同じ香りを、口にする。
おしゃれなカウンターキッチン。どこも整理されていて使いやすく、初めてにも関わらず大きく困ることはない。
目の前には絵に描いたような「おしゃれな家族」。美男美女の三人で、明るく笑う二人の女性と、少しだけ愛想は悪いけれど、表情の柔らかな大人の男性。
手元には、セルジュとまでは言わないまでも立派なコーヒー用の道具たち。ここまで揃ってる家庭は、少なくともこの町では綾瀬家以外にはそうそう見ない。……他の家にほとんど行かない、というのは置いといて。
場違いな僕。けれどそれでも、コーヒーを淹れる時にはどうしたってこうなってしまう。それ以外が心から消えて、ただそれだけに向き合う。
これは、沙織の為に作ったブレンドだ。だから、沙織のことを考えて淹れる。
セルジュのコーヒーが好きだと言ってくれたことから、まずはそれをベースに考えた。苦みとコクを際立たせ、酸味を抑える。深煎り――フルシティローストと呼ばれるくらいのの豆をやや細挽きに。お湯は少し熱めにして、蒸らし時間は長くもなく短くもなく、三十秒ほど。蒸らす時に少しドリッパーを回してみたりもして。
スケールを使って、定量を数回に分けてお湯を注ぐ。お湯を切らさないよう、けれど細く。
立ち昇ってくるコーヒーの香りが、たまらなく好きだ。飲まなくても、これだけで飲んだ気分になれるくらいに。この時点である程度「結果」が想定できる――おいしいコーヒーが、できそうだ。
白い陶器製のコーヒーカップが四つ。丁寧に注ぐと、底を染める琥珀色から黒く、ゆっくりと降り積もっていく。立ち昇る湯気と香り、陶酔したくなる。
トレイに乗せて運ぶと、ご両親から「ありがとう」とお礼があった。テーブルに並べ、さて座ろうと椅子に手をかけたところで、そこに沙織の手が重ねられた。
「私たち、部屋で飲むね」
「ええ、ごゆっくり」
「あまり遅くならないようにな」
「はーい」
と、いうことらしい。既に異性の高校生が滞在するには遅い時間だ、というツッコミはたぶん、野暮なんだろうな。
なんでこうなったのか。沙織の提案……提案というか半ば強制ではあったけど、それを躊躇もせずに受け入れた結果だ。うちの両親にも沙織の両親にも、彼女は既に了解はとってあった。もちろん本人、つまり僕が受け入れればという前提のもと。
そして沙織には、僕が断らないという確信があった。トレイを持って階段の三段先を登る彼女の足取りに、何ら乱れは見られない。
部屋に入った僕らはそのままテーブルを挟んで座り……と、思っていたら、なぜか沙織は僕のすぐ隣に腰を下ろしていた。
「……そういう日?」
「そういう日」
らしい。
「さて、じゃあ」
両脚を左に流し、右肩を僕に押し当てて。コーヒーカップの持ち手をつまんだ沙織が、口元に寄せて鼻を鳴らした。
やっぱり、コーヒーにおける「第一印象」っていうのは、見た目よりもむしろ香りだ。僕の目から見ると「黒」や「茶」の中にも微妙に違いがあるのがわかるけど、それでもなお真っ先に気にするのは香りなんだから。
「……はぁー」
大きな吐息。言葉はない。けれどその表情はどこか酔いしれるようで、「ああ、よかった」と感想を聞いてもいないのに思ってしまった。
やっぱり、緊張する。
肩から伝わる温もりと身動ぎ。息遣いと香り。それに照れや緊張を感じなくなってきたと思っていたけれど、状況が変われば心情も変わる。今日の、いや今の沙織の一挙手一投足が、その全てが、僕の胸を叩いているようだ。
どん、どんと音が聞こえる。
カップを傾け、柔らかそうな唇を添えて、琥珀色のそれを口に含む。目を閉じてゆっくりとそれを味わった沙織は、飲み込むが早いか、カップをテーブルに戻した。
沈黙はたぶん、ほんの十秒ほど。月並みな表現だけど、長く感じた。
「ふー。うん」
「……うんじゃなくて」
僕のツッコミに、沙織が顔を向けてにこりと笑う。とても近い、温かな笑顔。
「私ね」
感想をくれる、と思えば、前を向いて語り始めたのは、彼女の「価値観」――の、ようなもの。
「なんでも、本当に何でもいいんだけど、何かに打ち込んで結果を出した人って、ある程度いい人だと思ってたんだよね」
「……それはでも、なんとなく」
「違った、でしょ?」
また僕を見て微笑む。「あ」と声が出た。
テニスに打ち込み全国大会にまで出場しながら、女の子を山に置き去りにするような人間もいる。
つまるところ、努力も成果も、何ら人格を保証するものではないということ。
「今考えてみると当たり前のことなんだけどねー。部活しかしてこなかった私は、そう思い込んでたわけ」
「そっか。今は違う?」
「うーん……違う、とも言い切れない。けど、とりあえず一つわかったのは」
見すぎるくらいに僕を見る、沙織の瞳。それを見るだけで微笑んでいるとわかる。吸い込まれそう、とはよく言ったもので、深く黒い中に灯る光に、触れたくなるような。
「人格を保証するものなんてない、ってことかな。その人にしっかり向き合わないと、わかんないよねって」
「……そっか」
気になったことへ一直線。沙織のそんな気質は、時に失敗を招いたりもするけれど。おそらく沙織は、迷って決めたんだ。「気になった人に、向き合ってみよう」って。
だから僕はここにいて、だから沙織もここにいる。
「綾人も飲んでみてよ」
「あ、うん」
コーヒーカップを持ち上げ、一口、香りと味を確かめながら飲み込んだ。
思い描いた通りのそれが――苦みが、コクが、ほんのわずかな酸味が、舌に残って鼻へと抜ける。セルジュのものに近いけれど、少しだけスッキリとした淡さを感じさせるような。
「いい出来」
「いいねー」
そう言って、沙織もコーヒーカップを持ち上げる。
今もって味も香りも、感想をもらえていないけれど。その安らかで穏やかな微笑みを見ていると、それももうなんだか「いいかな」なんて、そんな気持ちにさせてくれる。
言葉を交わしながらゆっくりと、コーヒーを飲み交わす。同じものを共有して、そこに感じたものを胸に秘めて、自分の「何か」を開示するように口を開く。
僕が好きだったセルジュで、言葉を交わす人々。ただただ穏やかで楽しそうだった記憶も、紐解けばこういう人と人とのつながりが見えたりするんだろうか。
「でも考えてみると、まだ仲良くなってそう時間経ってないんだよねー」
「そうだね。自分でも信じられないけど」
「相性がよかった、ってことかなー。コーヒーの好みも似てるし」
「それ関係あるかな?」
「あるってことにしといたほうが、なんかこう、ぐっとくるでしょ」
「……まぁ」
否定はしない、どころか、まさしく図星だ。
つながりだなんて言ってはみても、振り返ってみればごくごく短いものでしかない。それでもあれこれと理屈をつけてみると、案外僕と沙織には色々な共通点がある。
それに、一緒にいると楽しい。それが一番。
「綾人には、言っておきたいことがあって」
「うん」
――例えば。例えばの話。
「私、高校出たら、町を出るよ」
「……うん」
そんな短いつながりは、距離を超えてもなお続いていくものだろうか。
「プロを目指すの。その先に色々とビジョンはあるけど、とりあえずガチでね」
「すごいなぁ」
「だからたぶん、離れ離れにはなっちゃうね」
僕はたぶん、この町とまでは言わないまでも、県外までは出ることはない。思うところがあって、店長や徹さんから教わりたいことが色々とある。
それはきっとよくあること。人生における出会いと別れなんて、物語の「テーマ」としてもドのつくくらいの定番だ。
……でも、僕にはその経験が乏しい。沙織の口から出た言葉に、思った以上に落ち込んでいる自分がいた。
「そっか」
だから、それだけしか言えなかった。
俯く僕の横で、沙織が残りのコーヒーを飲み干したのがわかった。僕はごまかすようにそれに倣って、空のカップをテーブルに戻した。
「こっち見て」
声に従って顔を向ける。その左頬に、沙織の手が添えられた。
何を、と疑問に思う間さえなく、彼女の顔が迫ったと思えば――
唇が塞がれる。目に映るのは、目を閉じた沙織のまぶた。長いまつげが震えるように揺れている。それに気づくと、頬に添えられた手も震えていることに気づいて。
一度、甘噛みするように唇が動いた。
ゆっくりと、手を添えたまま沙織が遠ざかる。何も考えられないままの僕は、開かれる沙織の目を見ることしかできなかった。
「好きだよ」
でも、それでもその言葉は驚くくらいに、真っ白な頭に沁み込んだ。
「僕も」
応えた僕の言葉に、沙織が再び顔を寄せた。
自分の気持ちを確認すれば、その「行為」も自然と受け入れられる。まるで初めての経験で、自分のものとはあまりに違うその柔らかさに、瑞々しさに、酔ってしまいそうだ。
ふわりと香る、ほのかな苦み。
顔を離した沙織の瞳が、わずかに潤んでいる。
「ファーストキス、きみが作ったコーヒーの味」
心臓を叩く衝撃とともに、頭と頬に、かっと熱が昇った。
「これやりたいなーって、ずっと考えてたんだよね」
いたずらっぽく笑う沙織に、僕は何も言えずに黙り込む。ずっとそれを考えてたってことは、その間ずっと僕のことを好きでいてくれたということ。
いつからだろう。具体的なきっかけ、みたいなものはなかったと思う。
「めっちゃ、ぐっときた」
「でしょー」
嬉しそうに笑う沙織に、僕もつい笑みがこぼれる。
「過去イチだったよ、綾人のコーヒー」
「そっか。よかった」
「もっかい、する?」
「……また今度にしとく」
「うん。まー、これから機会はいくらでもあるからね」
そこでようやく実感が湧いてきた。
――僕は沙織と、恋人になったんだ。
なんだか信じられない事実ではあるけれど、それでも不自然だとは思わなかった。客観的に見ればどうかは知らないけれど、それもどうだっていい。
肩から伝わる熱も身動ぎも、その笑顔も。ほんの数分前とは感じ方が違う。より近く、より熱く。
あるいはだからこそ、つい先ほどの沙織の言葉が甦る。高校を出たらしばらく、触れ合うことができなくなるということ。さっきだってずいぶん落ち込んだけど、今になってその事実が胸の方へと降りてきたようだ。
でも、沙織が本気になってくれたことは、素直に嬉しい。僕が最初に憧れた沙織は、テニスをしている彼女だったんだから。
「僕、沙織のいるところに、セルジュを作りたいな」
「おぉ」
そんなことを考えていたら、不意に口をついて出た。考えたこともなかった、僕の夢。
きっとまだ現実すら見えていない、あまりに遠い「夢」でしかないもの。けれど沙織はそれを笑わない。
本気でやれば、できないことじゃないとわかっているからだ。
「じゃあ、色々勉強しないとねー」
「うん。本気でね」
「一緒に、がんばろ」
「うん、一緒に」
沙織も頑張ってると思えば、きっと僕だって……なんて、そんな甘いものじゃないことはわかってる。でも、励まし合うことくらいはきっと、離れてたってできるはずだ。
「じゃあ、今日のところは」
「うん」
立ち上がってドアの方へ向かおうとする僕を、沙織が止めた。振り返れば、両腕を広げる彼女の姿。
僕はその腰に手を回して、彼女はそんな僕の首に腕を回す。
柔らかな、けれどどこか芯のある。――僕が沙織に抱く印象は、いつもこれだ。僕はそれを十分に堪能して、沙織の部屋を後にした。




