私たちはお母さんの味方だよ
意味が分からない。なんでお姉ちゃんはお母さんに嘘を伝えたんだろう。だって、私は。私は、
急かされたように口を開いた。
「私は、……進学、したい」
短絡的かもしれないが、進学して、みたかった。
言ったそばから、自分には無理かもしれないと怖くなる。
高卒の自分だったら選べなかったものがたくさんあった。
資格をとるにしろ、履歴書を見られるにしろ、私には選べなかった選択肢が増えるかもしれない。でも、やっぱり私にはお金の無駄なのかもしれない、でも。でも。
たぶん、それはただ進学すればいいというものでは無く、やっぱり自分次第なのかもしれない。
大卒という肩書を手に入れることが出来ても、自分が何をしたいかわかっていなければ無駄なのかもしれない。
高卒のままでも自分が諦めなければ選択肢は増えていたのかもしれない。
自分が勝手に諦めて、自分はこんなもんだ、自分には出来ない、選べないと言い訳を用意して手を伸ばさなかっただけかもしれない。
手を伸ばさなければ、手に入れられなかった時に傷つかないから。
頑張ってもだめだった自分を見たくなかっただけなのかもしれない。本当は出来たのかもしれないという可能性を残して自分を慰めたかっただけなのかもしれない。
今、進学したいと言っていいのなら。口に出してはっきりと宣言することで、何か変わるかもしれない。
とにかく、違うんだと言いたかった。
お姉ちゃんが何を思ってそうお母さんに言ったのかは知らないし、もしかしたら私が進学するとお姉ちゃんの留学費用に響くのかもしれないけど。私の気持ちを、聞いてほしかった。
「もう、どっちなのよ。しないって言ったりするって言ったり。あんたって昔からそうよね、さんざん悩んで周りを待たせてやっと決めたと思ったら、後になって本当は違うってごねて。進学ってお金がかかるのよ?後からやっぱり中退するなんて言われたらたら困るのよ。全部無駄になるの!あんたの父親もそう!結婚しようって言ったのはあいつなのに私ばっかり、こんなに苦労してる!なんでそうやっていつまでも苛つかせるの!?」
頭の痛みを堪えるように母の表情が険しくなる。キンキンと声が荒くなり、嵐のような時間が始まる。いつも、母が興奮し始めるとうつむいて嵐が過ぎるのを待った。こんな時に何をしても私の言葉は聞いてもらえなかったから。ただ、じっと待っていたのだ。体を小さくして、母が元通りに戻るまで。
「でも、違うの。だって私、最初から」
「はるちゃん、無理しなくても大丈夫なんだよ。お母さんも一人で頑張ってるんだし、早く働いて家にお金を入れてお母さんを助けたいって言ってたじゃない」
私の言葉は掻き消されて、姉の優し気な声だけがハッキリと聞こえた。
それは、母も、私も、姉の声に耳を傾けたからか。
姉が母の肩に手を添えた。母は眉間の深い皺を、ゆるりとほどく。
そう、こんな風に突然始まる嵐のような時間を止めるのはいつも姉だった。
「……なんでそうやって」
「やだ、春子ったらそんなこと……そう……」
母の興奮が目に見えて収まっていく。姉の声だけが、母を元に戻す。姉の声だけが、母に通じる。お姉ちゃん、だけ。
「お父さんと離婚してから、二人には苦労かけたわよね……」
「ううん。私たちにはお母さんがいるから大丈夫だよ! それに、お父さんも私には甘いから学費だってちゃんと出してくれたし」
「それもお母さんがお父さんにちゃんと言えれば迷惑かけなかったのに、ごめんなさいね」
「ううん。大丈夫だよ。私たちはお母さんの味方だよ」
私は入れない円の中で、母と姉は完成している。
母は姉に頼っているし、姉は母の心を掴んでいる。
「ユキちゃん……」
母がゆるりと姉を抱きしめた。
「ほら、春ちゃんもおいで」
姉が私を呼び、のろりと私もその広げられた隙間に身を寄せた。
お母さんの背丈はこんなに小さかっただろうか。こんなに小さい体だっただろうか。あんなに大きくて、温かかった腕も、私と同じただの人間の腕だった。
「二人とも、ごめんね」
母の涙声が、この作り物めいた時間にざらりと残った。
──やっぱり、私は“ごめん”が嫌いだ。
*
「春ちゃん。来年、私が家を出たらお母さんを支えるのは春ちゃんだけなんだよ? あんまり我儘を言って困らせちゃだめだよ。ね?」
一足先に休むと母が二階の自室へ上がって行って、姉だけがその場に残った。
何が嬉しいのか、姉の頬は上気したようにふんわりと染まっている。
「……なんでお母さんに嘘を言ったの」
「嘘?」
姉のキョトンとした顔に、なぜという疲れと諦めの気持ちが浮かぶ。
「私、お姉ちゃんに進学しないだとか早く働きたいとか、そんな話、一切してないよね」
「……あぁ。あれね。うーん、嘘、かなぁ?」
クスクスと小さく笑いながら、頭を傾げると同時に華奢な肩から柔らかな髪がさらりと流れた。
細められた目が、異様に光っているように見えた。
内緒話をするように、姉の顔が寄ってくる。
「お母さんは、春ちゃんからそういう言葉が欲しかったんだよ」
「……は?」
耳元で、砂糖で煮溶かしたような粘度の高い音がする。
「だから、お母さんが欲しがってた言葉を言っただけ。だから、嘘じゃないよ」
「意味がわからない。私が言ったことじゃないのに」
思わず逃げようとしてしまった体を咎めるように髪を一房捕まれた。頭皮が引っ張られ、痛みを覚える。
「お母さんがヒステリックに怒ってる時、春ちゃん、なーんにもしないじゃない?」
ジャリ、と髪が擦れる音が混じって聞こえる。
「ただ、じーっとしてるだけで」
「待っていれば終わるんだもん。楽だよね」
「お母さんがなんでそんなに怒ってるのか、何が欲しいのか、考えようとも、止めようともしない。なーんにもしないで、誰かが助けてくれるのを待ってるだけ」
「それじゃあダメだよね?」
「だから、私が代わりに言ってあげたんだよ?」
「来年から私は助けてあげられないから、春ちゃんが心配だなぁ」
「お母さんを助けてあげてね?」
姉に注がれる言葉が、鳴り止むまで、私はじっと体を固くしていた。




