#351 夕暮れとアグリェフ
豊雨は俺をアパートじみた集合住宅に送り届けると鍵を渡すなり、そのまま車で走り去ったのだった。「アフターファイブは街に繰り出すんですよ!」とキラキラな顔で言っていたが、あのドジっぽさだと少し心配だ。
俺のシャリヤを取り戻す作戦は、突発的な事情に阻まれ続けている。今度は、強制的に語学研修所に入れられると。そして、ミスすればシャリヤ探しの旅は振り出しにまた戻ってしまう。
一つ疑問があった。なぜ、豊雨ら外交官たち――特に彼女の肩書は》だ――は語学研修所に入れられないのか。豊雨によれば、ユエスレオネ連邦は一定のリパライン語能力のある職員にのみ、この研修を課しているという。日本政府は文句を言うと思いきや、専門的な語学者をさっさと育成したいという目的で首を振らなかったらしい。その結果がこれということだ。
「はーあ」
部屋のベッドに身を投げながら、大げさにため息をつく。豊雨からはここ一ヶ月分の生活費として前金として渡されていた。夕飯を食べるついでに周りのことを把握しておくと良いと助言をもらったが、長旅の疲れからか身体がなかなか動かない。
食欲も大してないが、腹に何か入れておかないと夜中に目を覚ましそうだ。
しょうがなく身を起こして、出かける準備をしようと思ったとき、外から何やら重なるような声が聞こえた。
気になって、窓からホテルが面している大通りを見下ろす。そこでは、群衆が隊列を成して何かを唱えながら、前進していた。手に持つのはプラカードや何かが書かれた紙だ。
(何かのデモか?)
よく観察してみると、群衆のほとんどがその頭にケモミミを付けていた。プラカードの内容は "celdin dznojuli'o faut harder l'es agriefess!" と書いてある。ほとんど内容が分からないのに不安を覚えるが、あとで辞書で引いてみれば分かることだろう。
そんなことを思っていると、大通りからは群衆は過ぎ去っていた。多いのか少ないのか微妙な人数の隊列は、俺の意識に大した印象を残さなかった。ああいうのは都市にはありがちなものだし、一々気にしててもしょうがない。
インド先輩も海外では何度もそういう政治的活動を見てきたという。重要なのは巻き込まれて危険なことにならないかということだ。カメラを銃を間違えられて射殺されたカメラマンも居る。丸腰の一般人は下手に関わらないのが良いだろう。
「さて、腹ごなしに出かけるとするか」
独りごちて、掛けていた上着を取って玄関のドアノブを握った。
* * *
アパートを出て、しばらく道沿いに歩いていく。
いつしかのルーリア祭のときとは違って、街は穏やかだ。しかし、閑散というわけではない。来たときと比べると、並ぶ店先に人が増えている気がする。夕暮れどき、肩から荷が降りた人たちの楽しそうな歓談が聞こえてくる。
眺めつつ適当そうな店を探す。リパライン語で「食事する場所」は "knloanal" と言うが、それらしい表記はちらほらと見られる。数軒見て分かったが、おそらく "dynyjal" も同じような意味のようだ。
行き当たりばったりの観光に少し疲れてきたところで、俺は静かそうな店を選んでテラス席に座った。店員はメニューを持ってくると、店の中へ下がっていく。それはその直後だった。
"Ans ta...... ar, niv Calarua!"
"S, salarua."
答えるのに少し躊躇した。
目の前に現れたのは、中くらいの身長の女の子だ。髪はオレンジ色、ボリューム感のあるボブカットで、ひし形が二つ繋がったような髪留め。目は多少つり気味で、明るい黄緑。制服っぽいリーファーカラーの薄灰色の上着にネクタイを合わせ、ボトムスはパーカーを腰で結んだようなスカートだった。ユエスレオネに住んでいる人々とは一味違う服装と容姿。
そして何と言っても一番驚いたのは、その頭にイヌ耳のような耳が付いていたことだった。
"Cene mi perne fal fqa co'tj? Mer, cun, etal io pernergal mol niv ja!"
"Selene co perne felx......"
"A! Lirs, Mi'd ferlk es caniat la enor xchagul nierch! Sties mi nierch leus! Mal, harmie miss knloan jol wioll?. Me, Mi nun niv velesel stieso co ja! Harmie co veles stieso!?"
"Mm...... Ers jazgasaki.cen."
同じテーブルについた眼の前の犬耳少女――ニェーチのマシンガントークに圧倒されつつなんとか言う。もしかしたら豊雨も俺の対応をしていて、こんな気持だったのかもしれない。そう思うと少し心が痛んだ。
ニェーチは俺の名前を聞くとパアッと顔を明るくして、すぐに疑問に首を傾げた。
"La lex es ferlk fon harmie'd hartlirfa?"
"Hartlirfasti?"
"Ja, lipalain adit lanerme, linaest, et mol fal yuesleone ja. Co es......"
"Mi es niv yuesleone'd larta. Ers nihona'd larta."
俺の答えを聞いたニェーチの顔はまた好奇心に満ち満ちた。




