#374 ベイクドモチョチョ(異世界のすがた)
二人の朝は早かった。
荷物は必要かつ、最低限の物に選定した。一人が正装では目立つということで、七海の服装は私服コーデに変わっていた。落ち着いた雰囲気のトップスとロングスカートであり、傍から見ればぱっとしないアラサー女子というところだが、変に気合が入っていると思われもしないような見た目は彼女をただの一般異世界人に見せるのに十分であった。
道案内は葵が行っていた。ホテルから対象の会場までは市内を通る地下鉄を経由して行く。地上に戻れば後は徒歩。彼いわく「説明会」とはいえ、それが行われるのはユエスレオネに潜んで暮らしている穏健派シェルケンの相互扶助の目的であって、部外者はあまり好まれないとのことだった。
「それで、あとどれくらい歩けば良いわけ?」
額にハンカチを当てながら、七海は不満げな声を漏らした。彼女にとっては、もう大分歩いている気がしていた。持ち物の選定に集中していたがために朝食も抜いていたせいで、なんだか足元がふわついているような感じもある。
「もう少しなんだけどな。なんだよ、デスク仕事が多くて身体が鈍ったか?」
「そんなこと――」
ない、と返そうとした瞬間。
香しい香りが鼻をくすぐった。足を止めて、その方向を見ると人が数人店頭販売の屋台に集まっているのが見えた。
返答が途中で止まったせいか、葵も先を行くのを止めて視線の先を見る。どうやら屋台の上に設置された看板を読んでいるようだった。
「なんか、聞いたことがない料理だな」
「遠目に見ると今川焼きのようにも見えるけど」
「……なんだって?」
「いや、日本にも同じような菓子が――」
その先を続けようとする七海の視線は、突然フードを被った少年の顔に阻まれることになった。
「今、大判焼きのことをなんて言った?」
「大判焼き? なんのこと?」
「おい、主に小麦粉からなる生地に餡を入れ、金属製焼き型で焼いた和菓子のことだろうが」
「なんか……いきなり、ウィキペディアの概要みたいな喋りになったわね……」
はあとため息を付く七海の前で、葵は依然怒った様子で立ちはだかっていた。
「いいか、あれは大判焼きだ。今川焼きなんて名前は認めないぞ」
「なんたっていいでしょ。というか、異世界にそれと同じものがあるとも限らないでしょ」
そういいながら、七海は葵を避けて屋台へと足を進める。課長から「任務がてら観光の足しにでも」と冗談めかして渡されていたレジュ紙幣がポケットの中に未だにあるのを確認してから、その店主に声を掛ける。
"Salarua, harmie fqa veles stieso?"
"Fqa m'es pynosterliet, panqa es qa'd ledz."
いつもそうしているかのように店主は満面の笑みで答える。どうやら、この菓子の名前は "pynosterliet" というらしい。日本とは違って、こっちでは統一した名称があるのかと変な感心を噛み締めていると先ほどここで買ったらしい客が血相を変えた様子でこちらに近づいてきて店主に言った。
"Niv! Fgir es stusel parlerliet lys!"
"Ham? Harmie co lkurf?"
店主はいきなりの闖入者に理由もわからない様子でそう答える。しかし、戦争が開始されたのは火を見るよりも明らかだった。目の前で起こる不毛な戦いに頭痛を覚えた七海は目頭を抑えようとした瞬間、誰かが目の前を通過したのを視界に捉えた。
口論を始める二人の間に待ったを掛ける第三者、それはさっきまで剣幕を張っていた葵だった。
"Fgir'd qasti, coss stiesel es niv julesn, la lex es beikdmochocho."
"" HA? ""
完全に意味不明という表情をされた葵は何故か勝ち誇ったような表情をしていたが、ややあって我に戻った七海に引きずられてその場を去るのであった。




