試行錯誤
その日はセルジュの定休日で、けれど学校は普通にあるなんてことのない平日だった。
すべての授業をつつがなく終え、僕は校舎を歩いていた。隣には沙織、という状況にも少しずつ慣れてきた。今更「部活は?」とか、「なんで?」とか、聞くこともない。
熱がないにしても、ある程度の「感覚」を鈍らせないためにも、ラケットやボールには触っておいた方がいいんじゃないか。そんなことを思わないでもないけれど、わざわざ素人の僕が言うことでもない気がして。
気にしない、というところに落ち着いた。気にはなるけど、しないのだ。そもそも「やっていない」という認識さえ、僕の知り得る限りの話でしかない。
楽しそうに話をしてくれる沙織に水を差したくもない。彼女自身が迷っている以上、いずれは答えを出すだろうと確信してる。
靴に履き替えて校舎を出たところで、思わぬ人とすれ違った。これから部活に向かうであろう朱子君だ。
「あ、黒瀬先輩……と、綾人先輩」
「お、おつかれー」
「お疲れ様」
流れで、というかなんというか、昇降口の脇で少しだけ話すことになった。部活に行かなくなってもう二週間近くが経とうとしている。部活がなければ接点のない二人だから、そりゃあ下級生の朱子君としては気になることも多いだろう。
そこに「ちょっと前から急に仲良くなった先輩」がいたとなれば、尚更に。「面白くない」が隠せていない彼は、やっぱり素直だなぁと思う。
けれど「休む」と公言している人に、問いただしたりもできない。同級生ならともかく、先輩相手だしなぁ。
「順調?」
「あ、まぁ、なんとか」
端的な質問に、端的な答え。物足りない、と言外に伝わってくる。
「やっぱり黒瀬先輩いてくれた方が、ハリがあるってか。わかりやすいのはあるっすね」
「そりゃしょうがないね。いないもんね」
「……っすよね」
ああ、なんて身も蓋もないことを。
でもその通りだ。「団体戦で勝ちたい」なんて目標でもなければ、沙織が他の部員の成長に手を貸す道理はない。
あくまでも「楽しむテニス」の範囲内で、彼女は善意でアドバイスをしていた。それは間違いなくて、間違いでもなくて、当然後悔もしていないはずだ。
ぞろぞろと通り過ぎていく生徒たち。こちらをちらっと窺う人もいる。けれど二人は、そんなことを気にする様子もない。
「まー辞めたわけじゃないから。そのうちふらっと顔出すよ」
「……っす。言われたことはやっとくんで」
「がんばれー。フィジカルあるし、きっと強くなるよ」
「っす」
っす、って何だろうとぼんやりと思いながら待つ僕の方に、沙織は思ったより早く振り向いた。
もう終わり? と僕が思ってしまうほどだから、朱子君にとっては尚更だ。隠せなかった「面白くない」をより濃くして、けれどにらむというほどでもなく、なんとも複雑な表情を浮かべている。
「綾人先輩、連絡先聞いていいすか?」
「え、うん。じゃあ、トープで」
スマホを取り出す朱子君に応じるように、僕もポケットから取り出す。QRコードを使ってフレンドを加えてから、僕らはその場で別れた。
僕の目的地はセルジュだ。定休日なのに? と興味津々な沙織は、僕がいいならとついてくることになった。
店に入ると、途端に香ってくる、濃厚で芳醇な香り。くんくんと可愛らしく鼻を鳴らした沙織が、すぐさまその正体に思い至った。
「デミグラスソース」
「うん」
「何作ってるんだろ。デミグラスソース使ったメニューなんてあったっけ」
ハンバーグにオムライス、加えて厳密に言えばデミグラスソースではないけれど、ビーフシチューも。何しろぶどうとワインを名物とする葛木町であるからして、デミグラスソースを使ったメニューはむしろ豊富である。
そんな僕の説明に、「おぉ」と得心顔の沙織。けれど、今店長がキッチンにこもって作っているのは、そのいずれでもない。
「こんにちはー」
「お疲れ様です」
「おぉ、お疲れ。なんだ、沙織も来たのか」
「来ちゃいましたー」
近づいて鍋を覗き込む沙織は、その中身を見て首を傾げた。
「ビーフシチュー、じゃ、ないですね」
「ハヤシライスだよ。というかまぁ、ハッシュドビーフっていうのか」
「え、新メニュー?」
「なんだ、綾人から聞いてなかったか?」
「うーん……あ! そういえばお母さんの」
頷く。
僕のお母さんが生きていた頃、セルジュの看板メニューがそれだった。
試行錯誤を繰り返して、いまだ完成に至っていない。完成に至っていないから、店のメニューからは外している。これは店長と僕の総意であり、徹さんもそれに賛同してくれている。
「レシピが残ってないんですよね」
「そうなんだよなー。私が調理師学校卒業したら、教えてもらう予定だったんだけどな」
「そっかー……ちょっと味見していいですか?」
「おぉ。後十分くらい待ってな」
その言葉に、僕と沙織は厨房の隅に置いてある丸椅子に腰かけた。
「いい匂いだね」
「うん。お母さんがいた頃は、洋食屋かって言われるくらいに、こればっかり注文されてたんだ」
「そうなんだ。じゃあ、また食べたいねぇ」
「……うん。僕も、高校出たらレシピ見せてもらう予定だったんだけど」
「病気とかじゃなくて、突然だったんだもんね」
そう、突然だった。覚悟も準備もなく、いきなりこの世からいなくなってしまった。僕は小学校を上がるくらいまでずっと塞ぎ込んで、慰めてくれるあやもぐるみも、自分の殻で追い返してしまった。
けれどあの時の彼女たちがいなければ、綾瀬家と衣縫家がなければ、僕はここにいなかったかもしれない。
皆が大好きだったハヤシライスを、また皆に食べてもらいたい。
僕も店長も、同じ気持ちだ。
「私の場合子どもの頃家がちょっと荒れててな、紡季さんがいつもこの店に招いてくれたよ。高校生になったらバイトまでさせてもらって、色々と教わった」
「あ、じゃあ綾人もその時から」
「こいつが赤ん坊の頃から知ってるよ。店に抱いてくるんだから、もう弟みたいでなぁ」
「えー、なんかかわいー」
僕を見て笑う沙織に、曖昧に笑い返すことしかできない。子どもの頃の話題は、どうしても照れ臭くて。
あの頃のセルジュは、今ほどおしゃれではなかった。でも暖かで、温かで、優劣をつけるつもりもないけれど、確かにあの時間と空間が大好きだった。
「っし、とりあえず完成」
呟いた店長が、小さな調味料用の皿にソースを少し垂らし、沙織に手渡した。「わーい」と受け取った彼女は、小さく傾けてゆっくりと口に入れていく。
目を閉じて数秒。「うん」と頷いた。
「おいしい」
「まぁ、そうなるな」
「何そんな不満そうに」
「なーんか一味足りないんだよな」
沙織の感想に不満があるわけじゃなく、出来上がりに不満があるんだ。同じように味見をした店長は、そもそも沙織の方を見ていなかった。
不満そうな沙織は、皿に残ったソースを舐め取る。
「舐めなくても」
「うーん、何が足りないのかわからない。おいしすぎる」
「ありがとな」
「そっちを先に言ってほしかったなー」
「じゃあ僕も」
店長から新しい皿を受け取り、中のソースを一口にすする。目を閉じて舌の上で転がして、飲み下す。
間違いなくおいしい。肉のうまみ、トマトの酸味、玉ねぎの甘み、赤ワインのコク……なんて、そんな詳細に味がわかるわけじゃないけれど。インスタントやなんかとはまるで違う、まさに洋食屋のクオリティ。
でも店長の言う通りだ。一味足りない。
「一通り試したんだけどなぁ。チョコだのコンソメだのバターだのコーヒーだの」
「全部全然知らないや」
「結構有名どころだぞ。後は生クリーム加えてみたり」
「あ、それ好き。見た目がまずいいですよね」
「見た目は大きいな」
ハヤシライスの再現は僕らの、いわば悲願でもあるけれど。店長がここに戻って来てからすぐに始めたわけじゃない。ある程度経営が軌道に乗って、もっと言えば僕がバイトに入ってからのことだ。つまりまだ一年と少し、試行錯誤の道はまだまだ長い気はしているけれど。
有名どころをことごとく外すと、どうにも疑問が頭に浮かぶ。お母さんはそんな、奇をてらうような性格じゃなかったはずだ。
「あーやのとこのおばさんとか、知らないんですか?」
「ああ、もちろん聞いたよ。本人も聞いてないし、遺品も一通り見せてもらった」
「そっかー。料理に関しては何も言えないなぁ」
「もうひと味加えてみた。どうだ?」
再び受け取ったソースを味見して、沙織は再度同じ感想を口にした。
「おいしい」
「うん。ご飯もあるけど、どうする?」
「食べたいす」
「ちょっとずつ色々加えながら、ちょっとずつご飯にかけていくからな」
「お、楽しそうー」
僕もそれに賛同して、僕らの前に一食分の白米が盛られたプレートが用意された。一口、二口分のソースがその端に乗せられて、白米をそれにつけて食べていく。
店長が手を加え、そうして少しずつ白米が減っていく。沙織はそのたびにおいしいおいしいと顔を綻ばせて、店長はいつもより楽しそうにアレンジを加える。
少しずつ、確実に味が変化していく。そのどれもが確かにおいしくて、沙織が隣にいるだけで、僕も楽しく味見ができる。
けれど、そのどれもがやっぱり「違う」。
僕が首を横に振る。店長が手を加える。僕が首を横に振る。店長が手を加える。僕が首を横に振る。
レシピの再現は、基本的にその繰り返し。辛い、とまでは言わないけれど、ゴールが見えないことに少しだけ、気持ちが沈む。
もう最後に味わったのはずいぶん前のことだ。記憶はこれからもっと薄れていく。
仕方のないことだけど、この繰り返しの中で不安がよぎるんだ。この記憶がなくなってしまう前に、僕は、僕らは、あの味にたどり着くことができるんだろうか――?
「うん、これもうまい!」
確かに言えることは、沙織という新しい風が、その「繰り返し」の中に何か違うものをもたらしてくれたということ。
この作業の中、こんなに楽しそうな店長は久しぶりだった。




