして、功名心にも駆られるという、難儀な民族性だと思いますしね……
統帥権干犯、独断専行、とかの体質は、そうそう変わるものではありませんしね。
「それもそうでしたね。お父様、ありがとうございました!」
「どういたしまして。それはそうと、桜子さん」
「なんでしょうか、お父様?」
「キルレシオなんて言葉は、誰に教わったのかな?」
なぬ!? 私、そんなこと言ったか? そういえば、言ってましたね……
どうやって誤魔化しましょうか? 桜子ちゃんピンチです!
「え、えーと…… 多分、イギリスかどっかでだったかなー? 私、ちょっとお腹が痛くなってきましたので、もう寝ますね!」
「あっ、ちょっと……」
「おやすみなさーい!」
「あーあ…… ふぅ、まあいいですか。桜子さんは桜子さんなんですし。それにしても、制空権か…… 桜子さんが航空機の性能を上げる為に、中島大臣と裏でコソコソやっていた事が実を結ぶとはね……」
ふぅ、危なかったぜ! セーフだよね?
思わずポロっと、外来語が出てしまうのを直すのは難しそうな気がしますよ。
1939年7月中旬 ソビエト連邦 モスクワ
「これは、重光大使ようこそ。本日はどのような用件で?」
「モロトフ閣下、少し顔色が優れないようですけど、大丈夫ですかな?」
「はははっ、ご心配には及びませんよ。それで、本題は?」
「そろそろ、ノモンハンから始まった一連の戦闘を終わりにしたいとは思いませんか?」
「ノモンハンですか…… 貴国、日本の戦車は随分と優秀なようですなぁ。率直に言いまして、羨ましいですぞ」
「おかげさまで、現状では我が国が有利みたいですな。ですが、我が国は平和を望んでおります」
「それは勿論、平和が回復するのが一番ではありますが……」
「落としどころが問題という事ですな?」
「ええ、まあ。貴国によってモンゴルが主張する国境が侵犯されている訳ですから」
「今日は、その為にやって来たのですよ」
「ほう? モンゴルが主張するラインまで即時に撤退してくれるのでしょうか?」
「お互いが、現状で進出しているラインでの停戦で如何でしょうか?」
「話になりませんな。大使殿がお帰りを希望だそうだ」
「まあ、貴国の主張では、そうなりますわな。しかしこれからも、現地での武力衝突が続いたとしても、対話は切らさずに続けて行きたいものですな」
「話し相手がいなければ、纏まる話も纏まりませんからな」
「ええ、そういうことです」
「わかりました」
「では、今日はこの辺で失礼します」
「ええ、また後日にでも改めて」




