#255 不思議な安心感
馬車が次に止まったのは休憩から出発して数十分ほどしてからだった。ユフィアの居た街と似たような風景が目の前には広がっていた。石造りの建造物の間には商人たちがテントを構えて市民たちと取引をしている。
地図は貰ったは良いものの自分たちは何処へ行けば良いのか分からず、インリニアと馭者は地図を見ながら何やらヴェフィス語で話し合っていた。聞こえてくる言葉は理解できない。ただ、彼女たちが同じ話を繰り返しているのはなんとなく分かっていた。
そんな二人を気にせず、シャリヤは馬車の縁に片膝に手を合わせて腰掛けていた。彼女は何かを期待するような顔で空を見ている。奇妙なのは空がその曇天であることだ。星空ならまだしも、曇天を見てて楽しいのだろうか?
"Xalijasti, harmie co xel?"
冷たい風が自分たちの間を通っていった。舗装されていない地面は砂埃を舞い上げて向こうへと吹き飛ばして行く。シャリヤは風に吹かれて暴れる自分の髪を抑えながら、はっとした様子で注意を翠に向けた。鈍く煌めく銀髪はいつも通りの美しさで不思議に安心を感じた。
"Mi xel dyrilerl ja."
"Firlex......"
シャリヤはそう答えるとまた視線を戻し、今か今かと待ち望むように曇り空を見つめていた。
"dyrilerl"というのは文脈的には「空」とか「曇り空」とかを指しそうなものだが、形態素的には"dyril"と"-erl"に分かれそうな気がする。それじゃ、"dyril"は文脈的に「曇らせる」とかだろうか。
天候の名前が動詞を元にしているということはある程度動作主も想定される。リパライン語では今まで再帰動詞のような表現も見られなかったわけで「空自身が自らを曇らせる」という訳でもなさそうだ。
シャリヤたちは一体誰が空を曇らせると考えているんだろうか。気になった俺は彼女の元に寄って空を指差して示した。
"Harmae dyril fgir?"
"......? Harmae celes dyril dyrilerle'c? Selene co nun la lex?"
"Ar...... ja?"
彼女への一応の応答と共に急いで頭の中の整理に取り掛かる。
"dyril"はどうやら動詞ではなさそうだ。使役動詞"celes"の目的語として取られているから、確かに動詞にも見えるがそれならば動名詞語尾"-o"が付いているはずなので違うのだろう。
リパライン語で動詞の目的語として形容詞を単独で取ることは見たことが無い。すると、自ずと"dyril"の品詞が名詞なのだろうというのが分かってくる。
"Mal, dyril es harmie?"
"Hmm...... La lex es estvarn fgir."
"Mal, dyrilerl es......?"
"...... ...... n!"
シャリヤは両手を空に向けて必死に横にわたわたさせる。その後できょとんとした顔でこちらを見てくる。どうやら言葉による説明を諦めてインリニアに言われたとおり具体的な例を出して説明しようとしているらしい。ただ、その仕草が可愛すぎて数秒間説明が頭の中に入ってこなかった。
つまり、整理すると"dyrilerl"が「空」を表し、"dyril"は「青空、晴れ」を指すということなのだろう。"dyril"に関しては完全に最初と想定していた意味が反転してしまった。ただ、今ひとつ腑に落ちないのは"dyril-erl"でなぜ「空」なのかということだ。"dyril-al"ならまだしも、動作の対象を名詞化する"-erl"を使っているのが謎だ。
"Xalijasti, Harmy kraxaiun l'es ≪dyrilerl≫ veles laoziao faller ≪dyril≫ ad noleu l'es ≪-erl≫?"
手をわたわたさせたせいで疲れてしまったのかため息をついていたシャリヤに続けて質問を投げる。しかし、彼女は少し悩ましげに眉を下げるとフェードインするように声を出した。
"Mer...... Metista, cun dyrile'd cirla'd xelerl es dyrilerl ja. Penul lkurfel io la lexe'd qa'd kraxaiun es ≪dyril≫ zu es panqa'd kraxaiun."
"Hmm, firlex......"
なんだか"dyril"は「曇り」でも「晴れ」でも無いような気がしてきた。いや、"estvarn fgir"と言っていた以上、晴れも含むことになるのだろうがそれ以上にリパライン語話者の根源的なものを感じる。"dyrilerl"としての「空」以前にそれを「空」たらしめていた本質的なものを感じる。リパライン語話者たちはそれが「晴れ」を内包する原初であって、"dyrilerl"を成立させる根源だと考えているのだ。
"...... Dyrilerl is xale dyril elx liaxa alson es forla ja?"
"Ja, pa Co'd lkurftless es xale durxe."
シャリヤの横に座って一緒に灰色の空を見上げた。語源から彼女の深層が分かった気がして心の中が暖まった。肩を合わせて見る空は言葉や意識の違いで分断されたものではなくて、同じものを見ている気がしていた。




