その意味は?
もそもそと、据わりが悪いのか沙織が身動ぎするたび、肩越しにそれを感じる。僕のテントは一応のところ大人二、三人を想定しているものらしいから、僕と沙織でそこまで狭くなるわけじゃないけれど。
あえて言うなら、折り畳みのマットレスの上に収まるように。僕と沙織は、そのくらいには密着して座っていた。
もっと言えば、体温を感じるくらい。吐息が聞こえるくらいに。
「電車で並ぶのとは、ちょっと違うね?」
「うん。正直めちゃくちゃ緊張してる」
「そっかー。密室に二人きりだもんね」
僕の緊張を悟ってあえて煽るような。逸らされることのない視線が僕を捉えている、というのが横目にもわかる。見すぎるくらいに僕の目を見る、彼女の瞳。ちらりと覗くと、淡く笑った。
胸の辺りが、足先が、なんでかくすぐったい。
「思ったより快適だよね。テント」
「そうだね。買い物間違えると結構地獄だけど」
「おかげさまで。まだ新鮮だからっていうのもあるかもだけど」
「それはあるだろうね。自分一人でってなるとまた違うだろうし」
「それなー。でも、今のところ楽しい。非日常感」
入口と反対側、三角形の窓のファスナーを開けて、沙織は外を覗く素振り。白いメッシュで視界は不明瞭だから、そこまで自然を感じたりはしないだろうけど。
音と風が通る。空気が透る。アイボリーの地味なテントの中が、土と木の香りに満たされる。
数十秒ほどそうした後、沙織はファスナーを閉めて元の姿勢に戻った。はいいんだけど、なぜわざわざ肩をぶつけるんだろう。
「よし、ここもツーショしとこ」
「大丈夫かなぁ」
「誰かに見せるわけでもないし、大丈夫大丈夫」
沙織が構えたスマホに視線を向けて、少しだけ口角を上げてみる。接客業をやってはいても、笑顔を作るのは得意じゃない。不器用な笑顔に、けれど彼女は満足げだ。
ほら見て、と覗き込む彼女のスマホの中身は、そりゃあもうたくさんの写真で溢れている。二度三度のスクロールじゃまったく追い切れないくらいだ。部活だったり買い物中だったり、友達といってもたくさんの顔がそこにある。もちろん一番多いのはあやとぐるみなのは見て取れるけれど。
「ちょこちょこ綾人が増えてきてる。アガる」
「アガりはしないでしょ」
「もっとあーやとのツーショが欲しい。姉弟愛」
「あやが嫌がると思うなぁ」
「二人でいてくれたら勝手に撮るし」
僕もそうだ。あやとぐるみといる時間が増えた。昔のように、とは言わないけれど、それこそ「手を繋ぐことに抵抗がない」くらいには。
考えてみれば、そのきっかけを作ってくれたのが沙織だ。彼女を助けてから、僕の生活は大きく変わった。差し引きで考えるものじゃない、というのは前提として、そんな恩よりも受けた恩の方がよっぽど大きくなってしまった。
うきうきと、楽しそうに写真を僕に見せてくれる。スマホを見て僕を見て、その時の思い出について話してくれる。僕はそれに相槌を打ちながら、思わずこぼれる笑みに身を委ねた。
同時に気付く。この人はあぁ、本当にテニスが好きなんだなぁ、ということ。
「でね、この時あーやの打ったボールがぐるみの後頭部に直撃してー」
楽しそうに語る沙織の、その目のきらめきときたら。生き生きしてる、というのはこういうのを言うんだ。
夢中になっているのか、どんどん顔が近づいていることに気付きもしない。
「沙織、近い近い」
「ん? そうだね」
訂正。気にしていない、の間違いだった。
どうしてここまで、と思わないでもない。けれどどちらかというと、今この関係に水を差したくないというのが大きくて、その真意を聞き出す気にもなれない。
いつも外でテニスをしているのに、肌に荒れた様子がまるで見られない。ふわふわと柔らかそうな頬に、元気に動く唇は瑞々しくて触れてみたい衝動に駆られる。濡れたような瞳も、あっちにいったりこっちにいったり、雫が溢れてこないかと思うくらいだ。
はらはらと肩を流れる髪から、ほのかに甘い香りがする。備え付けのシャンプーとは違う香りだから、きっと沙織の私物だろう。
「見てる?」
「ごめん、あんまり」
「もぉ」
スマホを傍らに置いて、沙織は寝袋を立てた膝にかけて、そこに顔をうずめた。
「あんまり楽しくない?」
「いや、楽しいんだけど」
「だけど?」
「ほら、沙織が近くて……」
「……ほぉん」
膝に頭を預けたまま、ぐるりと顔をこっちに向ける。じとりとした視線は、僕の言葉の真偽を見極めているように見える。
視線を合わせて十秒。お互い一度も逸らすことなく、やがて沙織は――
その瞳に意識を捉われていたから。それもあるけど、それはそれとしてまったくの想定外。彼女の行動は意識を刈り取るような突拍子もないもので、僕は目を白黒させて硬直することしかできなかった。
沙織の体温を感じる。香りを、吐息を。その小さな身動ぎも、呼吸に合わせて上下する彼女のすべてまで。
僕の左肩から背に回された右腕。その左肩を背後から掴むような左手。右頬をくすぐる彼女の髪。身体の半分が、身体の半分と重なって。
「さ、おり?」
返事はない。大きく呼吸をして、そのたび胸が上下する。
頭に血が昇る。昇った血を、心臓の音が揺らす。その響きが耳に届く。頬が熱くて、それなのに指先一つまで凍り付いたように動かない。
体中が汗ばんで、それを自覚できるほどなのに、沙織はまるで気にしていないようだ。
「さおり」
いち、に、さん、し、ご。
どれくらい経ったのかわからない時から始めて、心の中で数えてみる。十で頭がいっぱいになって、それもできなくなった。
気を逸らそうとしても逸らせない。その香りと温もりと感触に全部を奪われて、心さえも動かせない。
沙織がすぅぅぅ、と大きく息を吸う。はぁぁぁ、と大きく息を吐く。そうしてようやく身体を離して元の姿勢に戻ると、胸に手を当てて再度の深呼吸。
「うん」
「うんじゃなくて」
「心臓すごい、顔あっつい、汗やばい。なんか、涙出てくる」
「……どうしたの、いきなり」
僕の問いに答えないまま、沙織は傍らのスマホをとって一分ほど操作して、今度はポケットにしまいこんだ。
「よし、戻る」
「え、いやちょっと」
「じゃあ、またあしたね」
急ぐように寝袋を持って立ち上がり、少しファスナーを開けるのに手間取りながらも、さっさとテントを出て行ってしまった。
残されたのは呆然とする僕。熱と香りがテント内に、僕の周りに残っている。それから心臓の高鳴りと、頭の奥の痺れるような熱さが。
スマホを見れば時刻は十時。寝るにはいい時間だ。
けれどどうにも、目が冴えて仕方ない。思考が回っているのか止まっているのかわからない。あれこれと考えているようで、何一つ実になっていないことが自覚できる。
沙織の真意を探ろうとしても、答えは一つしか見つからない。一つしか見つからないのに、理性がそこに至るのを拒む。
そりゃ、もちろん、好意がないとは思っていない。ある程度は、とは思う。
でも、決定的に恋愛感情があるとも思っていない。
――じゃあ、もしかしたら、それを探るため?
何もかもが想像で、沙織の内心はどこまでいっても沙織のもの。彼女にしかわからないし、断定なんてされるべきじゃない。
わかってはいても、茹だった頭は答えの出ないスライムみたいな思考を、ぐにゃぐにゃとこねくり回すことを止めてくれない。
結局眠れたのは、最後に時計を確認した二十三時から、目を閉じてしばらく経った後のことだった。
翌朝もよく晴れて、テントから這い出た途端に白んだ光が目に染みた。山の朝特有の、静やかでどこか潤んだ空気。靴を履いて土を踏み、身体を伸ばした後に深呼吸をすると、色んなものがリセットされるみたいだ。
「おはよー」
「おはよう」
既に椅子を広げてくつろいでいた沙織が、爽やかな笑顔で手を振る。昨日のことなんてまるで気にしていないような、さっぱりとした表情だ。
僕はテーブルにコーヒーの道具を広げて、二人分のお湯を火にかける。
「一人で寝るの、大丈夫だった?」
「うん。気持ちよかったー」
幸いにして、沙織の「キャンプ適正」は高いように思う。テントの設営から火起こしまで、色んな作業の手際もよかった。
続けられるかどうかは、テニスの進退次第。
淹れ終わったコーヒーを沙織に手渡すと、「待ってました」とにこやかな笑顔。一口すすって、大きく息をついた。
「たまんないなー。朝の一杯、めちゃうま」
「わかる。温かいコーヒーが沁みるよね。意外とお腹冷えてたのかなって思うくらい」
「ね。おトイレ近くなるのはあれだけど」
「それはしょうがない」
昨日と今日でもう何杯飲んだか。カフェインが過剰なのはもう間違いないし、中毒かと言われても反論はできない。
一口すするたび、香りと味にじっくりと浸る。やめろと言われてやめられるわけがない。
ぎ、と物音。背もたれに思い切り身体を預けた沙織が、開かれた空を見上げている。少しだけ雲はあるものの、日光はほとんど遮られることなく目に飛び込んでくる。視界の隅では木々が揺れていて、小さく葉擦れを鳴らしている。
「オリジナルブレンド、楽しみにしてるね」
囁くような小さな声を、僕は幸いにも聞き逃さずにいられた。
もちろん覚えてる。誕生日に贈ると約束した、僕が配合を考えるオリジナルブレンド。毎日少しずつ考えて、大方の組み合わせはもう出来上がっている。
だから僕は空に向けて囁くように答えた。
「期待してて」
「うん。期待してるね」




