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#326 シェルケンは入る人間を見ている


「風邪だねえ」


 目の前で聴診器を取り外した男がそう呟いた。白い口ひげを蓄えていて、丸メガネを掛けている。ブラウンのコートを着た姿はまるで近世ヨーロッパを舞台としたアニメに登場する訪問医だ。

 彼は谷山が送ってくれた自衛隊所属の医官だった。手配は素早く、電話で通話してから数十分で飛んできたのだった。


「栄養のあるものを食べて、しっかり休めば一日で治るでしょう」

「そうですか……わざわざ、ありがとうございます」

「いやいや、丁度ここらへんをグルグル回ってるもんでね。谷山に掴まれられちゃって」

「谷山さんの知り合いなんですか?」

「知り合い……っていうか、腐れ縁だね。ほんとアイツは人使い荒いんだよねえ」


 脳裏にほんわかした感じの谷山の顔が現れる。あんな顔して人使いが荒いとは、やはり人は見かけによらないというものだ。

 医官はシャリヤのそばから離れて、俺に向き合う。


「じゃあ、私は帰るから、何かあったらまた谷山から連絡を入れてちょうだい」

「は、はい」


 俺が頷いたのを確認すると医官の男は去っていったのであった。苦しそうにベッドに横になっているシャリヤの額によく絞ったタオルをおいてやる。今、それ以上出来ることは無かった。

 何も出来ないもどかしさのままに見つめていると、シャリヤはゆっくりと口を開いた。


"Nace, cenesti......"

"Harmie co nacees."

"Cun, mi es niv suiten melx cene niv co duxien akrunfto."


 なんだ、そんなことを心配していたのか。と、言い掛けてしまった。自分の体調よりも俺のことを考えて、風邪を引いたのを悔いている。なんて健気な娘だろうか。抱きしめて愛でてやりたいほどだ。

 ただ実際、長らくリパライン語と付き合ってきたが今でもシャリヤにおんぶに抱っこ状態なのは変わらない。彼女が居ないと翻訳もなかなか難しい。しかし、今は体調を回復してもらうのが優先だ。見栄を張ってでも彼女を安心させなければ。


"Mi tisod eso la lexe'st at vynut festelo e'it e'ct."


 シャリヤは俺の言葉を聞いて、驚いたように目を見開く。


"Ers vynut festelo?"

"Ja, selene mi lap akrunft fal panqa celx tanijama celes icveo fqa."


 そういって、無造作に置いていた辞書を取り上げて、シャリヤに見せてみる。サファイアブルーの瞳が革の表面を撫でるように移動していく。

 すると、シャリヤは弱々しいながらも微笑みをこちらに向けた。


"Veleserl akrunfto is tetolerl felx jol mi es harmie'i ja."


 思わず、苦笑が自分の口から漏れてしまう。以前、何かが怖いとインリニアに笑われていたシャリヤが言った言葉 "harmie co tetol!?" を思い出したからだ。それで言ってることの合点が行った。

 酷いことを言うな、俺だって伊達にリパライン語と触れ合ってないんだぞ――とでも言ってやりたかったが、ネイティブにしてみればまだまだなのかもしれない。


"Fal la lex, dalle tisoderl, mi karx co fal akrantio lineparine. Pa, cene tetolerl elx l'es akranfterl at es vynut."


 二人でそんな冗談を笑い合う。お互いに緊張した雰囲気は解けきっていた。



 シャリヤは掛け布団をしっかりと被って寝ている。心配が無くなったからか、幾分か苦しそうな表情も少し柔いでいるようだった。さて、彼女の信頼に答えて翻訳を進めていこう。

 訳していた文章の続きから次に訳す文章を見つける。


  "Xelken xel l'en lartass. Jol coss qune elx kanteterl la lexe'st harmie'it."


(ううむ……)


 腕を組んでしまう。確かに文面通りの意味は分かるのだけど、問題は一文目だ。すなわち "Xelken xel l'en lartass." という部分が頭の中で引っかかっていた。

 「シェルケンは入る人間を見ている」と訳すのは簡単だ。しかし、これは声に出して読んで見れば分かる通り、韻を踏んだ文だ。はたしてこれをそのまま訳して良いものだろうか。


 インド先輩が教えてくれた話として、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の翻訳の話がある。小泉八雲としても著名なラフカディオ・ハーンによる翻訳は "Old pond - frogs jumped in - sound of water" である。これに対する批評はいくらでも考えられるだろうが、インド先輩は誰にでも分かる幾つかのことを確認した。

 つまり、まず俳句の音数にあっていないことである。芭蕉のこの句はこの音数の中で展開される世界である。はたしてそれを崩して、この詩のらしさを伝えられるのだろうか。次に切れ字、つまり「や」を訳しきれていないことだ。日本人にとって「古池や」はただの "old pond" なのだろうか。浅上は「俺にはなんだか大切なものが幾らか落ちてる気がする」と言っていた。

 これらの議論を総合すると、つまり韻文の翻訳は激ムズというわけだ。

 先の文に戻ると「シェルケンは入る人間を見ている」と安直に訳すのは正しいのだろうか、ということになる。


(しかしなあ……)


 思わず、ペンを指の間に回して後頭部を掻いた。こういうことを訳す時は、すぐには良い案は出てこないものだ。と、浅上は語っていた。

 実際に上手い訳し方はすぐに思いつかなかった。俺はその数単語の文に悩まされることになったのであった。



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