↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
61/61

温かなコーヒーを、きみに





 冬は空が高い、っていうのは迷信らしい。青が深まって「そう見える」というだけで、むしろ低いというのが真実だとか。


 そして夜には、星が遠く見える為にそう言われる。葉のない木々は、「窓」のようには見えないけれど。広々とした空は白く輝く星に満ち、「あの日」よりもずっと大きく深く見える。あれから色々と知識も増えて、いくつかの星座を図鑑を見ずとも探せるようになった――


 オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座におうし座……指でなぞって、ため息を一つ。視線を落とす。


 ぱちりと弾ける薪の音。赤々と燃える火が、その熱を誇示するように空に向けて白煙を吐き出している。


 火は、「窓」みたいなものだ。童話なんかでも、登場人物の願望や憧憬を映すなんてのはよくある話で。


 すべてを奪った炎(モノ)の中に、奪われた両親(モノ)の面影を見ている。その安らかなるを見ている。


 アウトドアテーブルに置かれたマグカップを手に取り、コーヒーを一口。


 少し、寂しい音。裸の木々を感じさせる乾いた風、肥沃な土の香、木々と煙とコーヒーと。不思議と調和のとれたその全てに、思わず深呼吸をしたくなる。


 ここは義父の経営する綾瀬林業の福利厚生の為造られた、小さなキャンプ場。森を拓き砂利を敷き、ちょっとした倉庫を設えただけのシンプルな。


 だからこそ自然を楽しむにはもってこいで、僕はこのキャンプ場が好きだった。


 季節はすっかり冬、夜ともなるとどれだけ着込んでも冷気が肌を突き刺すよう。だからこそ焚き火の熱が、コーヒーの温かさが身に沁みる。


 だからそう、あり得ない。


 こんなところにこんな時間に、女性が一人歩いているだなんて。ついつい目で追ってしまうくらいにきれいな、かつての(・・・・)僕の同級生だなんて。


「沙織」


 黒瀬沙織――という名は公的なもの。彼女の名前は綾瀬(・・)沙織。二十八歳。大成家具所属のプロテニス選手。国内ランキング92位、世間が注目する「美人テニス選手」である。


 非の打ちどころのない彼女は震える体をかき抱き、僕の方に振り向いた。


「綾人ー」


 綾瀬綾人、二十八歳、「喫茶セルジュ」二号店の店長。


 沙織は、そこの常連だ。遠征のない日は、ほとんど毎日のように寄ってくれる。友達(・・)と一緒に、なんてことはもう随分なくなってしまったけれど。


「はーさっむ」

「だからこんな時間に散歩なんてやめとけばって言ったのに」

「でもほら、久々だから。っていうか、ここ来るのほんとに数えるくらいしかないし」


 僕らは夫婦になっても変わらず、一緒にキャンプをする。頻度は減って、年に一、二回できればいい方ではあるけれど。


「はい、ブランケット」

「ありがとー」


 耐火ブランケットを渡して、僕はテーブルの上でコーヒーの準備を始める。


 ガス缶に五徳をセットして、水を入れたケトルを火にかける。その間にさっきまで使っていたドリッパーをゴミ袋に捨てて新しいものに。家で挽いてきた豆を量り入れて、樹脂製のコーヒーサーバーにセットする。


 もうすっかり慣れたはずのその作業を、沙織はいつも楽しそうに見ている。僕はそれを横目に、それでも手を休めない。


 コーヒーには、常に全力で向き合う。この心得は、高校生の頃からずっと忘れていない。おかげでセルジュ二号店のコーヒーは好評で、初めてからほんの数か月ではあるものの、既に黒字に転じている。もちろんそれには、沙織の知名度を多分に利用(・・)してはいるけれど。


 淹れたコーヒーを受け取り、香りをひとしきり楽しんだ後にゆっくりと一口。とろけるような、あるいはこちらが蕩けてしまいそうな笑顔でため息一つ。


「おいし」

「ありがと」


 言いながら、僕もすっかり冷めきったコーヒーをすする。


 このテーブルも、それからチェアもそう。テントから寝袋から、僕らのキャンプギアは学生時代と比べて格段に豪華になった。車を買ったから、単純に積めるものが増えたのもある。


 そしてそれにもすっかり慣れて、僕らのキャンプはもう生活の一部だ。頻度がどんなに少なくても、この時間の「緩やかさ」がどんなに心と体に安らぎを与えてくれるか。


 そしてこのシチュエーション。


「思い出すねー」

「そうだね」


 一人山を歩いてきた沙織に、僕は焚き火とコーヒーを振る舞った。震える寒さに、その温かさが救いになったと彼女は言った。


 あの時のように、不安と恐怖に震えているわけじゃない。それでもそれを思い出して微笑んでいられるのは、それがすっかり様変わりしたことの証明だ。信じていた先輩に裏切られた最悪の思い出でなく、夫となる人と出会った良き思い出に。


 なんて自惚れを、僕は後れなく抱けるようになった。自信家の沙織に似てきたのかな、なんて思うと笑みも浮かぶ。


「そういえばさ、今度ひなちゃんが全中出るんだよ」

「おー、すごいね。いけそう?」

「いいとこいくんじゃないかなー」


 ひなちゃん、というのは、プロテニス選手という職業の傍ら彼女が勤めるスクールの、プライベートレッスン生だ。中学生の少女は、今からもうプロを目指して努力しているそうで、沙織の指導にも熱が入る「期待の星」の一人で。


 本当の夢にも、もう一歩踏み出している。そんな沙織が誇らしく、僕は彼女の肩を抱いて頬を寄せた。


「もう何年かやったら、現役引退かなー」

「そっか。もう、大丈夫?」

「うん。100位キープが、ボーダーラインかなって」


 そのボーダーラインは、テニスを志す者たちにとってはとても大きな壁らしい。メディアに取り上げられるほどではないにしても、彼女を知る人は多く、ところどころでサインを書いている姿を見かける。


 そうして名を売ることも、プロを目指した理由の一つ。その肩書一つで、コーチとしての沙織を訪ねる人は格段に増える。


 ぐるみの代わり、と言ったらあんまりだけど、そういう人たちを伴って、沙織は「僕のセルジュ」を訪れる。真剣な顔で何かを語りながら、コーヒーを飲んでは優しい顔で微笑むのだ。


 一つの山を、僕らは築いた。けれどそれは終わりではなく、むしろこれからが長いのが人生というもの。何かを加えては何かを削り、その中身と形をより洗練させていく。


 テーブルに置かれた袋からマシュマロを一つ取って串に刺し、焚き火にかざす。やがて焼けたものを差し出すと、沙織は躊躇することなくそれにかぶりついた。


 思い出に浸る日。僕らはここから遠く離れた地に居を構えて、仕事柄大きな連休をとれることもなく、帰るのもずいぶん久しぶりだ。


 それを聞いて、何人かの友人たちが休みを合わせてくれた。


 やがてキャンプサイト脇に停まる一台の車。降りてきたのは、三人の男女。


「おー、いちゃついてるわ」

「相変わらずだねぇ」

「お二人ともお久しぶりです」


 幼かったあやは、若々しい女性に。金色だった髪を黒に戻し、すっかり落ち着いた彼女は、けれど中身の方はそこまで大きく変わっていない。面倒見のいい、みんなのお姉ちゃんのままだ。


 おっとりとした穏やかなぐるみは、それがそのまま大人になったような優しい女性に。高校卒業後専門学校に進んだ彼女は、そこで知り合った友人とアパレルショップを開きソーイングスタッフとして働いているとか。デザイナーの友人と自分とで作った服をまとうぐるみは、驚くくらいに美しく。


 朱子君はといえば、意外なことに綾瀬林業に就職したらしい。僕と今でも連絡を取り合っていて、あやとの関係の進展だとかを逐一報告しては相談を求めてくる。


 テントやテーブル周りを設営し、腰を落ち着けた三人が僕らに笑顔を向ける。


 高校時代のこの五人組がそろうのも、もう何年かぶりのこと。各々重ねたものは多く、積もる話は数え切れない。それを聞くのを、この予定が決まってからずいぶん楽しみにしていたけれど。


 僕は改めてテーブルに向き直り、ケトルに水を入れて火にかけた。


「みんな、とりあえずコーヒーでも飲んで温まって」



 まずは一息、最高の一杯で。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。