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赫刃  作者: あああ
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第3章20話 第1節 『赫刃模倣体、暴走開始』

⸺異変は、静かに、だが確実に始まっていた。


ザレク帝国・第三術式兵装拠点。

地下第七構文保管区、構文隔離室。


霧のような術式光が、冷たく吹き荒れる。

警告音も、構文波検知器のアラートも、すべて沈黙していた。


異常は、機械にも記録できなかった。

それは「存在そのもの」が、静かに“ズレ始めた”からだ。


封印槽の中心。

赫刃模倣体β――赫刃・無明を粗悪に複製し、

制御可能な兵器に仕立てようとした忌まわしき刀剣。


その模倣体が、静かに、しかし確実に震え始めた。


「存在座標、消失……!?」

「いや、違う!存在耐性が……崩壊している!」


隔離室外部に詰めていた術式管理兵たちが叫ぶ。

だが、その声すらも、周囲の空気に飲み込まれていく。


赫刃模倣体βの中心から、

微細な、しかし致命的な「存在波の乱れ」が世界構文層に伝播した。


記録できない。

観測できない。

だが、確かに”在った”。


それは世界に、静かなる「存在崩壊」の種を撒き散らし始めた。



その情報は、わずか数秒で帝国中枢へ伝達された。


ザレク帝国構文軍 総司令部。


黒曜石を思わせる漆黒の構文ホール。

全身黒衣に身を包んだ存在たちが、無言で立ち上がる。


「……発令。」


総指揮官ヴォルテ=ヴァラドが、低く命じた。


「第一構文軍団《存在掃滅隊》、出撃。」

「第二構文軍団《因果律介入隊》、準備次第、転送起動。」

「黒構文特務小隊、独立展開を許可。」



漆黒の軍服に身を包んだ者たちが、一斉に動き出す。




ザレク帝国構文軍。

世界の存在定義を操る、最も危険な軍隊が、

赫刃模倣体β暴走鎮圧作戦を開始した。


だが、彼ら自身もまだ知らない。


この暴走が、単なる事故などではなく、

静かに眠る《赫刃・無明》本体――

そして《澪》の存在圏へと、世界構文そのものを引き寄せる

「始まり」にすぎないことを。


■ レクス=ヴァルティエ

 第一構文軍団・存在掃滅隊司令官。

 鋭く灰色に光る瞳を細め、ただ一言。


「存在耐性、削り落とす。」


彼が歩くたび、足元の空気すら僅かに歪む。

彼は「存在を消すために存在する男」だった。


■ セリア=アルヴェス

 第二構文軍団・因果律介入隊長。


「わあ、面白いねぇ。」

緩やかな金髪をかき上げ、

緑の瞳で構文モニターを眺める。


「存在が崩れる? じゃあ因果も、ついでに歪めちゃおっか。」


彼女は笑いながら、軍服の白い袖を軽く払った。


■ ゼイン=クローヴィス

 禁構文特務小隊長。


静かに目を細め、赫刃模倣体βの暴走記録を見つめる。


「……美しい。」


低く呟くその声には、狂気と陶酔が微かに滲んでいた。


「赫刃。君も、模倣すらこの有様か。」


世界は、まだ気づいていない。

名もなく、静かに立つ彼女が、

この“定義なき世界”の中心で在り続けることを。


だが、確かに。


すべては、音もなく、蠢き始めた。


赫刃が震え、

世界が微かに軋み始める⸺


それが、この夜の、始まりだった。


(第1節了)


第3章20話 第二節『黒界、降臨す』


天が悲鳴を上げていた。


目に見える裂け目ではない。

耳に聞こえる音でもない。

それは、存在そのものが引き裂かれた時にだけ発せられる無言の痛覚だった。


黒い槍が、天を貫いた。


瞬間、空の色が滲み、ひび割れ、音もなく崩壊を始める。

空間座標は狂い、視界は白と黒の境界線を失っていく。


——この世界は、

いままさに、書き換えられようとしていた。


【ザレク帝国構文軍《黒界編成》、出撃開始】


裂け目の中央、空間の歪みを纏いながら、

一歩ずつ進み出る影があった。


灰色に鋭く光る瞳。

飾り気のない黒の軍服。

そこにあるのは、人間の枠組みを超えた”機能”のような存在。


レクス=ヴァルティエ。


第一構文軍団・存在掃滅隊司令官。

「存在を消すために存在する男」。


彼は、一歩、また一歩、空間を抉りながら進み出る。

その足元では、大地が震えもせず、ただ静かに、しかし確実に”死んで”いった。


踏みしめるたび、

空気が削がれ、音が滅び、意味が剥ぎ取られる。


彼の歩みは、世界から「存在耐性」を剥奪する儀式だった。


そして、誰に告げるでもなく、レクスは静かに呟いた。


「……生を保つ理も、ここでは不要だ。」


声は凪いだ海のように冷たく、

だがその余韻は、戦場全体に静かなる死の宣告を広げていく。


彼の左翼、

虚ろな金髪をなびかせながら、もう一つの影が現れる。


その少女は、

戦場の悲鳴を、まるで遊戯でも見るかのように楽しんでいた。


セリア=アルヴェス。


第二構文軍団・因果律介入隊長。


白い軍服の袖を指先でくるくると弄び、

鮮やかな緑の瞳を細める。


彼女は、ゆるやかな微笑みとともに囁いた。


「どんなに頑丈なものでも、ほら。……少し押すだけで、ね。ヒビが走るの。」


その声は、甘く、軽く、

けれど、その背後には因果律そのものを破壊する力が宿っていた。


彼女が指を一つ振るだけで、

この戦場の”未来”は、ねじれ、崩壊し、別の運命へとねじ込まれる。


予定調和など、彼女の眼前には存在しない。

あるのは、ただ「壊すために在る未来」だけだった。


セリアは、飄々とした様子で、虚空に向かって楽しそうに呟く。


「泣くかな? 怒るかな? それとも……崩れて、消えるだけかな?」


その問いは、誰に向けたものでもない。

ただ、この世界すべてに対する、悪戯好きの少女の無邪気な疑問だった。


——そして、レクスの右翼。


黒衣に包まれた、もう一つの異端がいた。


赫刃模倣体βの記録端末を手に、

それを閉じると同時に、静かに目を細める男。


ゼイン=クローヴィス。


禁構文特務小隊長。


その眼には、

静かで狂おしいほどの情熱と、研ぎ澄まされた冷酷さが同居している。


彼は、唇をかすかに震わせながら呟いた。


「……欠けた器でも、なおこの美。ならば、完成体には……どれほどの輝きが在る?」


その声音は、

赫刃という存在への病的なまでの陶酔を滲ませていた。


彼は、欲していた。

狂おしいまでに、赫刃本体との邂逅を。

この世界の記録を破壊し、“無明”へ至る力を。


ゼインは、黒衣の袖の中で、そっと拳を握りしめる。


その指先から滲み出る力は、

通常の構文術とは異なる、“禁じられた”因子操作だった。


——この三人。

レクス、セリア、ゼイン。


彼らを核に、

黒界編成の存在抹消兵たちが、

無言のまま、地平の彼方まで広がっていく。


黒の波。

それは、物理的な兵力ではない。

存在を書き換えるために歩む死の群れ。


音はない。

叫びもない。

ただ、世界の意味だけが、確実に、削がれていく。


ザレク帝国構文軍。

その侵攻は、戦いですらなかった。


滅びそのものだった。


第3章20話 第三節『赫刃、呼応す』


禁書封鎖区。

王立魔導学府グラン・アカデメイア——。


その最奥、

かつて誰も足を踏み入れたことのない封印領域に、

冷たく、重苦しい空気が満ちていた。


学府全体が、今やひとつの城塞と化していた。


天蓋を覆う魔導結界。

地脈を縛る精霊陣。

外郭を取り巻く六重の防御式。


それらすべては、

——たった一人を守るために。

そして、世界を守るために、張り巡らされた。


澪 クローデル。


黒髪の少女は、静かに佇んでいた。

赫刃・無明を胸元に封じたまま、

まるでそこに在ることすら拒絶するかのように、気配を閉ざしていた。


だが、

閉ざした気配の奥、

赫刃は——軋んでいた。


「……来るか。」


澪は、誰に語りかけるでもなく、

ただひとつ、乾いた吐息を漏らした。


足元の大地が、微かに震える。

空間座標が、世界構文が、確実に侵されつつある証だった。


彼女は感じていた。


——敵は、もう近い。


しかもそれは、

単なる「敵」ではない。


存在そのものを削り取る、

言葉すら通じぬ”滅びの波”。


ザレク帝国構文軍《黒界編成》。


その名を、澪はまだ知らない。

だが、彼らが持ち込む”死の定義”だけは、赫刃が教えていた。


赫刃・無明。

存在定義を抹消する神代の遺刀。


その刃が、かすかに震えるたび、

世界はほんのわずかに悲鳴を上げた。


澪は、そっと目を閉じる。

そして、呼吸を一つ、深く、深く、落とした。


空気が、変わる。


外では、結界師たちが布陣を整え、

迎撃部隊が静かに陣を張っていた。


だが、

澪は知っていた。


彼らの力では、黒界を止められない。

どれほどの結界を張ろうとも、

どれほどの兵を揃えようとも——


存在を消しに来る敵に、通常の力では抗えない。


赫刃しかない。


封じられたこの刃だけが、

彼らに対抗しうる唯一の”拒絶”だった。


だが、抜けば——


世界は、

また、血を流す。


澪は、指先でそっと、赫刃の封印具をなぞった。


冷たい感触。

そこに宿るのは、

世界を焼き、記録を絶ったかつての”鬼”の記憶。


自分の中に流れるもの。

まだ完全には思い出せないが、

抜けば、必ず何かが戻る。


それを恐れていた。


「……違う。」


澪は、わずかに首を振る。


恐れていたのではない。


——望んでいた。


もう一度、赫刃を抜き、

すべてを焼き払い、

孤独に沈む世界に還ることを。


望んで、

それを、自ら禁じていた。


彼女の心は、

赫刃と、命と、存在そのものの間で、

細く張り詰めた糸のように、ぎりぎりの均衡を保っていた。


その時だった。


禁書封鎖区を覆う結界層に、微かなひび割れが走った。


——来た。


澪は、目を開けた。


赫刃が、静かに、低く、唸った。


呼応するかのように、

封印層の奥から、構文の圧力が押し寄せる。


「存在耐性、剥奪作業開始」


低く、無機質な声が響く。

誰の声でもない。

構文軍が放つ、侵略宣言。


澪は、踏み出す。


軽い一歩だった。

だが、その一歩は、

学府を支える結界網すら震わせた。


彼女の存在密度が、

常識を逸脱していた。


外では、迎撃部隊が動き出している。

魔導士たちが詠唱を開始し、

精霊契約師たちが召喚陣を展開し、

結界師たちが最後の防衛式を重ねていく。


だが、その全てが——

この戦いには、

ただの時間稼ぎに過ぎなかった。


澪は知っている。


最後に、

この世界を護るのは——


赫刃。


そして、

赫刃を携える、己自身。


「……逃げない。」


小さな呟き。

それは誰に向けた言葉でもない。

自身の中の、恐れと絶望に向けた、静かな誓いだった。


赫刃・無明。

まだ抜かぬ刃が、今、微かに脈打った。


それは、

世界そのものが震え、

空間が軋み、

因果が狂い、

命が呼吸を止めるほどの、静かな咆哮だった。


そして——


遠方。

結界層の外、見えぬ地平線の向こうで。


灰色の瞳を持つ男、レクス=ヴァルティエが、静かに一歩踏み出す。


その背後に、

飄々と笑う金髪の少女、セリア=アルヴェス。


さらに、赫刃の名を夢見る黒衣の男、ゼイン=クローヴィス。


彼らは、もう止まらない。


侵略は始まった。

存在を、

意味を、

世界を——

滅ぼすために。


——結界が、裂けた。


学舎を覆う六重の防御式。

王族直系の精霊陣。

禁書区を包む絶対封鎖結界。


そのすべてが、

抵抗らしい抵抗もなく、破壊された。


最初の衝撃は、まるで羽音だった。


静かすぎる。

あまりに静かで、誰もそれを「脅威」と認識できなかった。


だが次の瞬間、

防衛式の基盤ごと、存在定義が”消された”。


防御術式の文言が、空中から抜け落ちる。


構文的な意味領域ごと削除されたため、

魔術師たちは詠唱を完遂することもできない。


支援術士たちが混乱する間もなく、

最前列の結界師たちが、ひとり、またひとりと、崩れ落ちていった。


彼らの肉体には、傷一つない。

だが、「存在する」という座標そのものが削除されていた。


命令も、悲鳴も、何もない。


——ただ、消える。


それが、

ザレク帝国構文軍《黒界編成》の侵攻。


レクス=ヴァルティエ。

彼は無言で、ただ一歩ずつ進む。


踏み出すたびに、

結界が、魔術が、生命線が——無音で絶たれる。


まるで、

世界の余白をなぞるように。


彼の背後には、

白い軍服を翻しながら、

セリア=アルヴェスが緩やかに笑っていた。


「うん、壊れるねぇ。やっぱり、当たり前のことだよね。」


彼女は楽しそうに、

指先で虚空に螺旋を描いた。


そのたった一振りで、

防衛陣の因果律がねじれ、連携は崩壊する。


「次は、どこを曲げようかな……?」


緑の瞳が、狂おしいほどに輝いた。


さらに、

ゼイン=クローヴィス。


彼は赫刃の封印区画を見据えながら、

静かに、静かに息を吐く。


「……見せろよ、赫刃。君の本性を。」


その声に滲んだのは、焦がれるような渇望。


彼の内には、赫刃模倣体βの不完全な記憶が刻まれていた。

だが、模倣では飽き足りない。


——本物を。


——完全な無明を。


ゼインの黒衣の下で、禁構文因子が脈動を始める。


学舎の結界は、もはや機能していなかった。


迎撃部隊は必死に再編成を試みたが、

彼らの唱える術式は、立ち上がる前に意味を喪失した。


立ち向かうことすら、できない。


敵は、

戦う以前に、存在を無にする。


それが、黒界編成。


それでも——


澪は、動かなかった。


赫刃・無明を封じたまま、

彼女は、ただ静かに封印室の中心に立ち尽くしていた。


周囲の魔術士たちが倒れ、

結界が軋み、

存在が剥がれ落ちる中で、

澪は一歩も動かず、ただ待っていた。


待つ。


敵が、赫刃の元へ至る瞬間を。


敵が、赫刃を手に取ろうとする瞬間を。


その時こそ——


澪は、斬る。


それだけを、

彼女は心に刻んでいた。


「……赫刃。私は、まだ、お前を抜かない。」


小さな呟き。


それは、赫刃に対する誓いであり、

世界に対する、最後の猶予だった。


赫刃は、軋み、呻き、

それでも、澪の手に従った。


——そして。


結界の最深層、

封印区画の門が、黒界編成によって叩き破られる。


最前列、

灰色の瞳を細めた男、レクス=ヴァルティエが、

無言で、門を踏み越える。


存在が——澪を捉えた。


澪は、そっと目を開ける。


赫刃・無明は、まだ鞘にある。


だが、

その刹那、

澪の黒髪が、微かに揺れた。


空気が、震えた。


重力が、軋んだ。


存在が、澪に屈した。


静かなる死の気配。

だが、澪はまだ戦いを始めていない。


彼女は、

最後の最後まで、赫刃を抜かず、

存在を護ろうと、立っていた。


——戦いは、これからだ。


澪 クローデルは、封印室の中央に立っていた。


彼女の両手は、まだ赫刃に触れていない。

腰に提げられた封印具の中で、赫刃・無明は低く呻いていた。


門を叩き割ったのは、

レクス=ヴァルティエ。


灰色に光る瞳で、

澪を見据えている。


彼の歩みには、迷いがなかった。

それは、使命のために在る兵士の進軍。


生死も、感情も、目的に関係なかった。


——赫刃因子を、抹消する。


ただそれだけ。


だが、澪もまた、微動だにしなかった。


その場に立ったまま、

ただ一つ、息を吸う。


呼吸は静かに。

鼓動は深く、重く。


彼女は、目を閉じた。


世界の気配を、すべて抱きしめるために。


封印区の空間座標が、軋みを上げる。

構文軍の進撃が、地を、空気を、命を削ぎ落としながら迫ってくる。


結界が消えた。

守るべき魔術も、呪術も、崩れた。


もう、誰も、澪を護れない。


だが——


澪だけは、護られてなどいなかった。最初から。


彼女自身が、世界から隔絶された「赫刃の器」だった。


澪の周囲、半径三メートル。

そこだけは、誰一人、踏み込めなかった。


いや、踏み込む前に——

存在が、崩れた。


黒界の先鋒。

存在抹消を担当する構文兵たちが、無言で進軍してくる。


最初の一体が、澪へと手を伸ばす。


触れた、その瞬間——


砕けた。


空間が、ではない。

その存在が。


身体も、精神も、因子も、すべて。


存在の定義が、澪の周囲では耐えきれずに崩れた。


肉片も、血も、音も、残さない。


ただ、

一つの存在座標が、跡形もなく、虚無へと吸い込まれた。


澪は、何もしていない。

赫刃すら、抜いていない。


ただ、そこに立っていただけ。


だが、

それだけで、世界が従った。


それが——


赫刃の器たる者の、存在密度だった。


後続の黒界兵たちが、わずかに間合いを取り、ためらう。


「……異常存在」


誰かが、短く告げた。


だが、レクスは一切の表情を変えずに、前進する。


彼は理解している。

この少女が、ただ者ではないことを。


だが、目的は変わらない。


赫刃因子を、抹消する。


それだけ。


レクスは、無言で手を掲げる。


空気が軋む。

存在削減の構文式が、澪の座標を狙って展開される。


この式は、

通常なら、対象存在を数秒で抹消できる。


だが——


澪は、動かなかった。


ただ、そこに在った。


構文式は、届かなかった。


否。

構文式そのものが、澪に触れる前に消えた。


存在密度の暴圧。

言語化できない、ただ在るという事実の、純粋な暴力。


言葉ではない。

理屈ではない。


ただ、“ある”。


それだけで、

世界がひれ伏す。


セリア=アルヴェスが、金髪をかき上げながら、

虚空を見下ろすように微笑んだ。


「ふぅん……やっぱり、可愛いなぁ、キミ。」


彼女は、飄々と囁く。


「ねぇ、どうしてそんなに、壊れないの? どうして、そんなに、綺麗なの?」


その声は、憧憬にも似ていた。


ゼイン=クローヴィスは、赫刃封印具を見据えながら、

わずかに目を細めた。


「まだ、封じたままか……だが、限界は近い。」


彼は感じ取っていた。


赫刃の軋み。

無明の呻き。

世界構文との共鳴。


——この少女は、

耐えている。


だが、

それは限界の均衡にすぎない。


あと一歩。

ほんの僅かな衝撃で、

赫刃・無明は目覚める。


ゼインは、囁いた。


「あと少しだ……赫刃。君の真の姿を、見せろ。」


静かな、

狂気に濡れた祈り。


封印区の空間が、もう限界だった。


軋む。

悲鳴を上げる。


澪は、拳を握った。


まだ抜かない。

まだ、戦わない。


それでも——


澪は、

世界のために、己のために、

立ち向かうと、決めた。


赫刃に、飲まれることなく。


赫刃に、支配されることなく。


己自身で、立つために。


少女は、一歩、踏み出した。


ただそれだけで、

結界の断面が波打ち、空間の骨組みが震えた。


澪の黒髪が揺れ、

赤い瞳が、静かに、敵を見据えた。


——迎撃、開始。


空気が裂けた。


澪 クローデルが、一歩を踏み出した瞬間。


その足元から、

見えない圧が奔った。


風ではない。

魔力でもない。


存在の重さそのもの。


彼女が放ったのは、

ただの質量の暴圧。


だが、それは、

存在の座標を定義する世界構文すら捻じ曲げる、

異質な「現実干渉」だった。


黒界編成の先鋒、

存在削除兵たちが一斉に動く。


彼らは、

通常の兵士ではない。


世界を覆う定義構文に干渉し、

対象を存在ごと消すために生まれた異端の兵器。


だが。


澪の存在密度の前に、

彼らの削除構文は——届かなかった。


否。

届く前に、砕けた。


最初の兵が、澪に肉薄する。


直線的な突撃。

世界座標をずらし、干渉を逃れる動き。


だが、澪は一切動かない。


ただ、

無言で、

左手をわずかに振り払った。


——刹那。


空間が折れた。


突撃していた構文兵は、

その瞬間、姿ごと掻き消えた。


肉体も、因子も、存在座標も。

すべて、跡形もなく、消滅した。


音すらない。


ただ、“いなかった”という結果だけが、そこに残る。


黒界兵たちは、即座に陣形を変えた。


五機連携構文。

存在強化フィールドの展開。


通常であれば、

どんな魔導師でも破れない強化陣形。


だが、澪は、

ただ一歩、前に進んだだけだった。


その瞬間——


五機の存在フィールドが、

粉々に弾け飛んだ。


支える術式の座標定義が、

澪の「ただ在る」という密度の前に耐えきれなかった。


彼女の存在そのものが、

一つの「拒絶領域」と化していた。


——この領域に踏み込めば、死ぬ。


それが、言葉を超えて、黒界兵たちの本能に刻まれる。


だが、彼らもまた、

滅びのために作られた者たち。


恐怖は、ない。


恐怖を知覚するための”存在情報”すら、

彼らには与えられていなかった。


第二波が迫る。


今度は、

因果律歪曲を伴った連携攻撃。


世界の法則をねじ曲げ、

澪の立つ座標を破壊する狙い。


セリア=アルヴェスが、遠くから楽しそうに指を鳴らす。


「ふふ、これでも、崩れなかったら……素敵だなぁ。」


彼女は、

澪の存在そのものに、異様な興味を示していた。


次の瞬間。


世界が、裂けた。


目に見える形で、

澪の周囲の空間が歪み、

因果のパターンが断ち切られる。


通常なら、

この歪みの中で存在するものは、

因子そのものを分解され、死に至る。


だが、澪は。


無言で、

その空間を、

拳で、殴った。


——砕けた。


因果律の断層が、

空間の裂け目が、

澪の一撃で、打ち砕かれた。


それは単なる物理攻撃ではない。


存在密度の圧殺。


澪の「在る」という絶対性が、

因果律さえ、力尽くで押し潰したのだ。


黒界兵たちは、さらに動揺する。


——この存在は、通常兵器では壊せない。


レクス=ヴァルティエは、

灰色の瞳で静かに澪を見据えていた。


彼は、感じ取っている。


この少女の存在密度は、

黒界編成の基礎構文では削ぎきれない。


ならば——


さらに上位の構文式を、発動させる。


レクスは、

無言で片手を掲げる。


構文式の骨組みが、

世界そのものに刻まれ始める。


——存在定義上書き。


それは、

赫刃を抜かせる前に、

澪の存在座標を破壊する一撃だった。


澪は、それを見ていた。


赫刃が、封印具の中で、軋みを強める。


まだ、抜かない。


まだ、耐える。


澪は、

拳を握り直した。


存在圧をさらに高める。


——だが、限界は、近い。


身体の軋み。

精神の軋み。

そして、赫刃の囁き。


「抜け」

「解き放て」

「焼き払え」


赫刃が、囁く。


世界を、敵を、

この全てを、斬れ、と。


澪の黒髪が、揺れる。


紅の瞳が、燃える。


それでも彼女は、

まだ抜かない。


まだ、立つ。


存在だけで、

世界に抗う。


だが。


次の瞬間。


レクス=ヴァルティエが、

封印区の中心へと、一歩、踏み込んだ。


そして、彼の手が、赫刃の封印層へ向かって、伸びた。


その瞬間——


澪は、動いた。


——レクス=ヴァルティエが動いた。


灰色の瞳。

迷いなき歩み。


彼の伸ばした右手は、

封印された赫刃・無明の、すぐ手前へと迫る。


存在抹消の構文式が、

赫刃を取り囲む結界ごと、空間ごと、因果ごと、削ぎ落としながら進む。


澪は、それを見ていた。


冷たく、静かに。

一切の感情を交えず。


そして——


動いた。


一閃。


澪の身体が、音もなく駆けた。


封印区の床板が、

その一歩の衝撃だけで砕け散った。


だが、それでも、

澪は赫刃を抜かない。


鞘に収めたまま、

ただ己の存在圧と肉体だけで、

レクスに割って入る。


レクスが振り向く。


澪の一撃。


剣でも、魔術でもない。

ただ、一振りの拳。


だが、その拳は——


存在圧殺の極致だった。


空気が震え、

空間が折れ、

意味が砕ける。


レクスは、それを見切った。


わずかに姿勢を崩し、受けに入る。


——激突。


音がなかった。


ただ、

接触した瞬間、

存在と存在が激しく軋んだ。


澪の拳が、

レクスの存在圧を弾き、

その構文式をねじ伏せる。


しかし、

レクスもまた、赫刃を狙う執念の兵だった。


彼は一歩も退かない。


「……異常存在、解析継続。」


無機質な声。


澪の一撃で抑え込まれてなお、

レクスは、次なる削除構文を編み上げようとしていた。


だが——


澪もまた、

限界に近づいていた。


肉体が、悲鳴を上げる。


精神が、軋む。


世界が、押し返してくる。


赫刃・無明が、

鞘の中で、蠢く。


封印層が、悲鳴を上げた。


「斬れ。」


赫刃の囁き。


「定義を、記録を、存在を、斬り落とせ。」


それは、世界の声ではない。

赫刃自身の、

かつて幾千の存在を滅ぼしてきた、破滅の記憶。


澪は、

震える指先を、

赫刃へと伸ばしかけた。


——否。


違う。


まだだ。


まだ、抜かない。


澪は、

赫刃を封じたまま、

さらに一歩、踏み込んだ。


肉体が裂ける。


存在が軋む。


血が滲む。


それでも、

彼女は己の意志で、

赫刃に触れなかった。


自分自身で、立つ。


赫刃に頼らず、

赫刃に呑まれず、

赫刃を抜かずして、

この侵略を止めるために。


澪は、再び拳を握った。


次の瞬間。


封印区全体が、

澪の存在圧に、打ち震えた。


黒界兵たちが、次々と崩れる。

存在圧に耐えきれず、因子ごと、霧散していく。


だが、レクスだけは違った。


彼は、

赫刃を、

いや、赫刃を守るこの少女を、

真正面から見据えたまま、動かない。


澪は、わずかに眉を寄せた。


この男——


ただの存在抹消兵ではない。


ただの構文軍司令ではない。


彼もまた、

何か、特別な因子を宿している。


澪は悟った。


赫刃を守りきるためには——


この男を、超えなければならない。


だが、それには、

今の自分では足りない。


赫刃を抜かぬままでは、

この戦場を凌ぎきれない。


選択の時が、来た。


赫刃を、抜くか。


赫刃を、封じたまま、死ぬか。


封印具の中で、赫刃が震える。


その脈動は、

血のように熱く、

氷のように冷たく、

澪の存在を内側から抉っていた。


「——どうする、澪 クローデル。」


低く、誰かが囁いた。


自分の中の、もう一人の声だった。


抜け。

解き放て。

焼き払え。


赫刃は、呼んでいる。


だが、澪は。


まだ、抗った。


まだ、立っていた。


赫刃を、抜かずに。


その静かな、絶望的な、

それでも誇り高い抵抗の中で、

澪は、最後の一歩を踏み出す。


存在が、裂ける。


空間が、絶える。


運命が、軋む。


そして——


少女は、叫んだ。


声にならぬ声で。


誰にも届かぬ、祈りのように。


まだ、戦える。


赫刃を、抜かずに。


この世界を、守るために。


まだ——


戦える。


——限界だった。


澪 クローデルは、まだ赫刃を抜かずに立っていた。


だが、

肉体はすでに限界を超えていた。


存在密度は暴走寸前。

精神は赫刃の囁きに削られ、

意識の奥底で、“かつての何か”が目覚めようとしていた。


封印具の中で、赫刃・無明が呻く。


その震えは、

もはや封じ切れるものではなかった。


「……すまない。」


澪は、誰にも聞こえぬほどの声で、

赫刃に囁いた。


許しを乞うのではない。

拒絶するのでもない。


ただ——


覚悟のために。


澪は、

左手を封印具へと伸ばした。


だが、鞘からは引き抜かない。


ただ、

封印層に、触れた。


——刹那。


赫刃が、応えた。


封印層の最外殻が、

音もなく剥がれる。


その瞬間、

世界が震えた。


存在定義層が、

空間座標が、

因果律基盤が、

一瞬にして軋み、絶えた。


澪の周囲に、

不可視の紅の奔流が走った。


それは、赫刃・無明の”片鱗”。


完全解放ではない。

だが、封印を一部だけ剥がしただけで、

この世界は、もう支えきれないほどの負荷を受ける。


黒界兵たちが、

存在圧に耐えきれず、

次々と崩壊していく。


レクス=ヴァルティエの灰色の瞳が、わずかに細まった。


彼は即座に判断する。


——このままでは、前衛が壊滅する。


だが、

撤退はない。


レクスにとって、目的は赫刃因子の抹消。

どれほどの犠牲を払っても、命令は変わらない。


澪は、赫刃の奔流を拳に纏った。


抜かない。

だが、

その力を、使う。


一歩。


さらに、一歩。


空気が震え、

世界が軋み、

存在が悲鳴を上げる。


澪の拳が、

赫刃の片鱗を纏いながら、

黒界兵たちへと振るわれた。


——光景が、消える。


衝突の結果ではない。

存在そのものが、

観測される前に、

消滅した。


それは、破壊ですらなかった。


「存在しなかった」という

ただ一つの”結果”だけが、戦場に刻まれた。


澪の拳が、

赫刃の奔流と共鳴しながら、

次々と敵を塵すら残さず消していく。


セリア=アルヴェスが、

金髪をかき上げ、楽しそうに笑った。


「わぁ……綺麗……!」


彼女にとっては、

この光景すら、芸術だった。


ゼイン=クローヴィスも、

赫刃の片鱗を纏った澪を見つめ、

低く、陶酔した声を漏らした。


「これだ……これが、赫刃……」


彼の黒衣の下で、

禁構文因子が静かに滲み出す。


——そして、澪自身。


赫刃を抜かずに、

その一部だけを解放したことで、

彼女の精神は、徐々に蝕まれ始めていた。


紅の奔流は、

彼女自身の存在にも影を落とし始めていた。


「……まだだ。」


澪は、拳を握り直した。


意識を失うわけにはいかない。

赫刃に飲まれるわけにはいかない。


この戦場を、

己の手で護るために。


封印具の中、赫刃はなおも囁く。


もっと解き放て。

もっと焼き払え。

もっと斬り捨てろ。


だが、澪は応えない。


彼女は、

自分自身の意志で戦う。


赫刃に支配されず、

赫刃と共に歩まず、

赫刃を従わせるために。


澪は、赫刃の奔流を纏いながら、

戦場の中心に立ち続けた。


存在密度は、さらに跳ね上がる。


もはや、

ただそこに在るだけで、

空間が歪み、

時間が揺らぎ、

生命がひれ伏す。


澪は、

世界の重心だった。


——それでも。


彼女はまだ、

赫刃を抜いてはいない。


そして、

これからも、抜かぬまま、戦う。


世界を守るために。

自分自身を守るために。


そして、

赫刃を斬る者ではなく、

赫刃を斬らせぬ者として、在るために。


迎撃戦は、なお続く。


澪は、なお、立ち続ける。


赫刃の片鱗を纏いながら、

ただ、一人で。


——戦いは、まだ、終わらない。


黒界の空気が、変わった。


先程までとは違う。

ただの兵たちが押し寄せる波ではない。


今、前線に立つのは、

黒界編成の核——


レクス=ヴァルティエ。

セリア=アルヴェス。

ゼイン=クローヴィス。


彼らは、兵の後ろに隠れることなく、

自ら澪の前に姿を現した。


その一歩が、

封印区全体を震わせる。


レクスが、無言で右手を掲げる。


刹那、

空間の骨組みが震え、悲鳴を上げる。


彼の掌から放たれるのは、

通常の削除構文とは違う。


「存在因子補正式」


対象存在を直接抹消するのではない。

対象の「存在するための耐性」そのものを、上書きする。


澪という存在が、

この世界に立つために必要な最小限の耐性値を、

ゼロに、減衰させる。


つまり——

存在すること自体を、無意味にする術式。


澪の周囲に、

無色透明の構文螺旋が巻き起こる。


目に見えない、しかし確実な、“死”の螺旋。


だが、澪は。


赫刃の片鱗を纏った存在圧を、

さらに一段、高めた。


空間が、うなる。


紅い奔流が、

無色の螺旋に食い込み、ねじ伏せ、

わずかに押し返す。


——だが、それでも。


完全には防げない。


澪の身体に、初めて、裂傷が走る。


指先から滲む血。


赫刃に触れた時とは異なる、

純粋な、肉体への損傷。


それでも、澪は後退しない。


ぐっと、拳を握り直し、

存在圧をさらに押し上げる。


セリア=アルヴェスが、

その光景を見上げながら、

楽しそうに笑った。


「すっごいね、君。まだ折れないんだ?」


彼女は指先をひらひらと振る。


同時に、

封印区の因果律が、捻じ曲がった。


未来の流れそのものが、歪められる。


本来なら、澪が一歩踏み出すはずだった未来。

その未来ごと、

セリアは、無邪気に、破壊した。


結果、

澪の踏み出した足は、

未来を失った空白に沈みかける。


澪は、

その瞬間、赫刃の封印層から新たな奔流を引き出した。


紅の奔流が、

歪んだ因果を焼き払い、

澪を再び地に立たせる。


ゼイン=クローヴィスが、

その光景に、微かな笑みを浮かべる。


「素晴らしい……」


彼は赫刃を、

否、赫刃を抱えながらも、

なお自我を保ち続ける澪を見ていた。


黒衣の下で、禁構文因子が脈打つ。


彼もまた、

己が存在の底を超えようとしていた。


——だが。


戦場は、苛烈だった。


レクスの補正式。

セリアの因果破壊。

ゼインの禁構文干渉。


三重の圧力が、

澪に押し寄せる。


赫刃の片鱗を纏った存在圧ですら、

この三人を一度に受け止めることはできない。


澪の肉体が、きしむ。


精神が、裂ける。


赫刃が、呻く。


「——斬れ。」


赫刃の声が、再び、澪を呼ぶ。


抜け、と。


この全てを、

敵も、

空間も、

因果も、

斬り払え、と。


澪は、

一瞬、意識を刈られそうになる。


赤い視界の奥、

赫刃の本性が脈打つ。


解き放てば、

すべてが終わる。


だが、それは、

澪の意志ではない。


それは、赫刃の意志だ。


澪は、拳を、

指を、

存在を、

必死に、必死に、引き留めた。


——抜かない。


まだ、抜かない。


赫刃に、呑まれない。


赫刃に、屈しない。


自分自身で、

自分自身のために、

戦い抜くために。


澪は、

なおも立つ。


紅の奔流を、

拳に纏い直し、

赫刃を封じたまま、

三人に向かい合う。


絶望的な間合い。


理不尽なまでの重圧。


だが、澪は、

歩を進めた。


黒髪が揺れる。


紅の瞳が燃える。


存在そのものを、

押し上げる。


澪は、

赫刃を抜かず、

なお戦場を駆ける。


この命に賭けて。


この魂に賭けて。


この世界に、

まだ、希望を繋ぐために。


——戦いは、続く。


戦場、極限へ



——裂けた。


空間が。


因果が。


存在が。


世界そのものが、

澪と黒界編成の全面衝突を受け止めきれず、

ついに悲鳴を上げた。


封印区の床が砕け、

壁が軋み、

天井が消えた。


存在定義がねじ曲がり、

魔力流は逆流し、

法則そのものが破壊される。


戦場は、

もはや”場所”ではなかった。


ただ、

抗う意志と、

滅ぼす意志だけが、

ぶつかり合う、純粋な戦場。


——澪が動いた。


赫刃を抜かず、

赫刃の奔流を拳に纏い、

一閃。


空間を斬る。


存在を断つ。


言葉も、音も、意味すらも、

一瞬で断ち切る拳撃。


レクス=ヴァルティエが受けた。


灰色の瞳で、

澪の一撃を真正面から受け止める。


——存在定義干渉防壁。


レクスの身体を包む、

削除構文による防壁が、

澪の一撃で、音もなくひび割れる。


だが、砕けはしない。


レクスもまた、

この世界における「存在」という定義そのものを、

自ら書き換えることで耐えていた。


セリア=アルヴェスが、

踊るように虚空を駆ける。


彼女の指先が描く軌跡に、

因果律の断裂が生まれる。


澪が踏み出そうとする未来。


攻撃を繰り出す未来。


それらすべてが、

セリアの手のひらで無効化されていく。


「ねぇ、もっと壊れてよ!」


セリアは、

遊戯に興じる子供のように笑った。


だが、その破壊は、

世界そのものを根底から断つものだった。


ゼイン=クローヴィスもまた、

赫刃の奔流に狂おしいほどの憧憬を抱きながら、

禁構文を放つ。


通常の構文とは異なる。

世界そのものが、彼の手の中で、

“禁じられた再定義”を受ける。


澪の存在圧に干渉し、

密度そのものを分解しようとする暗黒の術式。


澪は、

その全てを、受け止めた。


赫刃を抜かず、

赫刃に呑まれず、

赫刃を支配したまま。


彼女は、

拳を振るうたびに、

空間を、未来を、存在を斬り裂いた。


だが。


負荷は、確実に蓄積していた。


肉体の裂傷は広がり、

赫刃の奔流が、暴走の兆しを見せ始めていた。


意識が、赤黒く滲む。


精神が、

赫刃の呼び声に、

少しずつ侵されていく。


「……まだ、だ。」


澪は、呻くように呟いた。


まだ負けない。


まだ、折れない。


まだ、赫刃を抜かない。


たとえこの命が裂けようとも——


自らの意志で、

この場に立ち続けるために。


だが、レクスたちもまた、

一歩も引かない。


レクスが、右手を高く掲げた。


「存在削除第七層、起動。」


セリアが、歌うように囁く。


「未来断絶、展開。」


ゼインが、低く呟く。


「禁構文因子、同期率78%——突入開始。」


三者の構文が、

澪を中心に、完全な閉鎖空間を築き上げる。


逃げ場は、ない。


受け止めるしか、ない。


それでも——


澪は、拳を振るった。


赫刃の奔流を纏い、

なお抗った。


紅の光が、戦場を染める。


存在を抉り、

空間を裂き、

因果を断ち、

時間すらも滲ませる一撃。


それでも、

レクスたちは立っていた。


それでも、

澪は立っていた。


戦場は、

限界を超えた。


世界が悲鳴を上げ、

空間が泣き、

存在がひび割れる。


このままでは——


すべてが、壊れる。


澪も、

黒界も、

封印区すら、

存在し得なくなる。


そして——


赫刃が、再び囁いた。


「抜け。」


「斬れ。」


「すべてを終わらせろ。」


紅の奔流が、

鞘の中から漏れ出す。


封印層が、悲鳴を上げる。


澪の黒髪が、風に舞う。


紅の瞳が、深く燃える。


そして、

彼女は、決断を迫られる。


赫刃を——抜くか。

それとも——このまま、全てと共に沈むか。


戦場は、

いま、最終局面へと突入する。


澪、存在壊しの奥義



空間が、裂けた。


戦場が、限界を超えた。


存在が、

時間が、

因果が、

この世界のすべての定義が、いま、澪と黒界編成の戦いによって軋んでいる。


封印具の中、赫刃・無明が暴れ、

「抜け」と囁き続けていた。


だが——


澪は、

赫刃に従わなかった。


彼女は、赫刃を抜かず、

赫刃を解き放たず、

己自身でこの戦場を終わらせると決めた。


赫刃ではない。

澪自身の力で。


世界を裂くためでもなく、

滅ぼすためでもなく、

——守るために。


澪は、静かに目を閉じた。


その場に立つだけで、

空間が悲鳴を上げる。


拳を握りしめる。


赫刃の奔流を、

意識の底で、

さらに深く、深く、封じ込める。


紅の奔流が、

澪自身の存在圧に呑み込まれる。


内包する。


圧縮する。


存在そのものを、

一点に収束させる。


周囲の空間が、

極限まで沈黙した。


音が、消えた。

光が、歪んだ。

時間すら、わずかに滲んだ。


——そこに在るのは、

一撃。


ただ、

一撃。


赫刃の力を借りず、

赫刃の支配を許さず、

澪自身が編み出した、

存在崩壊の拳。


名もない。


ただ、澪のための、

澪だけの、

世界拒絶の一撃。


レクス=ヴァルティエが、

その圧に気づき、無言で防御構文を起動する。


セリア=アルヴェスが、

楽しげな笑みを消し、初めて真剣な瞳を向ける。


ゼイン=クローヴィスが、

赫刃への憧憬ではなく、純粋な畏怖をその瞳に浮かべる。


澪は、動いた。


一歩。


たった一歩。


だがその歩みが、

戦場のすべてを震わせた。


世界構文が、軋む。


存在定義が、裂ける。


因果律が、悲鳴を上げる。


澪の拳が、

空気を割り、

空間を裂き、

未来を断つ。


赫刃を抜かず、

赫刃に頼らず、

ただ己の存在密度を極限まで圧縮した、

絶対拒絶の一撃。


レクスが構えた防壁が、

触れた瞬間に砕けた。


存在因子補正式すら、

押し潰された。


セリアの因果律干渉も、

ゼインの禁構文因子すら、

澪の拳が、すべてを塗り潰していく。


三人は、

一斉に後退を余儀なくされた。


空間が、

ぽっかりと抉り取られる。


そこには、何もなかった。


破壊すらない。

死すらない。


ただ、“無”だけが、残されていた。


澪は、赫刃を抜かずに、

己の意志だけで、

この戦場を制した。


だが、

彼女の身体は、限界を超えていた。


全身から血が滲み、

意識が、赤黒く滲み、

赫刃の封印層も、悲鳴を上げ続けている。


それでも、

澪は立っていた。


黒髪をなびかせ、

紅の瞳で、

なおもレクスたちを見据えて。


息をつくことすら、忘れていた。


ただ——


在った。


赫刃ではない。


澪 クローデルという、

一人の存在として。


——戦場は、静止した。


沈黙。


軋む空気。


裂けた世界。


それでも、

少女は、立っていた。


赫刃を抜かず、

赫刃に支配されず、

赫刃すら拒絶し、

なお、自らの手で、世界に抗い続ける者として。


——戦いは、まだ、終わらない。


だが、

今この瞬間、

澪は、赫刃とは別に、

“世界そのものが畏れる存在”となった。


孤高の刹那



沈黙。


世界が、静止していた。


剥き出しの空間。

裂けた因果。

滲んだ時間。


すべてが、

たった一人の少女の存在圧に押し潰され、

身動き一つ、許されぬ空白の中にあった。


——澪 クローデル。


赫刃を抜かず。

赫刃に頼らず。

赫刃を従えもせず。


己自身の意志だけで、

この場に立つ者。


彼女の両膝は、わずかに震えていた。


身体は、悲鳴を上げていた。


全身の筋肉が裂け、

血管が破れ、

皮膚が亀裂を走る。


内側では、

赫刃の奔流がなおも蠢き、

封印層を破ろうと暴れていた。


精神も、限界だった。


意識の奥では、

赫刃の幻影が蠢いている。


「抜け」

「斬れ」

「焼き払え」


幾度も、幾度も、呼びかけてくる。


その度に、

澪は、

自分自身を引き裂くような痛みで、

赫刃を封じ続けた。


立っているだけで、世界が崩れる。


それでも。


彼女は——


まだ、立っていた。


**


遠く。

黒界編成、中核の三人。


レクス=ヴァルティエ。

セリア=アルヴェス。

ゼイン=クローヴィス。


彼らも、動けずにいた。


レクスは、

わずかに眉を寄せ、状況を冷静に分析する。


「現在、対象存在密度——定義上限突破。既存削除構文、無効化。」


淡々とした声。

だがその奥には、初めて微かな「警戒」の色が滲んでいた。


セリア=アルヴェスは、

唇を噛み、金髪を揺らす。


「これ、もう……壊すとかのレベルじゃないよねぇ。」


無邪気さの裏に潜んでいた、破壊者の本能。

その彼女でさえ、

今この瞬間だけは、

軽口を叩くことができなかった。


ゼイン=クローヴィスも、

赫刃への憧憬ではなく、

澪という存在そのものに、

純粋な恐怖と敬意を抱いていた。


「……赫刃ですらない。君自身が、世界を拒絶している。」


黒衣の下で、

ゼインの拳がわずかに震えた。


彼らは理解していた。


このまま進めば、

たとえ赫刃因子を制圧できたとしても、

自らもまた、存在定義の崩壊に巻き込まれることを。


レクスは、冷静に選択肢を絞る。


①ここで無理に突撃して赫刃因子を奪取。

②あるいは一時撤退、再編成後に再侵攻。


答えは、明白だった。


「——一時後退。」


レクスは、静かに宣言した。


セリアは肩をすくめ、

ゼインは無言で頷いた。


彼らもまた、

無駄死にをするためにここに来たわけではない。


黒界編成、中核部隊。

存在抹消のために最も冷徹でなければならない者たち。


合理と効率こそが、彼らの存在理由だった。


**


黒界兵たちが、

音もなく撤退を開始する。


レクス、セリア、ゼインも、

静かに、封印区から引き下がっていく。


戦場に、

ただ一人、澪だけが残された。


血を滴らせ、

肉体を限界まで傷つけ、

精神を引き裂かれながら、

なお、赫刃を抜かずに立つ少女。


空白の世界に、

紅い瞳が、ただひとつ、燃えていた。


澪は、

崩れそうになる身体を、

必死に、必死に支えていた。


——抜かない。


——絶対に。


赫刃に呑まれない。


赫刃を、抜かない。


自分を、自分で守る。


世界を、自分の意志で守る。


赫刃ではなく——


澪 クローデル自身が。


彼女は、

何度目かの深い呼吸を、

血の味を噛み締めながら繰り返した。


そして、

その場に——


ただ、立ち続けた。


孤高の刹那。


世界のすべてを背負うように。


赫刃の囁きを封じながら。


静かに、静かに、

澪は、立っていた。


**


——戦いは、いったん終わった。


だが。


次なる戦いは、

もう始まりつつあった。


澪はそれを、

誰よりも早く、

本能で感じ取っていた。


この世界に、

赫刃を求める者たちが、

まだ無数に、蠢いていることを。


そしてそのたびに、

彼女は、

今日と同じように——


赫刃を抜かず、

赫刃を封じ、

赫刃を抱えたまま、

世界と戦い続けるのだろう。


たった一人で。


それでも。


笑いもしない。

泣きもしない。


ただ——


立ち続けるために。


第3章20話 第四節『赫刃封ぜし者』



——静寂。


それは勝利の鐘ではなかった。


戦いを終えた後の、

血と痛みと、死の匂いが漂う、冷たい沈黙だった。


澪 クローデルは、

誰もいなくなった封印区の中心に、

一人、佇んでいた。


彼女の身体は、

満身創痍だった。


軍服は破れ、

素肌には無数の裂傷が走り、

関節は腫れ、

内側では無数の血管が破裂していた。


呼吸一つするたびに、

肺の奥が焼けるように痛んだ。


足元には、

滲み出た血の跡が、小さな円を描いていた。


**


澪は、

膝をつきそうになる足を、必死に踏みとどめた。


赫刃の囁きが、まだ耳奥で響いている。


「抜け」

「斬れ」

「焼き払え」


戦闘中よりも、

今の方が、赫刃の声は鮮明だった。


疲労しきった精神は、

常ならぬほどに脆く、

赫刃に呑まれやすくなっていた。


澪は、

両手で顔を覆った。


熱い。

血が滲む。

意識が、震える。


それでも——


彼女は、赫刃を抜かなかった。


**


静かに、

澪は立ち上がった。


片膝をつきながら、

震える手を赫刃の封印具へと伸ばす。


封印層が、軋んでいる。


戦闘の中で、

何層もの封印が剥がれ、

赫刃の奔流が封印具を超えて滲み出していた。


このままでは、

いずれ完全解放に至る。


澪は、

最後の力を振り絞り、

赫刃に再び、封を施し始めた。


**


術式を編む。


手を震わせながら、

指先に魔力を流し込む。


結界陣の構文を重ね、

存在定義を書き直し、

赫刃因子を再び封じる。


呼吸は浅く、

視界は滲み、

意識は今にも途切れそうだった。


だが、

澪は止まらなかった。


赫刃に呑まれるわけにはいかない。


赫刃を抜かずに戦うと誓った。


だから——


封じる。


赫刃を、

再び、己の中に、沈める。


封印補強の構文式が、赫刃の周囲に幾重にも重なった。


紅の奔流が、

軋みながら、

少しずつ、鞘の中へと押し戻されていく。


それは、

肉体を裂かれるよりも苦しい作業だった。


精神を、

意志を、

存在そのものを削られる痛みだった。


**


どれほどの時間が流れただろう。


澪は、

ようやく最後の術式を結び終えた。


赫刃は、

静かになった。


まだ完全ではない。


封印は、応急処置に過ぎない。


だが——


今は、

赫刃は、

再び沈黙していた。


澪は、

そこでようやく、

膝から崩れ落ちた。


全身の力が抜ける。


意識が、遠ざかる。


それでも、

彼女の瞳は、かすかに、微笑んでいた。


——守った。


赫刃を、

世界を、

自分自身を。


**


血だまりの中に、

ただ一人、

崩れ落ちた少女。


その胸元で、赫刃・無明は静かに眠る。


世界は、

澪の存在によって、

今日も、辛うじて繋がれた。


誰も知らない。

誰も気づかない。


だが、確かに。


この世界は、

たった一人の少女によって、

今日、救われたのだ。


静寂の中。


誰に祝福されることもなく。


澪 クローデルは、

静かに、

眠りに落ちた。


ただ、

存在そのものを守り抜いた、

誇りと共に。


—目覚め—



——夢を、見ていた。


いや、

それは夢と呼ぶには、あまりに重く、深く、冷たい。


澪 クローデルの意識は、

深い水底に沈んでいた。


耳鳴りのような赫刃の囁き。


「斬れ」

「焼き払え」

「存在を否定しろ」


——違う。


澪は、沈みながら答えた。


私は、私を斬らない。


赫刃の奔流は、

なおも手を伸ばしてくる。


甘い言葉で、

苦しみを終わらせようと囁く。


「楽になれ」

「すべてを終わらせろ」


——違う。


澪は、胸元に手を当てた。


そこにある。

赫刃も、

自分も、

世界も。


全てが、

ここに、在る。


それを、壊してはならない。


それを、

斬ってはならない。


澪は、目を閉じた。


そして、

赫刃の囁きを、

静かに、拒絶した。


私は、私を守る。


赫刃の声が、遠ざかっていく。


暗闇が、静かに引いていく。


痛みと、温もりと、存在の感触が、戻ってくる。


そして——


澪は、目を開けた。


**


静寂。


冷たく澄んだ空気。

崩れかけた封印区の天井。

血の匂い。


目の前には、

誰もいない。


戦場は、

完全に静まり返っていた。


澪は、

重いまぶたを押し上げながら、

ぼんやりと視界を馴染ませた。


身体は、

ひどく重かった。


腕が上がらない。

足が震える。

喉は乾き、

内側から焼けるような痛みがあった。


それでも——


澪は、

そっと、息を吸った。


生きている。


そう、

生きている。


赫刃を抜かずに。


赫刃に呑まれずに。


自分自身の意志で、

この世界に、まだ、立っている。


それだけが、

澪にとっては十分だった。


**


ふらりと、

澪は身体を起こした。


背中に鋭い痛みが走る。

裂けた筋肉が、怒りに満ちたように悲鳴を上げる。


だが、無視した。


時間はない。


赫刃の封印層は、

応急処置で抑えたとはいえ、

未だ不安定だった。


このままでは、

また封印が破れかねない。


澪は、血に濡れた指先を、

赫刃の封印具へと伸ばす。


封印構文を再編成する。


意識が朦朧とする。


構文線が二重に、三重に、滲んで見える。


それでも、

彼女は編み続けた。


赫刃を、もう一度、深く沈めるために。


抜かない。

斬らない。


自分を、自分で守るために。


封印構文が、静かに、赫刃を覆っていく。


紅の奔流が、

かすかな呻きを上げながら、

再び鞘の奥へと引き戻されていく。


赫刃・無明は、

不服そうに、しかし確かに、

再び眠りについた。


**


すべてを終えたとき。


澪は、

静かに、床に座り込んだ。


もはや、

立っていられなかった。


だが、それでもいい。


赫刃は、封じた。


存在は、守った。


自分も、世界も。


今この瞬間だけは——


澪は、

小さく、ほんの小さく、

目を閉じ、息を吐いた。


**


静寂の中。


たった一人で。


たった一人で、

澪 クローデルは、

世界に立ち続けていた。


その背には、

誰もいない。


その手には、

赫刃があった。


だがそれは、

もはや彼女を支配するものではない。


赫刃は、

彼女の中で、

静かに封じられていた。


少女は、

ただ静かに、

眠るように、

意識を閉ざしていった。


まだ、戦いは終わっていない。


だが、

今だけは。


今だけは、

この静けさに、

身を委ねてよかった。


澪は、

そう思った。


そして、

静かに、深く、眠りに落ちた。


**


——世界は、

たった一人の少女によって、

今日も、救われた。


誰にも知られることなく。


静かに、

静かに——。


第3章20話 第五節『赫刃封ぜし朝』



微かな光が、

ひび割れた封印区の天井から差し込んでいた。


朝日。


それは、昨日の戦いなどなかったかのように、

静かで、優しかった。


**


澪 クローデルは、

ゆっくりと目を開けた。


重い瞼。

痛む身体。

軋む骨。


全身が、戦いの爪痕を刻まれていた。


起き上がるだけで、

身体中の痛みが一斉に目を覚ます。


筋肉の裂傷。

剥がれた皮膚。

内側で鬱血した内臓。


それでも。


澪は、

淡々と、

静かに起き上がった。


**


周囲を見渡す。


崩れた壁。

剥がれた結界。

滲んだ血の跡。


封印区は、

あの日の戦いの痕跡をそのまま残していた。


だが、赫刃は静かだった。


封印具の中で、

赫刃・無明は、

ひとまず眠っていた。


昨日、

赫刃を抜かずに戦った。


赫刃に呑まれず、

自分自身で封じきった。


その記憶だけが、

澪を支えていた。


**


立ち上がる。


足元がぐらりと揺れる。


それでも、

澪は歩く。


破れた軍服のまま、

血に濡れた手のまま。


外へ。


世界へ。


日常へ。


たとえ世界が、

もう昨日とは違っていたとしても。


澪は、歩く。


**


封印区の外。


誰もいない。


魔導学府グラン・アカデメイアの敷地は、

夜明けの冷たい空気に包まれていた。


遠く、塔の鐘の音が聞こえた。


——朝だ。


ただ、それだけ。


**


澪は、

歩きながら、

自分の存在を確かめていた。


赫刃の囁きは、もう聞こえない。


痛みはあった。


傷もあった。


だが、それ以上に。


生きていた。


赫刃に呑まれず、

赫刃を抜かず、

自分の意志で、今日を迎えた。


それだけが、

胸の奥に、かすかな灯をともしていた。


**


だが。


世界は、静かに蠢いていた。


ザレク帝国。

黒界編成。

彼らは、撤退などしていなかった。


一時後退。


次なる侵攻。


そして、

赫刃因子の完全奪取。


すべては、

まだ、続いている。


澪が知らぬところで。


**


塔の影に、

誰かの気配があった。


黒い外套。

隠された顔。

潜む構文因子の気配。


——見張り。


ザレク帝国は、

すでに次なる一手を打ち始めていた。


澪を、

赫刃を、

世界そのものを、

新たな戦火に巻き込むために。


だが、今はまだ。


澪は、

その存在に気づかない。


ただ、

静かに、

世界の中に佇んでいた。


**


朝日が、澪の肩を照らす。


その光は、

彼女の血に濡れた軍服にも、

赫刃を封じた封印具にも、

静かに降り注いでいた。


どんな絶望の中にも、

光は、確かに、あった。


澪はそれを、

まだ、信じていた。


たとえ、

どれだけ戦いが続こうとも。


たとえ、

この身が何度、血に染まろうとも。


たとえ、

世界のすべてが赫刃を求めて蠢こうとも。


自分は——


赫刃を抜かない。


赫刃に呑まれない。


自分の意志で、

今日を、生きる。


澪は、

ただ静かに、

歩き出した。


新たな一日の中へ。


**


——戦いは、まだ続く。


だが今は、

ほんのわずかの、静かな朝だった。



【第五節・完】


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