#210 観光しよう!
玄関の前に立っていたのは一人の女性だった。銀髪の長いポニーテールのその乱雑さが暗い廊下の少ない光を反射して光っている。淡い色の服装は一見目立たないが、その顔を見ただけで機関銃片手に戦うワンマンアーミー司書が脳裏に蘇ってくる。驚きと安心が隠せない様子で翠を見つめるのはヒンゲンファール女史であった。
何事かと部屋から出てきたシャリヤたちもヒンゲンファールを見ると翠は良く意味を理解できなかったが、口々に安心したといったような言葉を紡いでいた。
"Mi tydiest niv, hinggenferlesti. Cun, fi es iulo'i xale la lex, cosse'd sietivo is ny vynut."
ヒンゲンファールを見たミュロニユは相変わらず無表情で、言葉に生気が無いような感じで言い放った。シャリヤたちは何の話か良く分かっていない様子だった。しかし、翠には先程聞いた裁判所に訴えるかどうかという話であろうということは分かっていた。だからこそ、ミュロニユが一体どのような感情でその言葉を言っているのか、翠には全く読み取ることが出来なかった。
"Edixa firlex. Mal, mi tydiest cen'tj."
そういってヒンゲンファールはいきなり翠の両肩を持った。何故急にこちらに話が来るのか皆目見当が付かなかった。しかも、シャリヤは何故か恨めしそうにこちらを見てくる。フェリーサは元気が有り余っているようだ。ミュロニユは"firlex,"とだけ言って台所仕事に戻ってしまった。結果的に反対する者もなく、ヒンゲンファールさんと裁判所に行くことになったのであった。
ミュロニユたちの住居から少し離れると港らしき場所が見えてくる。涼しい潮風が肌に触れるとここが海辺であるということがはっきりと感じられた。港と言うよりちょっとした船着場という感じで、漁船くらいの小型の船がいくらか浮かんでいる。どうやら漁業が盛んらしい。船着場からは近くには点々と小島が続いているのが見えた。PMCFは恐らく日本のような島国なのだろう。
ヒンゲンファールはそんな風景に目もくれず、船に乗るために切符のようなものを買おうとしていたが、フェリーサがそれを止めた。
"Fe dosyt la lex xale mors."
"......?"
フェリーサに先導されて止まっている漁船の脇を通っていく。彼女は漁船を値踏みするようにつぶさに観察しながら、ヒンゲンファールのほうを一瞥した。
"Harmue miss tydiest?"
"Jopp...... Ers faci'erlavili'a flarskaval fon makati."
"Hmm."
ヒンゲンファールの返答に対して適当に相槌を返すと、人が乗っている漁船を見つけてそちらへと近づいていった。アイル語が全く分からない翠たちにとっては何も出来ないだろうと思って、フェリーサの様子を遠目に眺めていたがややあって彼女は大きく手招きした。近づくと漁師であろうおじさんはフェリーサを横目に出港の準備を進めている様子だった。
"Nienul!"
ヒンゲンファールとシャリヤ、翠はお互いの顔を見合わせた。それが「乗れ」という合図であることはなんとなく分かっていた。翠たちがフェリーサに従って漁船に乗り込むと何事もなかったかのように船は出港した。どうやら、島の間での移動は漁船に乗せてもらうのが現地人のセオリーらしい。恐らくそれだけPMCFの島の数は多いのだろう。
波に揺られ始めるとシャリヤは青ざめながら、ずっと翠に引っ付いていた。船酔いという感じでもなく、何かに怯えているらしく体が震えていた。
"Co es vynut, xalijasti?"
"...... mi ydicel sistis......"
シャリヤの言葉は翠の上着の中に顔を埋めて、はっきりしない発音だった。だが、何が怖いのかは大体分かっている。"sistis"は恐らく海のことなのだろう。理由ははっきりしないが、インド先輩も砂浜は大丈夫だけど港が無性に怖いらしい。まあ、怖く思うことに理由を求めてもしょうがないだろう。
ヒンゲンファールさんは立って風景を楽しんでいるようだったし、フェリーサは漁の手伝いをしているようだった。翠はシャリヤの背中を撫でながら、ぼーっと島が並ぶ風景に目をやっていた。
一時間ほどすると船は別の島の船着き場に付いていた。シャリヤはいつの間にか寝ていたらしい。起こしてやると可愛らしく欠伸をして、伸びをした。船から降りると漁師のおじさんは手を振りながら、船のエンジンを再度動かして元の島へと戻っていった。
"Mal, mi tydiest flarskaval'c mal lkurf mal klie fqa'c fasta panqa'd liestu. Xvelises karxal cossa'st."
"Cene miss xvelises?"
シャリヤはヒンゲンファールの言葉に目を輝かせた。サファイアブルーの瞳が光に満ちてとても嬉しそうだった。シャリヤをそこまで笑顔にさせる"xvelises"とは一体何なのだろう。
"<Xvelises> es harmie?"
"Edixa co tydiest melx wioll co firlex!"
そう言って笑顔のシャリヤは翠の右手をとって走り始めた。慌てたフェリーサが後から追いかけてくる。ヒンゲンファールはそんな様子を見ながら微笑んでいた。
"Klie fqa'c fasta panqa'd liestu ti!"
ヒンゲンファールの忠告の声が聞こえてくる。シャリヤは後ろを振り向いて"Ja!"と明るく答えた。いきなり止まったせいで彼女に激突するかと思ったし、いきなり走り出すので息も上がってしまった。フェリーサもやっとのことで追いついてくるが、その顔は生き生きとしていた。彼女たちが楽しければそれが翠にとっては一番だった。




