第65話:雨宮リカ
四月、二週目。
校門の桜が、散り急ぐように葉桜へと姿を変え、鮮やかな緑の影がアスファルトにバーコードのような縞模様を落とす頃。
ショウタの肺は、下層の煤けた空気の中でも、世界で唯一自分だけの「不規則な時計」を刻み続けていた。
「……遠藤くん、お疲れさま。新入生の視線、痛くない?」
屋上の、錆び付いた鉄柵。そこには、同じクラスの雨宮リカが佇んでいた。
彼女が左手で、丁寧に包まれたお弁当の結び目を解く。その滑らかな、だが指の節々に確かな力を宿した指先の動き。それを見た瞬間、ショウタの左腕が、まるで共鳴するように微かな痺れを覚えた。ショウタの左肩が、自分でも気づかぬうちに、彼女の動作に合わせてわずかに沈み込む。
「……雨宮さんも、左利き?」
「ええ。……遠藤くんのワールドカップの全試合、私、スロー再生で、網膜が焼けるほど何度も見たわ。……その左腕が放つ、異常な『捻り』。教科書にも、最新の軍事アーカイブにも存在しない、不気味で美しいバグみたいな動き」
リカの瞳は、英雄への好奇心というより、解読不能な暗号を執念で解き明かそうとするハッカーのような、底知れない鋭さを湛えていた。
彼女は、かつて清盛が最も深い泥を啜り、このミドルシティを彷徨っていた時代を知る、数少ない「証人」の一人だった。
「清盛さんが、あの雨の降る廃倉庫で独り、血を流しながらボールを壁にぶつけ続けていた姿。……あのアスファルトを、骨ごと削り取るような音を、私は今も忘れない。……だから、あなたがその志を継いで、この場所に部を創ると聞いて、居ても立ってもいられなくなったの」
彼女は、ライフ 100 の純然たる生身。
アッパーシティの連中が享受する、機械化(最適化)の恩恵など微塵もない、あまりに脆弱な肉体。だが、その剥き出しの瞳には、どんな軍事規格の高精度光学レンズでも捉えきれない、世界の「不都合な真実」を射抜くための光があった。
「リカ、って呼んで。……コートの上では、誰かの『予備』や『前後』じゃなく、私自身の、この二文字の名前で呼ばれたいから」
名前を、呼び合うこと。
それは、システムによる冷徹な管理を拒絶し、不完全で、壊れやすい「個」として繋がるための、最初の反逆の契約だった。
リカが差し出した左手を、ショウタは同じ左手で握り返した。
機械の冷却ファンも、サーボモーターの音も聞こえない静寂の中で。二つの生身の掌が、これからの戦場を予感させる、熱い熱を共有し合っていた。




