【第一話】初デートは“感じ悪い”から始めますわ
初デートの待ち合わせ時刻は、とっくに過ぎていた。
それなのに、わたくしはあえて優雅に、のんびりと歩を進めていく。まるで「遅刻なんて何も気にしておりませんわ」と言いたげに微笑みながら、カフェの奥へと向かった。
わたくし——レティシア・フェーヴル侯爵令嬢は、その立ち居振る舞いとは裏腹に、内心では「わざと待たせてごめんなさい、本当にごめんなさい」と、半べそをかいていた。作戦とはいえ、小心者な心臓は不安と罪悪感できりきりと軋んでいる。
テラスの特等席。彼はすでにそこにいた。姿勢よく座る彼の姿は、周囲の風景に溶け込みながらも、ひときわ目を引く存在感を放っていた。まるで絵画の中の貴公子のような凛とした佇まい。
その前に立ち、華やかなローズピンクのドレスを翻して帽子を指先で押さえ、挑むような笑みを作る。
「お待たせしました。どうしても髪がうまくまとまらなくて……ふふ、乙女心ですわ。ご理解いただけますわよね?」
どう? 感じ悪いでしょう? 三十分も遅れておいて、謝りもしないのよ?
そう。今日は"悪女"を演じるつもりなのだ。この縁談、どうしても破談にしていただかなくてはならない。
さあ、お怒りになって——!
なのに彼は、驚くほど穏やかな表情で椅子を引き、優しく微笑んだ。整った顔立ちに浮かんだ笑みは、怒るどころかむしろ安堵の色さえ帯びている。
「安心しました。この日差しで体調を崩されたのではと心配していたところです。そのブリムハット、とてもよくお似合いですよ」
……まあ。ご丁寧にどうも。
——なんですの、この方は? 少しくらいムッとしてくださっても、いいのではなくて?
拍子抜けした気持ちを隠しつつ、席につくとわざと高慢に顎を上げた。
「このお店、わたくし、よく利用しておりますの。おすすめは……紅茶。いえ、このパイですわ。絶品なのよ。これをいただきましょう」
ふふ、どうかしら? メニューを一緒に選ぶこともせず、相手の好みも聞かず、一方的に押し付けてやりましたわ!
本当は今日が初めての来訪で、メニューもよく知らないのだけど、そんなこと、おくびにも出さないつもり。だが、頬の熱さが少し緊張を表していたかもしれない。
薄目を開けて、彼の反応をうかがう。
「それは頼もしいですね。では、あなたのおすすめを信じて、私もそのパイをいただきましょう」
……まあ。なんてスマートな紳士なのかしら。ますます困るじゃない。
彼は、穏やかな微笑みを浮かべながら答えた。その淡い紫色の瞳には、何かを見透かしたような、しかし決して指摘はしない優しさが宿っている。
完璧な笑みを浮かべたまま、ウェイターを呼んで注文を済ませてしまった。
ああもう、そうやって全部受け流されると、作戦が台無しなのに!
その後も、わたくしは感じの悪い発言を心がけた。
「なんてこと! このパイ、甘すぎますわ! でも珈琲と一緒にいただくと相性がよろしいのね。ぜひ召し上がって」
「ここのインテリア、悪趣味ですわね! でもわたくしが見慣れていないだけかしら? 異国の文化を取り入れるなんて、最先端だわ」
……などと、我ながらひどい言い草ばかり。
しかも初来訪であることを明らかに隠しきれていなかった。
(ねえ、退屈でしょう? 今すぐ席を立ってお帰りいただいてもよろしくてよ?)
それなのに彼は一向に怒る様子も見せず、穏やかで紳士的な態度を崩さずに、時折クスクスと上品に笑ってさえいた。
——アランなら、とっくに怒って、わたくしを置いて帰っている頃なのに。
どうして怒ってくれないのかしら。このままでは、嫌われて向こうから破談にしていただく作戦が台無しではありませんの!
わたくしは心の中で、思いきり頭を抱えていた。
レオニス・ディルアーク。
公爵家の嫡男である彼は、この悪女芝居などものともせぬ、鉄壁の紳士だった。
紅茶が空になり、陽が傾きはじめた頃。
気がつけば、最初の悪女作戦はどこへやら。わたくしの顔には笑みが広がっていた。しかも、作り笑いではなく、心からの笑顔。
「……それで、公爵様が間違って乗ったのが、隣国の使節団の馬車だったのですか? まあ、信じられませんわ!」
彼は話術にも長けていた。真面目な顔で、飄々と笑いを誘う。
その意外な落差が何とも面白くて、自然と心が和らいでいく。
「ええ」彼は少し頬を紅潮させながら続けた。
「父の行動には、私も驚きました。同行していた私まで巻き込まれて。見知らぬ使節たちと目が合った瞬間といったら、今でも夢に出てくるほどですよ。『貴殿らは何者だ』と、三カ国語で問い詰められたんです」
「ふふ、あの鉄の宰相閣下が……!」
想像するだけで笑いが込み上げる。"鉄の宰相"なんて呼ばれる厳つい公爵閣下があたふたする姿を想像するだけで、もう可笑しくて仕方がない。
「その後、父は堂々と『迷子になった』と宣言したんです。一国の宰相が、他国の城下町で」
そう語る彼の表情は柔らかく、家族への愛情が垣間見える。その後も彼の語るトリリンガルジョークに、笑い声は止まらず、テラスには明るい空気が満ちていった。
……あれ? おかしいわ。
今日の目的は「嫌われる」ことだったはずなのに?
今のわたくしは、悪女どころか淑女の仮面さえ脱ぎ捨てて、彼との会話に夢中になっている。
「そろそろ、お時間でしょうか?」
彼が腕時計をちらりと見て、やわらかく声をかけてきた。
はっとして思わず背筋を伸ばす。
「あら、本当ですわね。もう日も傾いて……」
「お見送りします。馬車までご一緒してもよろしいですか?」
「……お好きになさって」
——その返事は、もはや"ツン"とも呼べないほど柔らかくて。
自分でも、気づかぬうちに声が和らいでいたことに、心の中で赤面する。
カフェを出ると、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
時間を忘れて楽しむつもりなんてなかったのに。作戦を練っている最中は、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
石畳の道を並んで歩くとき、そっと彼の横顔を盗み見た。
彼は歩く速度をわたくしに合わせ、時折こちらを気にするように視線を落としてくる。
(……こんな紳士も、いるのね)
その瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは、恋人――アランの姿だった。
いつも約束した待ち合わせ時間に遅れ、歩くときもわたくしの歩幅などお構いなしに、どんどん先へ行ってしまう人。「……疲れたわ。置いていかないで」と訴えても、「何で? 俺は平気だけど」と笑うだけだった。
それでもわたくしは、「そういう自由なところだって素敵よね……?」と、自分に言い聞かせてきた。ずっと、そうして。
けれど――
「……?」
突然立ち止まると、レオニス様もすぐに足を止めた。
不思議そうに、けれど穏やかに、わたくしを見つめる。
「……少し風が気持ちよかっただけですわ」
目をそらしながら、ちょっと生意気に笑ってみせる。
——それなりに、うまく演じていたつもりだったけれど。
自分でも演技が崩れているとわかっていた。
彼はわたくしの下手な芝居を責めもせず、静かに頷いた。
「たしかに、良い風ですね」
彼は空を見上げた。
「今宵は星が綺麗そうですね。……今夜は、楽しい夢を」
そう言って、わたくしの手に口づけすることもなく、ただ一礼して、彼は背を向けた。
最後まで、完璧な紳士だった。
馬車に乗り込み、窓から彼の後ろ姿を見送る。
その背が遠ざかるほどに、胸の奥で、何かが膨らんでいく。
——認めたくなかった。
でも確かに、わたくしの心は、彼と出会う前とは違っていた。
(どうしましょう。あの方のこと……ちょっと、素敵だと思ってしまったわ)
胸の奥に、小さなときめきが芽吹いていた。
アランへの想いは確かにある。けれど、今日のレオニス様とのひとときが、こんなにも心を揺らすなんて。
少なくとも、今日の付け焼き刃な“悪女作戦”が失敗に終わったことだけは、疑いようがなかった。
──続く。