番外編『ハロルドの憂鬱』
それは、とある晴れた日の昼下がり。
アルフォード公爵邸にて、今日も今日とて書斎に引きこもっているヴィンセントに何か茶菓子を持っていこうと書斎を出たハロルドは、広い屋敷をひたすら歩き、キッチンにたどり着いた。
別にハロルドがしなくても女中に任せればいいのだが、以前にあった事件より、ヴィンセントのことに関してハロルドは注意深くなり、すべてのことに警戒するようになったのだ。
そしてそのキッチンからの帰り道にて、その姿を見つけてしまう。
見つけてしまう、という表現から分かるように、ハロルドはそれを見た瞬間に「見なければよかった」と顔色をサッと青ざめた。
「何をしているんですか!」
通りかかったのは、公爵邸の広い庭園の一角である。庭園を眺めながら、そして花の香りを楽しみながら歩めるその通路から飛び出すハロルドであったが、しかし安易に近寄ることはできなかった。
「何、とは……こいつが会いに来てくれたから話していただけだ」
エレンはキョトンとして答えるが、ハロルドには顔を引きつらせることしかできない。
エレンの後ろには、エレンやハロルドよりもうんと大きな獰猛な牙を持つ魔獣が、黒い毛をなびかせて唸るように座っているのだ。確かに魔獣の背には角ばった翼があり、少し離れているかつての「帰らずの森」からでも王都の第一区へ来るのにも難はなかったのだろうけれど……。
「は、話す……? あなたは魔獣の言葉が分かるのですか……?」
「? ああ。だからこいつらにも私の言葉が分かる」
ハロルドからしてみれば、魔獣がまるで獲物を狙うように唸っているようにしか聞こえない。
「……と、とにかく、ここは王都です。魔獣は森へ返してください」
「どうして」
「どうして、って……危険だからです。王都には人が多いのですよ」
「だから?」
「だから、魔獣が居ては危険でしょう。魔獣は人を喰らうのですよ」
ハロルドの言葉にエレンはむっと眉を寄せると、魔獣のその太く黒い毛のなびく足にしがみつく。すると近づいたエレンに擦り寄るように、魔獣が頭を寄せた。
「ならば私も共に帰る」
駄々っ子のようにそう言うエレンは、最初に比べてとても表情が豊かになった。それは彼女が半分人間であるからというのもあるのだろうが、それを差し引いてもこのアルフォード公爵邸に来ていい方に変わっている。
しかしこうやって、駄々……もといわがままな面を見せることが増えたのは悩みの種である。
ばさり、と翼を一度翼を振るい、飛び立つ準備をしている魔獣の姿に、ハロルドはやっと我に返った。
とりあえず引き留めなければ。いや、ハロルドとしては別にどちらでもいいのだが、その後のヴィンセントを思えば悩むまでもないだろう。
エレンのことになると、ヴィンセントは途端に面倒くさくなる。初恋だかなんだか知らないが、最も被害を受ける身としては、何がなんでも行かせてはならないのだ。
しかし、一瞬の後。
エレンを止めようと足を踏み出したハロルドを追い抜いて歩む背中に、ハロルドはつい、呆れたように息を吐いた。
「ネル、さっきネルの大好きなイダの実が入ったと料理長から聞いたんだけど……」
いつからここに居たのか。ハロルドは考えるが、やはり答えは出ない。
この王都第一区公爵領領主であるヴィンセントは、優雅にエレンに言葉を放つと、その後彼女がどうするかを分かっているように手を差し出した。
ちなみに「イダの実」というのはルーズバーグ国原産の果物であり、クリードの大好きなジュースもこの果物を百パーセント使用したものである。
「……私が、ネルに嘘をついたことはないよね?」
エレンの疑うような瞳を察してか、追い打ちをかけるようにそう言うヴィンセントはよりいっそう微笑んで首を傾げた。そしてそれにこくりとゆっくり頷くと、エレンはやっとヴィンセントの手を取る。
が、ヴィンセントはやや強引にその手を引き、片腕のないエレンはもちろんバランスがとれるはずもなくヴィンセントにされるがまま、いつのまにやらその腕に横抱きにされていた。
「ハリー、魔獣がここに訪れるのは良しとしよう。ネルの友人であるこの魔獣は悪いモノではない」
「……しかしヴィンス様、」
「大丈夫。いいかい、ネル。もしもここに来る魔獣が人を食うことがあれば、私たちは迷わず魔獣を根絶やしにしなければならない。それはネルも嫌だね?」
想像したのか、エレンはヴィンセントのその言葉に何度も強く頷く。
「よしいい子だ。ではどうすればいいか分かるね。躾はしっかりとしておくんだよ」
「わ、わかった」
「ハリー、コックにイダの実を用意させてくれ」
「……承知いたしました」
エレンの扱いをよく分かっている、とハロルドは心中でつぶやき、エレンを横抱きにしたまま屋敷に戻るヴィンセントの背中を見送る。
いつも通りだ。エレンが何かわがままを言っても、ヴィンセントが優しく言いくるめる。エレンが邸で暮らし始めてから、もう何度となく見た光景だ。
それはそれでいいとして――――ちらりと、ハロルドが恐る恐る振り返った。
いまだ背後に居る魔獣は、何やら毛づくろいを始めている。ずっしりと腰を下ろした姿勢からは、帰る気概など一切見られない。
――私の言葉が分かる。
エレンはそう言っていたが、それはエレンだけではなくハロルドやヴィンセントの言葉も、ということだったのなら、この魔獣は先程のヴィンセントの言っていたことも理解したのだろうか。
つまり、人を食いさえしなければここに居ていい、と思われたり――。
まるで猫のように、けれど猫よりもうんと大きなその身体を丸めていまだ毛づくろいに勤しんでいる魔獣の考えは、ハロルドには分からない。
しかしもはやどうしようもない。ハロルドには、魔獣に物申す勇気も力もないのだ。
やるせない気持ちを持て余したハロルドは大きくため息を吐くと、とりあえずイダの実を用意させよう、と再びキッチンへと足を運ぶ。
かくして、怪物公爵と称されるアルフォード公爵に、ひとつの噂が付け加えられる。
どうやら怪物の次は、魔獣を飼い始めたらしい、と。
読了ありがとうございました。
おおよそ十一ヶ月という期間、連載させていただきました。
今までの作品の中でも少し色が違うお話だったのと、設定をここまで練ったのも初めてだったので、書いていてとても楽しかったです。
お気に入りしてくださった皆様、しおりを挟んでくださった皆様、一度でも読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。お陰様で、完結することができました。
それでは、長々となりましたが、数ある作品の中から本作品を読んでいただきありがとうございました。
まだまだ安定しない気候ではありますが、お身体には充分にお気を付けてお過ごしくださいませ。




