【第1章 第19話:孤独な光と、咲かない花】
“赫ノ令嬢”という称号は、瞬く間に世界中に広がった。
各地の都市、魔導学会、教会、地方貴族、果ては辺境の民まで。
誰もが、その名を口にし、祈り、恐れ、称えた。
だがその名を、当の本人――澪自身は、口にすることはなかった。
•
澪は、自室のテラスに腰掛けていた。
空を見上げれば、雲の隙間からひときわ赤く光る星が覗いていた。
あれは、“赫ノ花”と呼ばれた名のない星。
誰が名付けたのかはわからない。
だが、その星の誕生と“澪が赫刃を抜いた夜”が一致していたことは、
世界中でささやかれていた。
澪は呟く。
「私が斬ったものの代わりに、空が何かを“咲かせた”のかな」
赫刃は、彼女の膝の上で眠っていた。
けれど、その眠りは浅い。
彼女の心の波に反応し、微かに刃が脈打っている。
•
そのとき、そっとドアが開いた。
姉、エルノアだった。
「……少しだけ、話してもいい?」
澪は何も言わなかった。
だが、拒む素振りもしなかった。
エルノアは、澪の隣に座る。
ふたりの間に、しばしの沈黙。
そして、エルノアが小さな声で言った。
「私は……“澪”って名前が、好きよ」
その言葉に、澪は反応を見せなかった。
ただ、まばたきの速度が、少しだけ遅くなった。
「皆が“赫ノ令嬢”って呼んでるけど、
私は、あなたを“澪”って呼びたい。
名を斬る力を持っていても、
私は、あなたの名を手放したくないの」
それは、祈りのような言葉だった。
けれど、澪は静かに首を横に振った。
「ありがとう。でも、もう……その名前は、“斬った”から」
エルノアの瞳が揺れる。
「……自分の名前、嫌いだったの?」
澪は、少し考えるように空を見た。
そして、ぽつりと答えた。
「嫌いじゃなかったよ。
でも、愛されすぎて、“私のものじゃなくなった”」
「……っ」
エルノアは言葉を詰まらせる。
そして、絞り出すように言った。
「それでも、私は……また“澪”って呼びたいよ。
それが、わたしにとっての“あなた”だから」
その声は、届いた。
でも、澪は応えなかった。
•
その夜。
澪はひとり、書斎にいた。
机の上には、かつて燃やしたはずの「澪の記録帳」があった。
誰かが、再び書き直していた。
字は、震えていた。
不揃いで、滲んでいて、でも――必死だった。
“澪が、初めて笑った日”
“澪が、初めて眠れなかった夜”
“澪が、母の髪を撫で返した瞬間”
澪は、指先でその頁をなぞった。
赫刃が、静かに鞘の中で鳴った。
「……斬らないよ。これは、斬れない」
呟きは、赫刃の声ではなく――澪自身の、心からの声だった。
•
けれど、同時に彼女は知っていた。
この帳が、**“彼女を澪という存在に縫い止めようとする”**ものであることも。
だから、彼女は頁を閉じた。
抱きしめもせず、燃やしもせず、ただ、閉じた。
それが彼女の――“拒絶と、希望の狭間”での答えだった。
•
空では、赫ノ花がまたひとつ瞬いた。
咲かないはずの“名前のない花”が、
誰にも知られず、誰にも記されず、
けれど確かに、澪という孤独な光を照らしていた。




