第三十一話:錆びた牙と、裏社会への入場券
荒野にそびえる分厚いコンクリートの防壁の内側。
青白いランプの光が乱反射するその街は、聖都ルメンティアのきれいな空気とはまるで違っていた。
分厚いジャケットを着たハンターたちが行き交い、路地裏からは刃物を研ぐ金属音と火花が散っている。
安酒と重油、そして魔獣の血の生臭さが入り混じった、泥臭くも熱気に満ちた街。
防衛宿場村『カンポ・ロッソ』。
ネロたちは、情報交換所である酒場『錆びた碇』の重い木の扉を押し開けた。
店内の騒熱が、一瞬にして消え去った。
血と泥にまみれたハンターたちの値踏みするような視線が、入り口に立つ女――フィオーネへと一斉に突き刺さる。
今日の彼女は、いつものダークスーツでも、白い防護コートでもなかった。
白いシャツに黒のレザージャケットを羽織り、脚のラインがはっきりと出る黒のパンツスタイル。
飾り気のない私服姿が、かえって彼女の女性らしいしなやかな身体のラインと、透き通るように白い肌の美しさを暴力的なまでに際立たせていた。
だが、フィオーネは全方向から向けられる下劣な視線など微塵も気にする様子もなく、迷いのない足取りで受付のカウンターへと歩み寄った。
「ご、ご用件は……?」
圧倒的な威圧感に気圧され、受付の男が声を上ずらせる。
「依頼がある。ここのギルドマスターと面会したい」
「……あ、あいにく、マスターは席を外しておりまして……」
男の視線が、不自然に右へ左へと泳いだ。
背後に立つネロが小さく息を吐く。
歓迎されていない客への、典型的な門前払いだ。
「ならば、いつ戻ってくる。その時に改めて伺おう」
フィオーネが冷たく告げた、その時だった。
「よぉ、姉ちゃん。もし困ってることがあるなら、俺が力を貸してやるぜぇ?」
キツイ酒の匂いを撒き散らしながら、一人の大柄な男がフィオーネの背後へ擦り寄ってきた。
フィオーネは振り返ろうともせず、感情のない声で短く切り捨てる。
「結構だ」
「……へっ……。なぁ、悪いようにはしねぇよ? こんな辺境のむさ苦しい酒場に来るなんて、よっぽど困ってんだろぉ?」
男はニヤリと下劣な笑みを深め、フィオーネの肩へ無遠慮に手を伸ばそうとした。
刹那。
フィオーネの右手が、腰の剣の柄にそっと添えられた。
抜いてはいない。
ただそれだけで、酒場の空気が氷点下まで下がるような、痛いほどの殺気が放たれる。
「……なんだ、貴様? 殺されたいのか」
「……へへへ……いいねいいねぇ。お前みたいにツンケンした女を、力でねじ伏せて泣かすのが好きでたまんねぇんだよ」
冷気に当てられながらも、男は背中に負った無骨な大斧――魔獣の解体用兵器に手をかけた。
一触即発。
血の匂いが充満しようとしたその時、重苦しい空気を間の抜けた高い電子音がぶち破った。
『……やめておいた方がいいと思いますよぉ。フィオーネ様の取り柄は、その顔とスタイルしかないんですから。あと残ってるのは、救いようのない人格破綻だけですよぉ?』
数歩後ろに控えていた多脚機のモーディが、赤いカメラアイを点滅させて無邪気に煽る。
「……破壊されたいか? このポンコツ」
『ひぇっ!?』
向けられた殺意の矛先が瞬時に機械へと切り替わり、モーディはカシャカシャと脚を震わせてネロの背後へ隠れた。
ネロは頭を抱え、やらかした相棒を見て苦笑する。
「……お前も懲りないねぇ、モーディ。……フィオーネ」
「……なんだ、ネロ。この程度の有象無象で私を心配しているのか。……お前の過保護ぶりにも困ったものだな。少しは私に頼るという事を覚えたらどうだ」
「いや、そうじゃなくて。『殺すなよ』って言いたかったんだけど……」
ネロが釘を刺すと、フィオーネは値踏みするように男を一瞥し、短く息を吐いた。
「……まぁ、こいつ程度では私の剣を抜く価値もないか」
「……はっ! 舐めてんじゃねぇぞ! 安心しろよ、俺も殺しはしねぇ! 楽しめなくなるからなっ!」
逆上した男が、大斧の起動スイッチに指をかける。
「威勢はいいな、お前」
「連れの男も、自分の女が襲われそうになってんのに、ビビッて後ろで縮こまってるだけとは笑えるなっ!!」
男が叫び、大斧のエンジンが重低音を響かせようとした、その瞬間。
「……ッ!」
男の視界から、フィオーネの姿が完全に消えた。
彼女は一瞬で男の懐へ滑り込むと、相手の左足の裏へ自身の右足を絡め、その巨体の重心を完全に奪い去る。
直後、流れるような動作で男の胸ぐらへ下から掌底を突き入れた。
「!?」
何が起きたのか、男の脳は全く理解できなかった。
巨体が宙を舞い、一回転して酒場の硬い床に叩きつけられる。
ドゴォンッ! という鈍い衝撃音と共に床の木板がひび割れ、男は白目を剥いて完全に意識を飛ばした。
「……ふぅ」
フィオーネはレザージャケットの袖についた見えない埃を、ポンポンと軽く払う。
「おー……。やっぱ久々に見ると、フィオ姉の格闘技術すげーな」
一切の力みを感じさせない、対人戦に特化した圧倒的な動き。
ネロとモーディが、背後で感心したように拍手を送る。
「……ふむ。……やはり外では、私がネロの『女』に見られるのだな」
自身の技への称賛は完全にスルーし、フィオーネは倒れた男が残した言葉を頭の中で繰り返し、ぼそりと独り言を漏らした。
『フィオーネ様っ!! 口っ! 口元が〇・五ミリ吊り上がっておりますよぉ!』
「!?」
モーディの鋭い指摘に、フィオーネは慌てて口元を両手で押さえた。
透き通るような白い頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……やはりここで解体しておくべきか、このポンコツがッ」
「……やめなさいって、ほんとに。……お前ら、ほんと仲良いな……」
指の関節をボキボキと鳴らして機械に詰め寄ろうとする義姉を、ネロが呆れ顔で止める。
その時だった。
「――おい。お前ら、ここのマスターに用があるんだってな。代わりに俺が聞いてやるよ」
重く、地を這うようなしゃがれ声。
酒場の奥から現れたのは、片目に無骨な義眼をはめ、無数の傷跡が刻まれた筋骨隆々の男だった。
彼は周囲のハンターたちを顎の動きだけで黙らせると、クイッと受付の奥の部屋を親指で指し示した。
「……ほう。お前になら話してもいいだろう。行くぞネロ、ポンコツ」
「……了解」
『いやぁ、助かりましたよぉ、おじさん!』
* * *
案内された奥の来客室。
義眼の男は、皮の剥げた重厚なソファーにどかっと腰を下ろした。
「……まぁ、お前らも座れや」
促され、ネロとフィオーネが対面のソファーに並んで腰を下ろす。
「……さて。受付には不在と言わせた割に、あっさりと出てくるとはどういうことだ? ギルドマスターよ」
フィオーネが腕を組み、冷ややかな視線を投げかける。
「……鋭いな、姉ちゃん。……あんたの無駄のない動きと、そこの異常に賢い機械を見てピンと来たのさ。お前ら、対策局の『裏』の人間だろ?」
ルッジェーロの義眼が、ネロとフィオーネの素性を正確に見抜いていた。
「……」
「それがどうした?」
ネロが沈黙を保つ横で、フィオーネは表情一つ変えずに応じる。
「公安のお前らが、わざわざ私服に着替えてこんな掃き溜めまで依頼に来たってことは……相当な『報酬』を期待できそうだからな」
「……ほう。話が早いな。もし依頼を受けてくれるなら、これをくれてやろう」
フィオーネはレザージャケットの胸元から、一本の小さな金属の筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「……ほう? 受けるだけでか?」
「ああ、それは差し詰め口止め料といったところだ。……私が欲しい情報を持ってこれたなら、これをやる」
コトリ、と。
フィオーネはもう一本、先程よりもひと回り大きな筒を並べた。
中身の液体の色を見た瞬間、ルッジェーロの義眼が驚きに大きく見開かれる。
「……超高純度の魔核オイルじゃねぇか……。しかも、その品質なら軽く三百はくだらねぇぞ……」
ルッジェーロの喉が鳴る。
それは、正規ルートでは絶対に手に入らない特級の代物だった。
「……おい、モーディ」
ネロは顔を引きつらせ、足元の多脚機へ小声で囁いた。
「……お前、昔、俺の足かせの件でフィオーネに寝返った時……あの報酬、もらったのか?」
『いやぁ……それはもう、最高においしかったですぅぅ!』
誇らしげにカメラアイを光らせるモーディ。
ネロは信じられないものを見るような目で、フィオーネの横顔を見つめた。
当のフィオーネは、交渉のペースを完全に握ったという自負からか、静かに口角を上げ、少しだけ誇らしげに胸を反らせていた。
「……いいだろう。交渉成立だ」
ルッジェーロはニヤリと獣のような笑みを浮かべ、テーブルの上の筒を鷲掴みにした。
「俺はルッジェーロ。ここでマスターをやってる。……で、依頼したい事ってのは何だ?」
無法地帯のギルドマスターとの、危険な取引の幕が開いた。




