温かなコーヒーを、きみに
冬は空が高い、っていうのは迷信らしい。青が深まって「そう見える」というだけで、むしろ低いというのが真実だとか。
そして夜には、星が遠く見える為にそう言われる。葉のない木々は、「窓」のようには見えないけれど。広々とした空は白く輝く星に満ち、「あの日」よりもずっと大きく深く見える。あれから色々と知識も増えて、いくつかの星座を図鑑を見ずとも探せるようになった――
オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座におうし座……指でなぞって、ため息を一つ。視線を落とす。
ぱちりと弾ける薪の音。赤々と燃える火が、その熱を誇示するように空に向けて白煙を吐き出している。
火は、「窓」みたいなものだ。童話なんかでも、登場人物の願望や憧憬を映すなんてのはよくある話で。
すべてを奪った炎の中に、奪われた両親の面影を見ている。その安らかなるを見ている。
アウトドアテーブルに置かれたマグカップを手に取り、コーヒーを一口。
少し、寂しい音。裸の木々を感じさせる乾いた風、肥沃な土の香、木々と煙とコーヒーと。不思議と調和のとれたその全てに、思わず深呼吸をしたくなる。
ここは義父の経営する綾瀬林業の福利厚生の為造られた、小さなキャンプ場。森を拓き砂利を敷き、ちょっとした倉庫を設えただけのシンプルな。
だからこそ自然を楽しむにはもってこいで、僕はこのキャンプ場が好きだった。
季節はすっかり冬、夜ともなるとどれだけ着込んでも冷気が肌を突き刺すよう。だからこそ焚き火の熱が、コーヒーの温かさが身に沁みる。
だからそう、あり得ない。
こんなところにこんな時間に、女性が一人歩いているだなんて。ついつい目で追ってしまうくらいにきれいな、かつての僕の同級生だなんて。
「沙織」
黒瀬沙織――という名は公的なもの。彼女の名前は綾瀬沙織。二十八歳。大成家具所属のプロテニス選手。国内ランキング92位、世間が注目する「美人テニス選手」である。
非の打ちどころのない彼女は震える体をかき抱き、僕の方に振り向いた。
「綾人ー」
綾瀬綾人、二十八歳、「喫茶セルジュ」二号店の店長。
沙織は、そこの常連だ。遠征のない日は、ほとんど毎日のように寄ってくれる。友達と一緒に、なんてことはもう随分なくなってしまったけれど。
「はーさっむ」
「だからこんな時間に散歩なんてやめとけばって言ったのに」
「でもほら、久々だから。っていうか、ここ来るのほんとに数えるくらいしかないし」
僕らは夫婦になっても変わらず、一緒にキャンプをする。頻度は減って、年に一、二回できればいい方ではあるけれど。
「はい、ブランケット」
「ありがとー」
耐火ブランケットを渡して、僕はテーブルの上でコーヒーの準備を始める。
ガス缶に五徳をセットして、水を入れたケトルを火にかける。その間にさっきまで使っていたドリッパーをゴミ袋に捨てて新しいものに。家で挽いてきた豆を量り入れて、樹脂製のコーヒーサーバーにセットする。
もうすっかり慣れたはずのその作業を、沙織はいつも楽しそうに見ている。僕はそれを横目に、それでも手を休めない。
コーヒーには、常に全力で向き合う。この心得は、高校生の頃からずっと忘れていない。おかげでセルジュ二号店のコーヒーは好評で、初めてからほんの数か月ではあるものの、既に黒字に転じている。もちろんそれには、沙織の知名度を多分に利用してはいるけれど。
淹れたコーヒーを受け取り、香りをひとしきり楽しんだ後にゆっくりと一口。とろけるような、あるいはこちらが蕩けてしまいそうな笑顔でため息一つ。
「おいし」
「ありがと」
言いながら、僕もすっかり冷めきったコーヒーをすする。
このテーブルも、それからチェアもそう。テントから寝袋から、僕らのキャンプギアは学生時代と比べて格段に豪華になった。車を買ったから、単純に積めるものが増えたのもある。
そしてそれにもすっかり慣れて、僕らのキャンプはもう生活の一部だ。頻度がどんなに少なくても、この時間の「緩やかさ」がどんなに心と体に安らぎを与えてくれるか。
そしてこのシチュエーション。
「思い出すねー」
「そうだね」
一人山を歩いてきた沙織に、僕は焚き火とコーヒーを振る舞った。震える寒さに、その温かさが救いになったと彼女は言った。
あの時のように、不安と恐怖に震えているわけじゃない。それでもそれを思い出して微笑んでいられるのは、それがすっかり様変わりしたことの証明だ。信じていた先輩に裏切られた最悪の思い出でなく、夫となる人と出会った良き思い出に。
なんて自惚れを、僕は後れなく抱けるようになった。自信家の沙織に似てきたのかな、なんて思うと笑みも浮かぶ。
「そういえばさ、今度ひなちゃんが全中出るんだよ」
「おー、すごいね。いけそう?」
「いいとこいくんじゃないかなー」
ひなちゃん、というのは、プロテニス選手という職業の傍ら彼女が勤めるスクールの、プライベートレッスン生だ。中学生の少女は、今からもうプロを目指して努力しているそうで、沙織の指導にも熱が入る「期待の星」の一人で。
本当の夢にも、もう一歩踏み出している。そんな沙織が誇らしく、僕は彼女の肩を抱いて頬を寄せた。
「もう何年かやったら、現役引退かなー」
「そっか。もう、大丈夫?」
「うん。100位キープが、ボーダーラインかなって」
そのボーダーラインは、テニスを志す者たちにとってはとても大きな壁らしい。メディアに取り上げられるほどではないにしても、彼女を知る人は多く、ところどころでサインを書いている姿を見かける。
そうして名を売ることも、プロを目指した理由の一つ。その肩書一つで、コーチとしての沙織を訪ねる人は格段に増える。
ぐるみの代わり、と言ったらあんまりだけど、そういう人たちを伴って、沙織は「僕のセルジュ」を訪れる。真剣な顔で何かを語りながら、コーヒーを飲んでは優しい顔で微笑むのだ。
一つの山を、僕らは築いた。けれどそれは終わりではなく、むしろこれからが長いのが人生というもの。何かを加えては何かを削り、その中身と形をより洗練させていく。
テーブルに置かれた袋からマシュマロを一つ取って串に刺し、焚き火にかざす。やがて焼けたものを差し出すと、沙織は躊躇することなくそれにかぶりついた。
思い出に浸る日。僕らはここから遠く離れた地に居を構えて、仕事柄大きな連休をとれることもなく、帰るのもずいぶん久しぶりだ。
それを聞いて、何人かの友人たちが休みを合わせてくれた。
やがてキャンプサイト脇に停まる一台の車。降りてきたのは、三人の男女。
「おー、いちゃついてるわ」
「相変わらずだねぇ」
「お二人ともお久しぶりです」
幼かったあやは、若々しい女性に。金色だった髪を黒に戻し、すっかり落ち着いた彼女は、けれど中身の方はそこまで大きく変わっていない。面倒見のいい、みんなのお姉ちゃんのままだ。
おっとりとした穏やかなぐるみは、それがそのまま大人になったような優しい女性に。高校卒業後専門学校に進んだ彼女は、そこで知り合った友人とアパレルショップを開きソーイングスタッフとして働いているとか。デザイナーの友人と自分とで作った服をまとうぐるみは、驚くくらいに美しく。
朱子君はといえば、意外なことに綾瀬林業に就職したらしい。僕と今でも連絡を取り合っていて、あやとの関係の進展だとかを逐一報告しては相談を求めてくる。
テントやテーブル周りを設営し、腰を落ち着けた三人が僕らに笑顔を向ける。
高校時代のこの五人組がそろうのも、もう何年かぶりのこと。各々重ねたものは多く、積もる話は数え切れない。それを聞くのを、この予定が決まってからずいぶん楽しみにしていたけれど。
僕は改めてテーブルに向き直り、ケトルに水を入れて火にかけた。
「みんな、とりあえずコーヒーでも飲んで温まって」
まずは一息、最高の一杯で。




