クレイスとレイア
レイアから放たれた言葉に、クレイスは一瞬反応が出来なかった。
彼の中で、ダラムアト元伯爵夫人とそんなことになるような事実はない筈だったからだ。縛られるのを嫌っていた彼は、情事の際には必ずその対策を講じていたし、それに対して手を抜いたことは無かった。それで、すぐに考えが至った。ダラムアト元伯爵夫人が彼女にそのようなことを告げたのだと。
ーーーあの女、嘘を告げてレイアを傷つけたのか。
クレイスは舌打ちをした。だが、そもそも自分の行動が無ければそんな事にはならなかったのだと思い出してその苛立ちを押し隠した。それから、彼女がその言葉を放った意味に気が付いた。
「レイア、……もしかして記憶が、」
クレイスの気持ちが浮上したのもつかの間、レイアは彼から視線を逸らした。その様子に、自分はそれを言う資格が無いことを思い出した。……それでも、クレイスは彼女の瞳に自分が映るようにレイアの両手を優しく掴み、その目線に合わせて姿勢を低くした。
「貴女が言うような事実は、ない。貴女が彼女と会う前に俺は夫人とは既に関係を断っていた」
そのクレイスの言葉に、レイアは少し驚きを見せたが、それでもまだクレイスの方を見ようとはしない。
それも当然か、と思いながらクレイスはそのまま彼女に向かって告げた。
「俺は、2年間のあなたに対しての態度を悔やんでいる。だから、俺はやり直したいんだ、レイア」
「……この期に及んでやり直したい、なんてひどい言葉を、仰るのですね」
それは暗に、その2年間をなかったことにしてほしいと言っているようなものだ。それに気付いたクレイスは、自分の失敗に呪ってやりたくなった。それに追い打ちをかけるようにさらにレイアは静かに告げる。
「……私はもう、あなたに何も期待していません」
それは、完全な拒絶の言葉だった。クレイスは顔を苦しげに歪めた。今まで自分はそれ程の事をしてきている。---けれど、クレイスは諦められないのだ。
「簡単に信じて貰えるとは思っていない。それに、償えるとも。それだけ酷いことを俺はしてきている。それでも、俺は……」
クレイスはレイアの手を離し、両手で彼女の頬を包み込む。
「貴女を愛しているんだ」
「……っ!」
レイアの瞳が、ゆらりと揺れた。けれど、その動揺を押し隠すように彼女は口を開く。
「私は、今の私には、アレンがいます。彼の傍らで過ごすことにこれ以上ないほどの幸せも感じています!それなのに、あなたは再び私の幸せを壊すのですか!」
その言葉は、クレイスの心を深く抉った。一度は考えた。自分よりアレンと共にいた方が、レイアは幸せなのかもしれないと。自分は身を引いて、彼女の幸せを願うことで、彼女を想う方が傷つけないですむのかもと。
それでも、やはりクレイスは彼女を手放せない。初めて心から愛した女性であり、彼女以外にそんな感情が向くとは思えなかったから。
「……壊すものか。今度はそれ以上の幸せを、あなたに捧げれればよいのだから。」
そう言ったクレイスに、レイアは息を飲んだ。今度はもう動揺は隠しきれなかったのだ。先程まで陳勝に出ていたかと思えば、今度は強引な言葉を繰り出す。このようなクレイスを見たのは初めてで、レイアはそこで自分がクレイスの事をよく知らなかったことに気が付いた。
ーーーそれでよく、私はこの人を愛していると思えたものね。
そう思っても、もうレイアは傷つくのが嫌だった。
愛していなければ、酷い態度をされても辛くなかった。
愛していなければ、他の女の人との子供が出来たと言われても悲しくなかった。
だから彼女は、記憶を失う直前にクレイスを愛したことを後悔したのだ。
溢れ出てきそうになる感情に硬く蓋をし、レイアはクレイスに向けて言い放った。
「私はもう、あなたを愛していませんよ」
「……そう言われるのは当然だろうな」
何処か強気に出ていたクレイスは苦しそうな顔をしたが、それは一瞬のもので、彼はすっと目を細めるとレイアの額に口付けを落とした。
それに驚いてレイアが目を見開くと、彼は彼女が初めて見るような蕩ける笑みを向けてこう告げた。
「俺はこれからあなたに愛を捧げよう。……あなたが俺を愛してくれた以上に。そして、必ずあなたを幸せにしてみせる」
それは、クレイスの決意だった。
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クレイスが、一度王都に戻るがすぐにまた訪れると言ってレイアから名残惜しそうに離れて去って行った後、アレンが帰ってきた。動揺しながらレイアがアレンを少し困ったように見る様子を見て、アレンは何かを察して苦笑した。
「レイア、思い出したんだね」
「……アレン、何故私に本当の名前を教えてくれなかったの?」
「それは、彼から可愛いレイアを隠す為、かな」
そう言ってアレンはレイアを見つめた。
「だって、大事な君をひどく傷つけたんだ。それに記憶が無くなったのなら、その方が他の幸せを見つけやすいと思ってさ」
「……そう、そうね」
レイアはそう言って納得するように頷く。
「そう言えば、君の母上ーーーおばさまが呼んでいたよ。記憶が戻ったのだったら、早く行って安心させてあげて」
その言葉を聞くと、レイアは慌てて母親のいる別荘へとかけて行った。
この村から少し離れた所に、隠れるようにレイアの実家の別荘があるのだ。アレンは現在その家を預かっているレイアにとっての従兄であり、彼は妻を顧みないクレイスから彼女を隠す為、別荘の近くにあるこの村の自分の別邸に住ませていたのだ。
それにしても、とアレンはクレイスが去っていった方向を面白そうに見つめる。
「僕とレイアが恋仲だって見事に勘違いしてくれたなぁ」
まぁ、それを狙っていての行動だったのだけど。
そう言ってクレイスにも見せた不敵な笑みを見せた。クレイスはもともと政略結婚の相手であるレイアの事に関心が無かった。だから、仕事で結婚式に参加出来なかったその従兄のアレンのことに気が付かなかったのだ。
従妹同士の結婚は貴族の世界だ、極力避けられていたがその血を残す為になんら不思議なことは無く、そうなった場合アレンは彼女を妻にしても愛せる自信はあった。それはクレイスと婚約が決まる前のレイアにとっても同じことだった。それに記憶が無くなったレイアと恋人のように仲睦ましく過ごして、そのまま彼女が承諾するのならそれでも良いとさえアレンは思っていた。
だが、アレンはあくまで可愛い従妹のレイアの幸せを願っているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。彼女の気持ちを尊重するつもりだった。そして彼は、レイアの気持ちが何処にあるのか疾うに気付いている。
さて、クレイスはいつそれらに気が付くのやら。そしてレイアはいつ気持ちの蓋を開くのやら。
それまではこの茶番を続けてやろう。
ーーー僕の可愛い従妹をこれ以上無いほどに傷つけたのだから。
「頑なになっているレイアに袖にされて、もっと傷つけばいい。……簡単にお前を幸せになんてしてやらないよ」
レイアが許したとしても、僕がそう簡単に許してなんてやらないから。後悔をして、その罪に苛まれ続ければいい。
そうアレンは姿の見えないクレイスに向かって心の中で呟いた。
クレイスがアレンの思惑にまんまと嵌っていたいたことに気が付くのはこれからしばらくして後の事になる。彼は時間が出来る度にレイアの下を訪れ、そして愛をささやき続けた。一方のレイアはほだされかけるも、その度にアレンがクレイスを王都へ突き返した。
そして、クレイスがその想いを遂げられるかどうかは、また別の話となる。
とりあえずここまでです。
始めからこの話はハッピーエンドにしようとは思ってなかったので、こんな感じになってしまいました。
やっぱり酷い男はそれなりに自分のしでかしたことに気が付いて、簡単に幸せになってはいけないと思うんです。女の子の方が許してしまえば、ハッピーエンド一直線!になってしましますが、レイアのように逃げ出すほどの覚悟があるのなら、そう簡単に許しはしないだろうと笑
まぁでも、ハッピーエンドの方にベクトルは向かせたつもりです。
ちなみに、従兄のアレンはレイアにとっては大事な兄のような、リィーンにとっては恋仲になる寸前まで行っていたのかも、って感じです。
また機会があれば(構想が思いつけば)、女の子が追って男が追われる立場を途中で逆転するような話を書きたいなぁと思います。