24話 リーゼ・マイトナーですが、寒気がします……
「ウランが完全に核分裂をすれば、推定で同量のトリニトロトルオールが持つエネルギーの、約50万倍から1500万倍のエネルギーを得られます」
「30倍の幅があるだなんて、随分といい加減な計算ね」
TNT火薬で換算するだなんて、爆薬を作る気満々じゃないのよ!
それにしても、1500万倍……? その計算が本当ならば、世界のエネルギー事情が一変する。そりゃ、日本が力を入れて私を勧誘しに来るわけだ。
「詳しいことは、まだ分かってない段階ですので、概算といいますか机上の空論の域を出てないのです」
「それで、日本はその研究を私にも手伝って欲しいという事ですか……」
「E=mc2の法則を、世界で初めて実証してみたいとは思いませんか?」
「それを実証出来れば、それこそ科学者冥利に尽きるわね」
アインシュタイン博士も理論だけで、実証はされてませんから、私が質量とエネルギーの等価性を実証出来れば、世界初の栄誉という事ですか。
しかし、このお姫様は、それを既に知っているような言い方をするのは何故? 核分裂反応はE=mc2に該当しなかった? いや? 恐らく理論的には該当するはずだ。
でも、世界で初めてとも言ってますし、どういう事なのでしょうか?
謎が深まるばかりですね……
「このままマイトナー博士がドイツにいても、ユダヤ人は迫害され続けるだけかと思いますので、この話は貴女にとっても渡りに船かと思いますよ?」
「だからといって、この歳で極東の日本に行くのもねぇ……」
私は来年で60になる、おばあちゃんなのですから、知らない異国の地に行くのは余り気が進みませんね。
「日本には、清水の舞台から飛び降りるという言葉があります」
「それは、どういった意味なのです?」
「人間、思い切った決断を実行する時は、誰しも躊躇するものです。しかし、なにかを成すためには重大な決断を迫られます。そこで、清水の舞台から飛び降りるつもりで、決断をして実行すれば、事が成就するという故事です」
「なるほどね」
つまり、死ぬ気で頑張れとか、死んだつもりで頑張れという事でしょうか? 武士道や精神力が好きな、いかにも日本人的な考え方みたいですね。
「日本に来ていただけるのであれば、カイザー・ヴィルヘルム研究所で、マイトナー博士が得ている給料の10倍の額を提供する予定なのですけど、いかがでしょうか?」
「じゅ、10倍……」
ちょっとだけ、心が揺れ動かされる金額ですね。しかし、
「でも、美味しい話には裏があるのでしょう?」
「ウランから放出される放射線は、管理を徹底しないと危険ではあります」
なるほど。ウランは取り扱いを誤れば、危険という事を知っていましたか。それで、キュリー夫人も命を縮めた可能性もあったのでしたね。
しかし、私の残りの寿命を考えれば、その程度の危険は些細な危険なのかも知れません。
「爆弾は作らないわよ」
「マイトナー博士には、原子力発電の方の研究をして頂くつもりですので、兵器開発には係わらなくても大丈夫ですよ」
「うーん……」
つまり、ウランを使った発電の研究をする傍らで、ウランを使った爆弾の研究もすると暗に言っているようなものか。
「給料の支払いの半分は日本円で、残りの半分づつをスターリング・ポンドとドルで、お支払いすると言ったらどうです?」
「その話、乗った!」
給料の半分を、スターリング・ポンドとアメリカドルで貰えるのは魅力的ですね。
けして、お金に目が眩んだ訳ではないのです。でも、お金は生活をする上で重要なファクターを占めているのですから。
「では、この契約書にサインをお願いします」
「随分と手際が良いことですね……」
「善は急げとも申しますので」
……私の気が変わらないうちに、という事ですか。まあ、いいでしょう。
「はい、確認しました。これで、マイトナー博士は理化学研究所の原子物理学主任研究員ですね。カイザー・ヴィルヘルム研究所の方は8月中には退職して下さい。秋には、私と一緒に日本に渡る予定ですので、そのつもりでお願いしますね」
「ええ、了解したわ。それで、日本に行ったとしても、本当に爆弾製造には係わらなくていいのね?」
「日本の科学者も、それほど欧米の科学者に引けは取りませんので、そっちは独力でなんとかします」
「それは、仁科博士や長岡博士の活躍を見れば分かるわ」
「奇想天外な発想や応用力にやや欠けるなど、多少、頭が固いのが難点ではありますがね。マイトナー博士には、安心して原子力発電の研究に取り組んで頂けると思います」
原子力…… 原子からエネルギーを取り出せると確信している言い方ですね。
「分かりました。連絡はどうすればいいのかしら?」
「秋まで、マイトナー博士の身辺警護を兼ねて、雑用係を付けますので、その者が取次ぎます」
護衛兼監視といったところでしょうね。
「分かりました。それで、兵器転用の話ですけど、仮に、TNT火薬の1500万倍のエネルギーを得られるという計算が本当ならば、その爆弾一発で都市が吹き飛ぶわよ」
そんな威力がありすぎる爆弾が都市にでも落とされたら、兵士も民間人も関係なく殺傷して、多くの人命が失われるでしょう。
それは、既に戦争とは言わない。戦争の名を借りた大量虐殺だ。
「兵器、それ自体には罪も意志もないのです。その兵器を使うも使わないのも、いつの時代でも、人の意志によってのみ決めることなのですから」
っ!? 雰囲気が変わった?
「そうよね…… 銃、それ自体の意志では人を撃たないわね」
「原子爆弾は、たとえ日本が開発しなくても、ドイツは勿論のこと、アメリカやイギリス、ソ連などの大国は、いずれ近いうちに開発に着手して、開発にも成功するでしょう」
「いずれは、そうなるのでしょうね……」
「愚かな人類は、核による相互確証破壊理論によってのみ、平和が保たれる時代が、やがて訪れるでしょう」
「核による相互確証破壊理論?」
なんだ? その物騒な名称は?
つまり、自分が敵を攻撃して都市を破壊すれば、報復として敵も相手の都市を破壊する? そういう事なのか?
そして、その破壊の規模と被害が大きすぎるから、敵の報復を恐れて迂闊には敵を攻撃することが出来ないので、それが担保となって平和が成立するという事ですか……
おぞましい世界ですね。
しかし、ウランを使った原子爆弾が開発されれば、その可能性は十分にあり得る未来なのかも知れません。
「ええ、核による抑止力は、非常に危ういバランスの上に成り立ってる平和。偽りの平和なのかも知れません」
「核による抑止力……」
将来は核兵器が戦艦の代わりに、戦争を防ぐ為の抑止力となる? ああ、だから、相互確証破壊理論なのか。
「ああ、そのことに関して大事なことを思い出しました。貴女の甥である、オットー・フリッシュさん」
「確かに、オットーは私の甥ですけど、その彼が何か?」
「マイトナー博士からも、彼を一緒に日本に連れて行くのを誘ってみてください」
「オットーを? 彼は今、コペンハーゲンのボーア博士の所に居るのですが?」
「ええ、存じております。彼は優秀な科学者です」
「甥に代わって礼を申します」
身内の贔屓目抜きにしても、オットーは優秀だとは思うけど、彼はまだ若くて大した実績は上げてないのに、なんでまた、オットーまで日本に呼ぼうとしているのでしょうか? 私の親戚だからですかね?
「私は、彼を失いたくありません」
「それはどういう意味でしょうか?」
一体なんだ? この娘の瞳を見ていると、まるで漆黒の闇に吸い込まれるような、この感じはなんなのでしょう?
これは、けして彼女が日本人で、黒い目をしているだけではないような気がするのですが……
そう、まるで背中をナニかで撫でられて、ゾクッと悪寒がしたような、気持ち悪いとかおぞましいとかの感覚に囚われた感じは。
「彼がアメリカにでも渡れば、原子爆弾の開発が加速してしまいます」
「それを阻止したいと?」
なんでアメリカなんだ? 日本はアメリカと戦争にでもなるのでしょうか?
その可能性が否定出来ないから、阻止したいという事なのかも知れませんね。
でも、オットーがボーア博士の研究所を辞めて、アメリカに渡る予定など聞いたことないのですがね。
それに、オットーよりも優秀な科学者は、それこそ大勢いるのに、なんで、わざわざオットーを指名して言う必要があるのかが疑問です。
「はい。アメリカによる原爆投下は、なにがなんでも防がなくてはなりません」
「まるで、未来を見てきたように言うのね」
これでは、将来に起こり得るであろう、予言を聞かされている気分だわ。
子供とは思えない大人びた態度といい、未来を見通せるかのような言葉といい、本当に未来を予知出来ているとしても、『ああ、やっぱり』そう納得してしまいそうになるわね。
未来予知!?
でも、いや? ……まさか!?
ただの人間に、そんな未来予知など出来るものなのか?
もっとも、アインシュタイン博士ならば、当然の如く納得するのでしょうが。
「未来に起こり得るであろう可能性の一つです」
「なるほど……」
「ですから本当は、彼に縄を付けてでも連れて行きたいのが本音ではあるのです」
それを人は、拉致とか言うのでは?
「日本に連れて行けなければ、オットーは消されそうな言い方ですね」
「科学者はパンドラの箱を開けようとしていることを、もっと自覚するべきです」
パンドラの箱と来ましたか。科学技術の進歩が封印された箱を解くという事か…… 日本にとって、パンドラの箱を開ける鍵がオットーという事でしたか。プリンセス藤宮は、本当に未来を予知している気がしますね……
それでも、進歩の流れは止められないし、それが人類の歴史の必然だと思います。それよりも、オットーに縄を付けてでも、一緒に日本へと連れて行かなければ!
しかし、契約書にサインをしたのは、少し早まったのかも知れません。