#353 説明が難しい(ある意味で)
――翌日
アラームが耳元から流れてくる。外務省から業務用に使えと渡されたPHSだ。俺はそのアラームを切って、布団から出た。それと同時にPHSの着信音が鳴った。
(はあ、忙しないことだ)
一度ベッド脇においたPHSを再度手に取る。
「もしも――」
『八ヶ崎さん、おはようございます!! 雪沢です!!』
「朝から元気ですね……仕事に来る前にひとっ走りしてきたらどうですか?」
『そんな意地悪なことを年上に言うもんじゃないですよ! もう到着したんで、今すぐ出られますか?』
「はあ、少し待ってください」
寝起きでぼんやりする頭を叩いて、モーニングルーティンをこなす。適当な服を見繕って羽織ると、ふらふらした足を玄関へと運ぶ。
「おはようございます、今日から語学研修所での研修が始まるようなので送っていきますね」
「どうもありがとうございます」
俺がそう答えると、豊雨は「さあ」と言って公用車のドアを開ける。
「そういえば、先日文化交流の催し物があって、私が日本大使館の代表として送られたんですけど、そのとき若い人たちと交流したんですよね」
車が発信すると豊雨は楽しげな記憶を思い出すように軽快な声色で話し出す。
「へえ、良いじゃないですか」
「そこで、彼らにリパライン語で覚えたほうが良い単語や表現を聞いたんですよね。ほら、やっぱり私、語学研修員なので」
「殊勝ですね」
ふふん、という感じで豊雨は腕を組んで、自慢げな顔をする。
「そこで、皆さんが "gustumes", "fenxe baneart", "phistil" の3つの単語を教えてくれたんですよね。意味は説明が難しいらしくて、よく分からなかったんですけど」
「それ、騙されてますよ」
「はへ?」
きょとんとする豊雨から、俺は目を逸らさずにはいられなかった。
豊雨が言った三つの表現は「言ってはいけない表現」の類だ。失敗を繰り返してきたからこそ分かる禁句を豊雨は自慢げに現地で言っていたに違いない。
俺は彼女から目を逸す。
「とにかくその表現は使わないほうが良いです。日本の外交官の面汚しになりますよ」
「えぇ~せっかく良い表現を覚えたと思ったのに……」
豊雨は両手の人差し指の先を付けて、残念がった。可愛い子ぶっているのか、自然なのかはよく分からない。
彼女が言葉の問題でどうなろうが一向に構わないが、それを俺のせいにされるのは不満だし、それで罷免されればシャリヤから遠ざかるだけだ。豊雨のリパライン語には少なくとも探りを入れて一々修正したほうが良さそうだ。
そんなことを考えながら、俺は車窓の外を眺めていた。
****
俺を降ろした公用車は、そのまま走り去っていく。目の前にあるのは "lerssergal lkurftless" の看板だった。ため息をつきながら、ガラスドアを開く。
まず手前に受付が存在した。銀髪の男性がこちらに青い目を向ける。
"Salarua, mi klie lerj ars. Co qune snutok fua lersseo?"
"Ar, mili ekcej plax."
男性は手元の帳簿を捲ってから顔を上げた。
"Snutok fua co es E'd 109. Co qune tydiestel?"
"Niv, mi klieo fqa'ct es panqate fal no."
"Mal, mi plasi la lex."
先を行く職員の男性についていく。階段を上がり、廊下を歩いている間、彼は頬をかきながら、また口を開いた。
"Lirs, jol co malfarno mels fqa?"
"Hm?"
確かに語学研修所に通うのは大変なことだが、職員の顔を見ると「勉強お疲れ様です」というより、哀れみに近い表情になっていた。
疑問に思ったが、返しは他愛も無いものしか出来なかった。
"Mer, ja, mi es xelicorje pelx deliu mi lersse lineparine fal fqa......"
"Mal, Wioll co duxien niv mal dosnud."
職員の言葉に内心首を傾げた。まるで帰国させられることが最初から定まっているような言い方だったからだ。もしかして、この語学研修に関して何か知っているのではないか?
そんな考えが浮かんだ瞬間、俺たち二人は「E109」と書かれた扉がある部屋の前に来ていた。
"Mal, mi lern. Lecu miss anfi'erlen miscaonj."
"Ar, firlex, xace......"
戻っていく職員の背中を見送ってから、俺は目の前のドアを開いた。
無機質な白い部屋には三人の研修生らしき人間が座っている。その中には昨日知り合ったニェーチの姿もあった。彼女は俺の姿を見ると、手を振って微笑みかけてくれた。
手を振り返してから、彼女の隣の席に着く。
"Salarua, kantier nat klie niv?"
"Jol si klie fal no."
そう彼女が言った瞬間、ドアが開いた音がした。
銀髪碧眼の男が厳しい目元で俺たちを見回した。その視線で部屋が凍ったようにも思えた。
"Lecu fas lersse."




