緊急会議
ホームルームが終わった瞬間、僕はすぐに鞄を持って立ち上がった。誰よりも早く教室を出て、他のどこにも目を向けずに校舎を後にする。
沙織が「まって」と走ってきたのは、校門を出てからしばらくのところだった。
「なんで置いてくのー」
「いや、ごめん。ちょっと、色々あって」
「はー、はしったはしった」
ぱたぱたと顔を手で仰ぎ、ひと心地。
あのゲームのおかげで、少しはテニスに前向きにはなった。例えば昨日――あやと話し合った翌日なんかは、ちゃんと出ていたみたいだったけれど。
「部活は?」
「おやすみです」
「……そっか」
沙織の中でなんらかの答えは出ている。だから僕から言えることは何もない。もちろん色々ともやもやとするところはあるけれど。
結局のところ彼女の気分次第。
校門から出た時点で、セルジュに向かっていることはわかってるだろう。今日は定休日で、それでも何の疑いもなくこうしてついてくる辺り、すっかり「身内」だなぁなんて思う。
たったの数日間、それでもその経験が彼女の中に生きているみたいで、嬉しい。
「だってなんか綾人が走ってくからさー。気になるじゃん」
「まぁ、うん、ごめん」
「ごめんじゃなくて。まー、悪いことじゃなさそうだから、いいんだけど」
「うん。行けばわかる」
とは言うものの、彼女をどこまで巻き込んでいいものやら。たった数日間のバイトで、そりゃあ夏休みに「絶対またやる」とは言ってくれてはいるけれど。それでも現状部外者で、これからは少しずつテニスに割く時間が増えていくはずだ。
セルジュに着いた僕らは、鍵が開けられた表の入り口から店に入った。テーブル席の一つには既に店長と徹さんが隣同士座って雑談をしていて、僕らに気付くとがたりと立ち上がった。
「綾人、来たか!」
珍しく落ち着かない様子の店長。昨日も会ったけれど、その日は営業日ということで詳しい話はできずに終わった。
目を丸くして驚く沙織に気付くと、店長は「おっと」と呟いて咳払いを一つ。
「悪い悪い、コーヒー淹れるから、座ってくれ」
「あ、はい」
僕と沙織は徹さんの向かいに。彼の表情に驚きはなくて、むしろ楽しそうで、嬉しそうだ。ただそれだけで、彼がどれだけ店長を愛しているかが伝わってくるくらいに。
いまだ戸惑いを隠せない沙織に、徹さんが「ごめんね」と微笑みながら。対する沙織は「いえ」と返すので精一杯のようだ。
事情を知ればきっと納得するはず。
コーヒー四杯をテーブルに並べ、改めて席についた店長が声高に宣言する。
「それじゃあ、喫茶セルジュ、緊急会議を始める」
拍手が三つ。戸惑いながらもノリのいい沙織は、ひとまず場の流れに身を任せることにしたらしい。
「綾人、早く、早く」
「あ、はい」
テンションが上擦ってよくわからないことになっている店長に促され、僕は鞄の中から一枚の資料を取り出した。
ラミネート加工されたA4の紙一枚。可愛らしいイラストと文字で構成されたそれのタイトルは、「つむぎとくせいハヤシライスのつくりかた」。
幼いあやの為にお母さんが作った、かつてセルジュの人気メニューだったハヤシライスのレシピだった。
「あ、これ」
覗き込んだ沙織がそれを確認するが早いか、店長はひったくるようにそれを拾い上げた。食い入るように読み込んで、僕らは無言でそれを見守って、そのままたっぷり一分弱。
「そうか……足りなかったのは、これか」
口元には笑み。目が少し潤んでいて、眉根を寄せてはいてもそれが悲しみでないことはよくわかる。
これまで求め続けていたものが、渇望していたものが、降って湧いたように目の前にやってきた。色々と思うところはあるけれど、ひとまずのところ一番は大きな安心感。
そんな店長の背を、徹さんが優しく撫でる。
「……なんで僕の背中撫でるの?」
「え、なんか羨ましいなって」
そんな二人を見て、沙織が僕の背を撫でていた。嬉しいは嬉しいけど、たぶん今じゃない。
「とりあえず今実践したい気持ちはあるけど、集まったのはその為じゃない」
「というと?」
そんな僕らを笑い、仕切り直しと言わんばかりに居住まいを正した店長が、今回の「緊急会議」の議題を発表する。
「試食会の企画会議だ」
「試食会、ですか」
そして毎度いい反応をする沙織に、店長はとても満足げだ。
以前の人気メニューが復元できたからといって、「さぁ復刻だ」といきなりメニューに加えることはできない。今のセルジュにあるメニューや店の雰囲気とのバランス、客層とニーズ。価格だの何だのと、考えるべきことはいくらでもある。
手っ取り早く、お客さんに食べてもらうのも手段の一つ。それが試食会。
「時期としては、ぶどうの収穫が始まってから、ってことになるな」
「あ、隠し味にぶどうジュースって書いてある。でも」
「ああ、市販のじゃなくてな。ほら、書いてあるだろ、杉原ブドウ園って」
「ほんとだ」
「詳しいことはまぁ、そっちに行って聞いてみる。飲食店に卸すってなると、色々と詰めなきゃならんこともあるしな」
レシピを手にした沙織が面白そうにすると、興が乗った店長が得意げに話す。どうやらそういう流れで進むらしい。元々言葉数の多い方じゃない僕や徹さんは、かえって助かったなと目を合わせて苦笑いだ。
そしてそう、今までのハヤシライスに足りなかったのは、ぶどうジュースだった。
赤ワインを加えたことはあるし、なんならぶどうジュース自体も試したことがないわけじゃなかった。けれど色々と細かい条件があって、その微妙なバランスが「残る一味」になっていたわけだ。トマトの量を増やす、なんてのもその中の一つ。
そしておそらく、ブドウ園が指定されているということはつまり、ただのぶどうジュースじゃないということだ。
「というわけで、早くても七月。もしかしたら八月、ってとこか」
「なるほどー。……あ、お盆とかどうです?」
「お盆か……なるほどな」
「紡季さんも一緒に、みたいな雰囲気で?」
「うん、うん。悪くないな」
うん、悪くない。沙織の提案に、少し目頭に熱いものを感じたりもして。
とはいえ、あまり湿っぽい雰囲気になってしまってもよくない。そんなのはただの身内ノリで、町外から来てくれたお客さんがポカーンじゃ試食会の意味がない。
「別にしちゃうのもありじゃないですか? 常連さん向けに先にやって、もっと手広く後日にとか」
「いいな。沙織、できる子だ」
「でしょう!」
胸を張る沙織に笑いが起こる。
ハヤシライスの再現自体は悲願でも、復刻となるとそう急ぐわけじゃない。もちろん食べてもらいたい常連さんは多いし、その中には高齢の方も少なくないけれど。もう何年も苦心し続けて、諸々詰め込んだ挙句に失敗じゃあ目も当てられない。
もちろん試食会でもお金はかかる。それほど余裕があるわけでもない。
ひとまずはお盆をめどに身内向け、その一週間後に大々的なものをということで暫定的に。徹さんが、手元のメモ用紙にそれを書きつけていく。
「身内っていうと、常連さん含む?」
「そうだな……紡季さんを知ってるくらいの、っていう条件にするか」
「それをどうやって呼ぶかとかも問題ですよねー。チラシとか用意するにしても、二バージョン作るのも手間ですし」
「確かにな。まぁ……身内向けには手作りで配って、外向けにはピクトやらSNS、とかでもいいか」
そうして次々と詳細が決まっていく。流れの通り主に女性二人が進行して、僕ら男性陣はぽつぽつと発言する程度。
各々に役割も割り振られていく。「楽しそうだから」、なんて理由で沙織もそれに乗っかってくれて、ひとまずは当日のホールを担当してくれることに。
徹さんはSNS担当。セルジュを小バズさせた手腕は、むしろ店長よりも彼の方だ。加えて調理補助も当然彼の仕事。
一番働くのは店長。ブドウ園との交渉も、チラシ作りも、ハヤシライスの再現はもちろん当日の料理担当も。当然夫婦そろって日々の業務に加えて、なんだから、本当に頭が下がる。
僕はといえば、まぁ、全体的な補助、というところに落ち着いた。
「さてじゃあ、本格的に動き出すとはいっても、ある程度期限を区切りつつ各々自由にゆっくりやってくれて大丈夫だから」
「はーい」
「寝る間も惜しんで、なんて真似は絶対にやめるように。身体を壊したらその時点で外れてもらう」
うんうんと頷く徹さん。何しろ一番心配なのが店長だ。
なんとなく、場が浮かれている。気分が上がっている。あの寡黙な徹さんでさえ、それが表情に見えるくらいだ。
徹さんも沙織も、お母さんには会ったこともないっていうのに。ただ店長が、僕が彼女のことを大好きだったというだけで、まるで当人のように真剣にそれと向き合ってくれている。
ありがたい。嬉しい。言葉にならないくらいに。
高揚した沙織が、テーブルの上に手を乗せる。店長がその上に手を重ね、続けて徹さんが。僕がおずおずと一番上に手を乗せると、沙織がこっちを見てにこりと笑った。
「楽しんでいこー!」
「おー!」
沙織の掛け声に、三人で応える。静かな店内に反響した僕らの声は、しばらく耳に残って――
部活の団結ムードに、縁遠いものを感じていたけれど。
そんなに難しく考えなくても、こういうものなのかな、なんて。四人で盛り上がりながら、考えてみるのだ。




