第五十九話:深淵の問答と、規格外の殴り合い
セリアが仕掛けたトラップにより、王座の間の床から真っ逆さまに突き落とされたネロ。
果てしなく続くような暗い滑走路を滑り落ち、やがて視界の先に淡い照明の明かりが見えてきた。
ズンッ、と。
重い着地音と共に彼が降り立ったのは、むき出しの岩肌とコンクリートで囲まれた広大な地下空間だった。
「……くっそ……どこまで降りた!! 早く戻らねぇと……!」
ネロが体勢を立て直し、頭上を見上げて忌々しげに舌打ちをした、その時。
「……ここは地下……俺たちが組み手で使っていた場所だ……」
岩陰の奥から、感情の温度を一切持たない、氷のように冷え切った声が響いた。
ゆっくりと歩を進めて姿を現したのは、短く刈り込まれた銀髪を後ろへ流した、見上げるほどの巨漢の男。
「……お前……ダルセとか言ったか……」
ネロは両腕の分厚い装甲――『ヘビー・プレッシャー』を下げたまま、漆黒の瞳を鋭く細めた。
先の聖都強襲の際、師であるカルロを赤子のようにあしらった『沈黙の灰』の頂点。
「ああ……沈黙の灰のボスをやってる……。ネロ。殺す前に聞きたいことがある」
「……はっ! 殺される気もねえが、なんだ?」
ダルセはだらりと両腕を下げたまま、世間話でもするような平坦な声で切り出した。
「……お前、こちら側に来ないか?」
「……は?」
「良い提案だと思わないか? こちら側にはお前の姉であるアッシュ・クイーンもいる。私もちょうど頼りになる駒が欲しかったところだ。どうだ?」
まるで当然の権利のように語られる勧誘。
ネロの胸の奥で、先刻の解剖台での惨劇がどす黒く燃え上がった。
「バカ言ってんじゃねぇよ……てめぇらはベラをやりやがった……!!」
ネロの怒号が、冷え切った地下空間に激しく反響する。
両腕に嵌め込まれた分厚い装甲が、内部の機械が悲鳴を上げるほどに強く握り込まれた。
漆黒の瞳の奥で、押さえきれない殺意がどす黒い『灰光』となってチロチロと燃え上がり、周囲の空気をジリジリと焦がし始める。
「……お前の友人に手を掛けたことは謝罪しよう……だが、なぜお前は旧人類側にいる……?」
だが、向けられた極大の殺意を前にしても、ダルセの表情は微塵も動かない。
まるで道端の石ころを踏んでしまった程度の、一切の罪悪感も感情の揺れも欠落した平坦な声。
そのあまりにも異常な温度差と理解不能な問いに、ネロは張り詰めていた怒りの矛先を僅かに狂わされ、怪訝に眉根を寄せた。
「旧人類だと?」
ダルセの金色の瞳が、哀れむようにネロを見据える。
「……そうだ。我々はウイルスに打ち克った新人類……これから世界を統率する器だ……。お前も半端者ではあるが、こちら側であることは認めざるを得ない……だから、一度は勧誘しておこうと思ってな……。どうだ?」
重苦しい静寂が、地下空間に降り下りる。
ネロは微動だにせず、両腕の分厚い装甲をギリッと握り込んだ。
重厚な金属が噛み合う音が、彼の明確な拒絶として響く。
「俺こそ聞くが、お前ら投降する気はないのか?」
ダルセもまた、無言のまま極めて自然体で、両の拳をスッと構えた。
張り詰めた殺気を放つネロに対し、その巨体から発せられるのは力みも戦意すらも感じさせない、ただ呼吸をするのと同じくらい自然な所作だった。
「……ない。それでお前の答えは……?」
人類の進化や世界の統率。
そんな高尚な理屈など、ネロにとっては路傍の石以下の価値すら持たない。
ネロは両腕の装甲の重みを確かめるように微かに重心を落とし、ただ一つの揺るぎない真実だけを口にした。
「新旧だからどうこうとか、そんなの俺には関係ねぇよ……。俺はただ、フィオーネが隣にいるならどこだっていい。ただそんだけだ……」
漆黒の瞳に宿る灰光が、狂気ではなく、ただ一人の女を護り抜くという強烈な『執着』の熱を帯びて静かに燃える。
そのあまりにも個人的で俗物的な返答に、ダルセは無機質な金色の瞳をわずかに細めた。
「……フィオーネとは……そうか……あの女か……」
記憶の底から、ネロの傍らに立っていた純白のコートの女の姿を引っ張り出し、ダルセは理解できない異物を見るように僅かに眉を動かした。
「確かアッシュ・クイーンがお前の義姉だと……本物の姉がいるのに、なぜ義姉に拘る?」
「……はっ……決まってんだろッ!!」
ネロは一切の迷いなく、堂々と、その胸の内を地下空間に響き渡らせた。
「義姉だのどうだの言う前に、女として俺が好きだからだッ!!」
一切の虚飾もない、純度100%の愛の宣言。
だが、ダルセはその言葉を聞き、深く息を吐いた。
「………失望したな……まさかそんな俗物的な欲が残ってるなど……。お前はやはり旧人類だ……」
「……へ……なら、どうするよ?」
ネロの問いに対し、ダルセはひどく退屈そうな、心底つまらなそうな顔をして氷のように冷たい声を落とした。
「……決まってるだろ?」
空気が、爆ぜた。
ダルセの巨躯が、視界から一瞬で消えるほどの異常な速度でネロの眼前に肉薄した。
「ここで殺す」
一切の予備動作なく放たれた、死の重さを伴う右拳。
だが、ネロの目はそれに食らいついていた。
迫る右拳を自身の左の装甲で強引に叩き落とし、完全に空いたダルセの懐へ、右拳の装甲をねじ込む。
『対単体・極大貫通プロトコル、ロード。魔導回路01〜03、直列連結確立』
『警告。マナ・プレッシャー、規定値を突破。安全リミッター、強制遮断』
『──ユーザーへの反動衝撃、予測最大値。反動相殺シーケンス、スタンバイ』
『──対象の装甲組成を、”不要物”と再定義。撃発機構、起爆準備──』
耳の奥を刺す充填音と、排熱ダクトから吹き出す高圧の蒸気。
『魔導杭、圧縮臨界』
「まずは挨拶代わりだッ!!」
ゼロ距離で空間が圧縮され、極大の鋼鉄の杭がダルセの胸板めがけて撃ち出された。
空気を粉砕する凄まじい爆音と共に、ダルセの巨体が後方へと一直線に吹き飛んでいく。
間髪入れず、ネロは左拳の装甲のシステムを起動させた。
『魔導回路01〜03、直列連結確立』
だが、数十メートル後方の瓦礫の山に叩きつけられたはずのダルセは、何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がっていた。
「マテオを倒しただけはある……いい力だ……だが……」
ダルセの金色の瞳に、純度の高い『灰光』が明滅する。
体内のウイルスが解放され、服の下で筋肉がメキメキと異常な音を立てて膨れ上がっていく。
0.1%の壁を越えた、完全なる新人類の威容。
「私を倒すのには、少し威力が不足しているようだな」
絶望的なまでの頑丈さ。
だが、ネロの顔に怯えはなく、むしろ獰猛な笑みが深く刻まれた。
「言ったろ? 挨拶代わりだってよ……」
ネロの漆黒の瞳もまた、同じ『灰光』に完全に支配される。
限界を超えてウイルスの力を全開放し、全身の筋肉がはち切れんばかりに強化されていく。
「これは……久しいな……。久方ぶりに熱が入りそうだ……」
ダルセが静かに拳を握り直す。
「へっ……そうかい! じゃぁ、もう一発お見舞いしてやるよッ!!」
ネロは石畳を砕いて疾走し、瞬時に間合いを詰めた。
『魔導杭、圧縮臨界……』
がら空きになったダルセの脇腹めがけ、左のパイルバンカーを容赦なく叩き込む。
音速の鋼鉄の杭が、肉を穿つ。
「っ!」
ダルセの顔に、一瞬だけ確かな痛みの表情が浮かんだ。
だが、その巨体は決して崩れない。
ダルセは脇腹に致命的な一撃を受けながらも、それを全く意に介すことなく、左の拳をネロの顔面めがけて無慈悲に振り抜いた。
「っっ!!」
コンクリートの壁に衝突したかのような衝撃。
頭が揺れ、一瞬意識が飛びそうになるが、ネロは強靭な精神力で暗転する視界をこじ開け、反撃の右アッパーでダルセの顎を的確に撃ち抜いた。
硬い骨が軋む音。
だがダルセは打ち上げられた顎を瞬時に引き戻し、再び右拳でネロの顔面を殴りつける。
「……ハッ!! 愉しいな!!!」
ダルセの冷え切っていた瞳に、初めて狂気的な「熱」が浮かび上がっていた。
強烈な殴打に、ネロの体勢が大きく崩れる。
「どうした!! まだまだこんなもんじゃないだろッ!」
「……うるせぇよ……」
ネロは倒れそうになる身体を右足で強引に支え、両腕の分厚い装甲を同時に正面で構えた。
『対単体・極大穿孔プロトコル、ロード。魔導回路01~06、多重並列連結を確立』
『エネルギー分配パターン:収束。──左右撃発機構、完全同期。対象の抵抗を”不要な計算誤差”と再定義。衝撃中和を解除します』
左右の装甲から、二つのエネルギーがぶつかり合う不協和音が地下空間を圧迫する。
『魔導杭A・B、同時連結完了。……圧縮臨界。衝撃相殺、不可能です』
「……お前は本当に愉しませてくれそうだッ!」
ダルセが歓喜の笑みを深めた、その直後。
『──二重衝撃、実行──』
「っっらぁ!!!」
ネロは左、右と、空間を裂くような最大級の炸裂音を伴う高速の連続打撃を放った。
合計四連発のパイルバンカー。
それが、ダルセの分厚い腹、そして無防備な喉元へと正確に突き刺さる。
「……っっっ!!!!」
だが、ダルセは防御すらしていなかった。
肉体がひしゃげるほどの異常な重さをすべてその身で受け止め、それでもなお一歩も退かず、空いた拳でネロの頭部を横薙ぎに殴り飛ばした。
「がッ……!!」
ネロの身体が宙を舞い、冷たい石畳を幾度も転げ回る。
「……本当に惜しい人材だな……。ここで処分するのが惜しいほどに……」
ダルセは乱れた銀髪を無造作に掻き上げながら、倒れたネロへとゆっくりと歩み寄ってくる。
だが。
「……誰が……誰を処分するって……? あ?」
土煙の中。
両腕の排熱ダクトから異常な高熱の蒸気を噴き出しながら、ネロはふらつく足取りで再び立ち上がった。
(俺が死んだら……フィオーネが泣いちまうだろッ……!!)
血に塗れた顔を上げ、ダルセを睨み据える。
その漆黒の瞳に宿っていたのは、ただの殺意ではない。
愛する者の元に絶対に帰るという、凄絶なまでの『覚悟』の光だった。




