96.陽はまた沈む
藤澤は俺が歩を突いたのを見て、深く……深く息を吐く。
思い返せば藤澤はいつも、それがたとえどんな意味の将棋だって初手に時間をかけていた。
いつだって盤に真剣に向き合い最善手を求め続ける。
藤澤はきっと謙遜するんだろうが、俺から見ればそれは紛う事なき棋士の姿そのものだった。
二手目8四歩、藤澤はすっと飛車先の歩を突き返す。
パタパタと手は進み、角道を開き8五まで来た歩を飛車で交換させない為に角を7七に置いて防ぐ。
後手も角道を開いて、俺は角を交換した際にバランスを良くする為に銀を上がる。
藤澤は手を伸ばし角を駒台に置いてから角を成り、俺がそれを銀で取る。
戦型は角換わりとなった。
それからも手はどんどん進む。
角換わりから派生である角換わり相早繰り銀と形が決まり、互いに研究が行き届いている範囲まで指し合う。
とは言うものの……角換わりなら昔の知識でなんとかなるかなーって安易な考えで突っ込んじゃったけど大丈夫かなぁ。
新手とかありえんほど見つかってるだろうし、対局場はいつもそこら辺腹の探り合いになっているんだろうなぁ……恐ろしい………。
互いに端の歩を伸ばし、そして突き越す。
1筋と9筋の五段目までそれぞれの歩が進み、1マス空けて相手の歩が初期の位置で留まっている。
珍しい形になった、少なくとも俺は公式戦の棋譜ではあまり見た事がない。
藤澤はどうかと言うと、それ以降少しずつ時間を使い始め考えてくれるようになった。
よかった虐殺じゃなくて勝負にはなりそう……。
「もうすぐで三段になりそうなんだ」
不意に藤澤が呟いた。
顔を上げるも藤澤はこちらを見ておらず、まるでこちらの空耳だったんじゃないかと勘違いするほど静かに見下ろしていた。
「もちろん負けたらその分先に伸びるよ。今までが順調すぎただけかもしれないし」
藤澤はこちらが応えずとも話を続けた。
聞いてほしいと言っているように口を動かしている。
「同じ段位に年上の人が増えてきてね。三段リーグはもっと年齢層は高くなると思う」
藤澤は中学三年生の夏、6級から奨励会をスタートしている。
満15歳以下の最後の年、一次試験を免除しての受験だった。
免除は該当年に限る一度きりのチャンス。
しかし当時の藤澤の実力なら難なく一次予選は抜ける事ができただろう。
必要だったのはその年に受験するという理由で、絶対に合格するという覚悟だった。
「巷では僕の事ちょっと話題になってるんだ。今までに聞いた事のない名前の子がとんでもないスピードで昇段してるって」
たはは、と嬉しいのか嬉しくないのか微妙な表情で笑う。
将棋界は……言ってしまうと聞こえは悪いが狭い世界だ。
プロの世界では同じ人と何局も何局も対局を重ね、因縁の相手やゴールデンカード、天敵とか春の季語だとかその他様々な関係性が名付けられる。
子供の大会も名前をつけられないだけでほとんど同じだ。
プロになるような子は幼い頃からその頭角を現して上位常連になるのが昔から数多くある事例となっている。
才のある子同士、トーナメントで何度も顔を合わせて顔見知りになる。
繋がりができ、輪が広がり名は力となる。
年齢と共に力を見定められ、若ければ若いほど他者からの評価は高くなる。
『そうなんだよ。このままプロになったら史上最速なんだよたしか。……えーっと何の記録って言ってたっけ』
6級入会者の奨励会卒業最短記録。
あまり注目されにくい記録だから、あくまで結果を残してから日の目を見る話かもしれない。
だけど、話題になるのも無理はない。
藤澤は……将棋大会は疎か、道場も将棋教室すらも行った事がない本当に無名の棋士だった。
たった一度、中学三年生の時に参加した中学生名人戦を除いては……。
奨励会に入ってくる人の一割から二割くらいしか棋士にはなれない。
八割から九割の人はプロになれずに辞めていく。
一生懸命戦ったとしても、勝負の世界は棋士になれず去っていくのがほとんどだ。
それは同時に師匠側が抱える苦悩でもある。
将棋界にある師弟関係、師匠がいなければこの世界は奨励会に入ることすらできない。
現役のプロが師匠となる事も少なくない。
弟子に取れば否応なく、まるで我が子のように愛情を抱く。
子の一勝一敗に一喜一憂し、刺激をもらう毎日に変わっていく。
愛した弟子がプロになれず、年齢制限で退会するショックは……俺には想像する事もできない。
だから師匠はプロになれる見込みのある子を弟子に取る。
光る才能があり、挫けない強さがあり、何よりも若さを持った子供を。
局面は進んですっと突き出した6五歩、角でも銀でも取れる歩で対応を聞く。
藤澤は7六歩と攻め合いを選ばなかった、同角とし局面のバランスを保つ。
動いていこうと銀を前線に出して飛車を使って相手の銀と交換すれば、藤澤は一連の交換で手にした駒を盤に打ち飛車の動きを抑え込もうという狙いだろう動きをしてくる。
こちらが攻める展開……無理は出来ない…見極めはどこで………。
中盤の難所を前にお互いの手が止まりがちになり進行がゆっくりになる。
よくもまぁこんな難しい将棋にできたものだ、上出来なくらいだ。
「三段リーグ……地獄って呼ばれてんだろ。大丈夫なのか?」
藤澤の手番で開き直って語りかける。
さっきは序盤のそれも呟きだったけど、こんな進んだ局面じゃ盤外戦術かも……。
多くのプロ棋士が自分の人生を振り返る時にそれを挙げるように、その地獄は数あるエピソードの中でもとっておきなのだ。
奨励会の成績は逐一将棋連盟のホームページに記載される。
師匠、中野七段。
弟子、藤澤二段
藤澤が残した成績は圧倒的だった。
このまま勝ち星を積み重ね昇段出来たならば、今年の後期には三段リーグに挑戦する事になるだろう。
「うん。…奨励会に入ると決めた時には覚悟を決めてた」
メラっと目の奥に火が灯ったような、藤澤の目つきが鋭く変わる。
「僕は、プロになるんだ…!」
先手陣に攻めかかる7六歩の突き…!
このタイミングか……いや…そうか良い手だ……!
…同銀……それとも銀をぶつけるか。
選択肢が広い……一手間違えれば途端に奈落の底………!
今までで一番時間を使い、気持ちは前にと決断して銀をぶつける。
ここから後手の8六歩の攻め合いでどうなるか……。
ふーっと息を吐き、藤澤は熱された身体を落ち着かせるように…かは分からないが話し始める。
「僕ってさ、一般的に見たら将棋始めたの遅い年齢なんだ」
「たしかにそうかもな」
さっき考えていた師弟関係の事。
たしか将棋に初めて触れたのは小学校高学年……五年生って言ってたか。
通常ならそんな歳から始めた子を弟子に取ろうなんて師匠は現れない。
「まぁ、だからこそ雨芽を受け入れられたってこともあるけど」
そんな言葉に肩の力が抜けて、ついでに頬が緩んでしまった。
藤澤も言ったのが照れくさそうに目を伏せる。
たしかに五歳とか六歳からやってる子が中学で始めた俺と同等だったらショックを受けるかもしれん。
「奨励会に入ったら僕より年下の子ばかりでね、最初は結構挫けそうなこともあったんだ」
今でこそさっき藤澤が話した通り年上の人が目立ってきているだろうが、級位の時はそうもいかない。
「入った時はやばかったなー!将棋舐めてるって雰囲気がひしひしと伝わってきたよー!」
口にはしないけどねみんな、と口にする。
「みんな将棋に人生賭けてるんだ。争いも、競争も、仕方ないよ。分かってる」
遠い昔の事を思い出すように藤澤は目を閉じる。
藤澤は才能こそあれど、それはプロ棋士もそうだと言えるように生身の血の通った人間だ。
心無い事を言われた事もあるかもしれない、言われの無い噂を立てられた事も……。
その中で藤澤はここまで昇級昇段してきた。
「でも、勝つんだ…!」
藤澤は飛車を成る。
最強の駒、竜王が盤面に現れる。
その勝ちを積み重ねるペースを維持できたのは、藤澤の覚悟の重さの…嘘偽りの無い証明だ。
優勢か、はたまた劣勢か。
形成は全く判断付かず、一体どの駒の利きを信じればいいのか。
「………将棋にはさ、していい手損と、しちゃダメな手損があるんだ。雨芽なら分かるよね」
あぁ、とそれだけを言うのが精一杯で、それでも藤澤は満足したからか続きを話す。
「手損ってのはきっと指した瞬間じゃなくて、その後の手で決まるんだ。後からその手に意味を持たせることも、悪手にもできる」
今はAIが先の変化を何億も読んで指した瞬間に決断を下しちゃうから定義が難しいけど、と加えて、
「僕は、君と、雨芽と指した将棋を損なんて呼ばせたくない。本当はしていい手損なんて言葉でも片付けたくない。僕にはあの時間が必要だったんだ」
目の前の盤と駒……将棋部の部室をありありと思い出す。
「それが僕の将棋だから」
……俺も、そこにいるんだな。
藤澤と盤を挟んだ俺が…。
「中学の時、流行の戦法やタイトル保持者の指し方を記憶してさ、雨芽と指しまくってたでしょ?あれってさ、単に雨芽が楽しみたいだけって言ってたけど今思えば…」
「いいよ、言葉にしなくて。俺が恥ずかしい」
藤澤に色んな戦法を見てほしいからだ。
棋士は一般的に指せば指すだけ強くなる。
種類が増えれば尚更だ。
そんな藤澤の経験の為に、俺は一肌脱いだってことにもなる……なってほしいなー。
俺の技術の点は目を瞑ってほしいけども。
細部の変化まで解説を見て端々まで記憶していたんだ、熱意は誰よりもあった。
藤澤の才能に惹かれた者として、それが俺のできる精一杯だったから。
俺が桂馬を取って歩を成り、藤澤がそれを銀で取る。
7五角が見えるが思った以上に後手陣に迫るルートが読めない。
この手が刺さらなかったらもう逃げるしか……?
「じゃあ言わないね」
見上げると藤澤はキラキラした目で盤面を見ていた。
記憶にある表情と全く一緒で……何ら変わりなくてびっくりして目を擦ると、その様子に気付いた藤澤が楽しそうに笑った。
夢、目標、憧れ。
あの部室に連れて行かれたかのような、そして思い知った。
「…………そっか、そういうことだったのか」
………もしそうだとしたら、俺とお前が出会ったのは……。
今度は藤澤がびっくりした表情でこちらを覗き込んでいた。
「雨芽……?そういうことって…?」
「あ、あぁいや!こっちの話!色々あって!」
どのくらいそうしていたんだろう、なんだか意識が飛んでしまった。
ふぅ、と息を吐き藤澤は竜を九段目に滑り込ませる……痛い手な気がする………。
「野谷たちに聞いたよ。また人を助けてるんだってね?」
「あぁ、まぁ。うん」
あぁそういう。
お説教フェイズか。
「まぁ、雨芽らしいと言えばそうなのかもしれないけど……」
銀で竜の王手を合駒し、手番は藤澤。
銀を上がり桂頭の銀の形に……え、受けるのか冷静!?
7七桂打とばかり……確かにこの順は読み直すと先手の一手勝ち、か………?
「というか三人ともさー、僕を間に立ててお互いの様子聞くの止めてよ。直接聞いて直接」
「それに関してはまじ面倒なことを………え、俺だけじゃないの?隼真と美穂も俺のことを藤澤に聞いてるの?」
何やってんだあいつら。
「君たち以上に知ってる事何も無いっていつも言ってんだけどねぇ……まぁ今日はうん、どうしよっか?」
「……任せる」
大丈夫だよな……?
「こっちは忙しいんだぞ全くもう」
忙しいけどしっかりやってんだよなー。
藤澤優しい子。
角が二枚連なる攻め……相当なプレッシャーのはずだが藤澤は5九に移動させた玉に手を付けようとしない。
安全を読み切っているんだ……強い…。
「部活。扶助部って言ったっけ。助けられた僕が言うのも何だけど、無理しないでね」
「藤澤も将棋で体壊したりすんなよな」
売り言葉に買い言葉とやいのやいの言い返す。
しばらくしてふふっと二人で笑った。
6七銀……代わる手も難しい。
「遠回りだったかもしれない。始めるのも遅ければ、出会うのも遅かった」
これは……。
「だけど、それも僕の将棋だと……そう言いたいんだ」
王手が続く……いや…?
「迷ったら思い出すよ、原点を。僕の原点はあの部室だ。将棋を知った日でも、弟子になった日でもない。僕の原点は雨芽との将棋なんだ」
………読み切りか。
「雨芽がいたんだ。まっすぐな優しさを持った君がいた」
香車ねぇ、粋な事をする。
認めるしかない。
こんなキザなセリフまで合わせて香車を打たれたんだ。
読み切っていたとしか言いようがない。
「……負けました」
もう歯が立たんなこれは。
集中が切れて、パッと視界が開けてくる。
………まずいここミスドだ。
いやミスドのドーナツは美味いよそういう意味じゃなくて。
「か、感想戦は時間ある時にしようか!今度はしっかり約束して!」
藤澤が駒箱を開いて慌てて駒を仕舞い始める。
何十分……もしかして何時間とか?
やべぇってこれ……。
駒を仕舞うのは上位者の役目、とか知らんし片付けよう!……と思っても身体が金縛りにあったように動かない!
こ、これが思い込みの力…とか思うけど…なんだかんだで敗戦がショックだったのかもしれない案外そっちかも。
全力で戦ったら力の差関係なく結構疲れるもんよ?
藤澤はやがて最後に手に取った歩兵の駒を見て、
「いろんな人がいる……いろんな人がいた。それでも沢山、雨芽は助けてきた」
目を合わせて数秒、藤澤はその後持っていた歩を駒箱に仕舞って蓋をした。
「これからも、きっと沢山の人を助ける」
鞄にiPad、駒箱、盤を入れてチャックを閉める。
どうやらお店を出る準備は完了したようだ。
「だから僕言いたいんだ。雨芽に助けられた僕は、自分の望む自分に成れましたって!」
藤澤の目標、プロ棋士になる事。
今はまだ夢だけど、将棋のタイトルを獲る事も。
「それで胸を張って言うんだ。ありがとうございましたって!」
そういえば、まだちゃんとお礼言えてなかったな。
「俺だって言うよ。ありがとうございましたってな」
礼に始まり礼に終わる、それが将棋だ。
呼吸を揃えて頭を下げる。
充実した将棋だった、そして楽しかった。
本当にありがとう、藤澤。
作中の将棋は第62期王位戦七番勝負第2局藤井聡太王位対豊島将之竜王の棋譜を参考にしています。