第1話擦り切れた命と、覚醒のバグ
時計の針が午前2時を回る。
カタカタと、オフィスに虚しく響くキーボードの打鍵音。
「おい、これ明日の一限の会議までに修正しとけよ」
上司が投げ捨てた分厚い資料の束が、デスクの端で乾いた音を立てた。
もう、何日家に帰っていないだろう。
ブラック企業『帝国システム開発』。そこで働く俺、佐藤誠の日常は、文字通り自分の「寿命」を会社に切り売りする日々だった。
乾ききった目に目薬を差し、泥のようなコーヒーを胃に流し込む。
死にたいわけじゃない。でも、生きている実感もなかった。
「……帰ろう。もう無理だ」
終電なんてとっくにない。深夜のオフィスを抜け出し、重い足取りで深夜の街を歩く。
その時だった。
ゴォォォォォ……!
突如、大地が激しく身震いした。
目眩ではない。アスファルトがハジけ、目の前の交差点が陥没していく。
「な、んだこれ……!?」
崩落した穴の奥から、不気味な紫色の光が立ち上る。
それは、ここ数年で世界中に突如として現れるようになった『ダンジョン』の発生の瞬間だった。
運が悪かった。
逃げる間もなく、足元の地面が消える。
浮遊感。直後、背中に強烈な衝撃が走った。
「がはっ……!」
暗闇の底。湿った土の匂い。
痛む体を無理やり起こすと、そこは見たこともない巨大な地下空間だった。
現代の科学が通じない、魔物の巣窟。
「嘘だろ……なんで俺が……」
絶望に追い打ちをかけるように、暗闇の奥から一対の赤い眼光が迫る。
体長3メートルはあろうかという、巨大な狼。ダンジョンの捕食者だ。
グルルル、と喉を鳴らす怪物の前で、俺の足はすくんで動かない。
会社で擦り切れた俺の命は、こんな地下の底で、誰にも知られずに終わるのか。
バキバキと音を立てて迫る牙。
死線。その瞬間、脳内に直接、無機質な声が響いた。
【個体名:佐藤誠の生命活動の限界を検知】
【救済措置……エラー。世界システムに接続できません】
【バグが発生しました。固有スキル『時間搾取』が強制覚醒します】
「タイム……ドレイン?」
ステータス画面なんて見えない。ただ、俺の右手が、勝手に熱を帯びていく。
目の前には、今まさに俺の首を噛みちぎろうと跳躍した巨大狼の顎。
「来るなあああ!」
無我夢中で、突き出した右手が狼の額に触れた。
その瞬間。
ピキ、と世界の音が止まった気がした。
ガチガチと、狼の体が不自然に震え出す。
毛並みが一瞬で白銀に変色し、瑞々しかった皮膚が乾いた雑巾のように萎びていく。
ドサリ。
俺の目の前に落ちたのは、巨大な狼ではない。
干からび、骨と皮だけになった、ただの怪物の「死骸」だった。
【対象の『時間(寿命)』を150年搾取しました】
【佐藤誠の保有寿命に加算します。現在の残り寿命:185年】
【身体能力が搾取した時間に応じて一時的にブーストされます】
手のひらに残る、奇妙な温もり。
俺の体の中に、会社の残業で失ったはずの「生命力」が、濁流のように流れ込んでくるのが分かった。
みなぎる力。視界が嘘みたいにクリアになる。
「触れたものの……時間を、奪ったのか?」
呆然と自分の手を見つめる俺の前に、狼の死骸がサラサラと黒い砂になって消えていく。
その跡地には、紫色に怪しく輝く、拳大の「魔石」が転がっていた。
それが、世界を一変させる最凶のチート能力を手に入れた、最初の夜だった。
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